『存在と時間』を読む Part.74

  第70節 現存在にふさわしい空間性の時間性

 時間性との関連では、当然ながら空間性も重要な意味をもちます。ハイデガーは世界内存在にとって空間は、道具連関の存在場所として登場することを指摘していました。「わたしたちは手元的に存在するものに、それぞれに固有の環境世界的な空間において出会うが、この出会いが存在者的に可能となるのは、現存在自身がこの世界内存在というありかたのために〈空間的〉であるからにほかならない」のでした(Part.21参照)。実存論的な観点からは、時間性は空間性よりも重要な意味をもちます。現存在の存在機構は、本質的に時間性によって成立するものであるため、現存在に特有の空間性もまた、時間性を根拠にしなければなりません。

 現存在のもつ空間性が、眼前的な存在者の占める場所の空間性とは異なるものであることは、すでに第22節で詳しく考察されてきました。さらに手元的な存在者が占める場所の空間性も、こうした眼前的な存在者の空間性とは異なります。現存在の周囲に配置された手元的な存在者は、現存在にとっては手の届く「近さ」にあります。こうした手元的な存在者は、「辺り」に存在しているのであり、手元的な存在者の場所の多様性は、「辺り」によって方向づけられるのです。

Zur Einräumung des Daseins gehört das sichausrichtende Entdecken von so etwas wie Gegend. Mit diesem Ausdruck meinen wir zunächst das Wohin der möglichen Hingehörigkeit des umweltlich zuhandenen, platzierbaren Zeugs. (p.368)
現存在が空間を許容することには、みずからの方向づけをしながら”辺り”のようなものを発見することが属している。この〈辺り〉という表現でさしあたりわたしたちが考えているのは、環境世界的に手元的に存在して、配置することのできる道具が〈どこに〉所属すべきかという場所のことである。

 現存在は世界内存在として、手元的な存在者に囲まれて生きているのであり、さしあたりはこうした存在者との「辺り」を発見しながら、自分の存在する場所を確認しています。このことはすでにこれまでの存在論的な考察で明らかにされていました。この節ではさらにハイデガーは、こうした「辺り」の時間的な意味を明らかにすることを試みます。現存在がこのように「辺り」のようなものをみいだすことができるのは、現存在が時間の脱自的な構造のもとで存在しているからです。
 手元的な存在者は適材適所性によってある場に所属しているのであり、これは事実的にはつねに、配慮的に気遣われた道具の適材適所性の連関に基づいて決定されます。現存在が道具のような世界内部的な存在者に出会うことができるためには、世界の地平が開示されている必要がありますが、これを可能にしているのは世界の脱自的な構造でした(Part.73参照)。したがって「環境世界的に手元的に存在して、配置することのできる道具が〈どこに〉所属すべきかという場所」、すなわち「辺り」は、このような世界の脱自的な性格に根拠をおいています。

Das sichausrichtende Entdecken von Gegend gründet in einem ekstatisch behaltenden Gewärtigen des möglichen Dorthin und Hierher. Das Sicheinräumen ist als ausgerichtetes Gewärtigen von Gegend gleichursprünglich ein Nähern (Ent-fernen) von Zuhandenem und Vorhandenem. (p.368)
みずからの方向づけを決めながら〈辺り〉を露呈させることができるのは、可能な〈あちらに〉や〈こちらに〉を、脱自的に保持しながら予期するからである。みずからに空間を許容することは、方向づけられながら〈辺り〉を予期することであるとともに、それと等根源的に、手元的な存在者や眼前的な存在者を近づけて、距離を取ることである。

 「許容する」と訳したドイツ語>einräumen<には「空間(>Raum<)」を示す語が含まれており、辞書的には「所定の位置におく、~のために場所を空ける、容認する」という意味をもつ動詞です。この語の「容認する」の意味は、「わたしは~ということを認める」ということであり、世界において出会う何らかの出来事から、自分自身に立ち戻るような空間的なニュアンスをもっています。ですから、>einräumen<には手元的な存在者のために場所を空けるといった能動的な意味と、そこからみずからをみいだすという受動的な意味の両方を含んでいることを念頭にいれておきましょう。
 「辺り」が手元的な存在者の空間性であるとすれば、現存在が世界において許容する空間性は、「距離を取ること」と「方向づけ」です。「距離を取ること」については、第23節において「実存カテゴリー」であることが指摘され、現存在が自分の周囲の手元的な存在者とのあいだで「近さ」という関係を作りだすことが語られていました。「〈距離を取る〉とはさしあたりたいていは、目配りによって近づけること、近さへともたらすことであり、すなわち調達すること、準備すること、手元に用意しておくこと」であり、このように現存在は、存在者をその近さにおいて出会わせて存在しているのです。
 また「方向づけ」については、現存在は手元的な存在者との「距離を取る」ときにつねにその存在者について「方向」を定めていること、あるいはそうした存在者によって自分の方向を定めていることが確認されていました。現存在が道具などについて目配りしながら配慮的に気遣うということは、方向づけをしながら距離を取るということであるのであり、「〈距離を取る〉ことと〈方向づけ〉は、内存在を構成する性格なのであり、露呈された世界内部的な空間のうちで、配慮的な気遣いによって目配りしながら存在している現存在の空間性を想定するもの」だと指摘されていました(Part.22参照)。
 このように、現存在がみずからに空間を許容する働きは、〈方向づけ〉と〈距離を取ること〉によって構成されますが、この2つの特徴は現存在の時間性という観点からはどのように理解されるのでしょうか。すでに「辺り」でも確認されたように、現存在は日常的に手元的な存在者を自分の周囲に保持しながら暮らしてきました。この保持の「既往」の時間性のもとで、現存在はすでに道具的な連関のうちに生きています。そしてこの連関と、道具の適材適所性にもとづいて、現存在は「将来」の時間性のもとで、自分のこれからの行動を計画し、予期することができるのです。
 このように現存在は、「既往」の時間性によって可能となる保持と、「将来」の時間性に向けて行われる予期に基づいて、今という「現在」の瞬間において何らかの決断を下して行動することが可能となります。

Aus der vorentdeckten Gegend kommt das Besorgen ent-fernend auf das Nächste zurück. Näherung und imgleichen Schätzung und Messung der Abstände innerhalb des ent-fernten innerweltlich Vorhandenen gründen in einem Gegenwärtigen, das zur Einheit der Zeitlichkeit gehört, in der auch Ausrichtung möglich wird. (p.369)
配慮的な気遣いは、あらかじめ露呈されていた〈辺り〉のほうから距離を取りつつ、もっとも身近なところに立ち戻ってくるのである。近づけることは、そしてそれと同時に、距離を取られた世界内部的で眼前的な存在者の間の間隔を見積もり、測定することは、現在化に基づくものである。この現在化は時間性の統一性に属するものであり、そこにおいてこそ方向づけも可能になるのである。

 このように配慮的な気遣いは、既往の時間性のもとで「あらかじめ露呈されていた〈辺り〉のほうから距離を取りつつ、もっとも身近なところに立ち戻ってくる」のであり、現存在は時間性として、その存在において脱自的かつ地平的であるから、現存在は事実的かつ不断に、許容された空間を自分とともに携えることができるのです。

 ただし現存在は世界において実存するだけではなく、多くの場合は頽落して存在しています。この頽落は気遣いの本質的な構造だからです。

Dessen existenzial-zeitliche Konstitution ist dadurch ausgezeichnet, daß in ihm und damit auch in der >gegenwärtig< fundierten Näherung das gewärtigende Vergessen der Gegenwart nachspringt. (p.369)
この頽落の実存論的かつ時間的な構成には、この頽落のうちで、そして「現在化」によって基礎づけられた〈近づけること〉のうちで、予期しつつある忘却が、現在を追い回しつづけるという顕著な特徴がある。

 このような現在化は、将来の契機にあたる「みずからのために」ではなく、ただ現在化するのために現在化するようになるのです(Part.70参照)。

In der nähernden Gegenwärtigung von etwas aus seinem Dorther verliert sich das Gegenwärtigen, das Dort vergessend, in sich selbst. Daher kommt es, daß, wenn die >Betrachtung< des innerweltlichen Seienden in einem solchen Gegenwärtigen anhebt, der Schein entsteht, es sei >zunächst< nur ein Ding vorhanden, hier zwar, aber unbestimmt in einem Raum überhaupt. (p.369)
あるものを〈あちらから〉近づけながら現在化させると、現在化する働きがその〈あちら〉を忘却してしまい、現在化そのもののうちで自己喪失してしまう。このことから、世界内部的な存在者の「観察」がこのような現在化のうちで始まるときには、「さしあたり」ある事物がここに眼前的に存在しているようにみえるが、たしかに〈ここ〉ではあっても、それが空間一般のうちでは無規定なままの〈ここ〉のようにみえる仮象が発生するのである。

 現存在が自己の実存において先駆的な決意性のもとにあるのではなく、空間的に「あちらにある」手元的な存在者のほうから自分をみいだすようになると、「現在化する働きがその〈あちら〉を忘却してしまい、現在化そのもののうちで自己喪失してしまう」ことになります。そしてほんらいは現存在の「そのための目的」のために存在していた手元的な存在者も、「ここに眼前的に存在している」かのような仮象のもとで存在していると思われるのです。
 頽落においては現在化が現在化のために働くようになるので、このような非本来的なありかたにおいては、将来と既往にたいして現在が優位に立つようになります。そしてそのために頽落においては、空間が時間よりも優位になるのです。

Wesenhaft verfallend, verliert sich die Zeitlichkeit in das Gegenwärtigen und versteht sich nicht nur umsichtig aus dem besorgten Zuhandenen, sondern entnimmt dem, was das Gegenwärtigen an ihm als anwesend ständig antrifft, den räumlichen Beziehungen, die Leitfäden für die Artikulation des im Verstehen überhaupt Verstandenen und Auslegbaren. (p.369)
時間性はその本質からして頽落しており、現在化のうちで自己を喪失し、配慮的に気遣われた手元的な存在者のほうから、目配りによってみずからを理解するようになる。それだけではなく時間性は、理解において一般に理解され、また解釈されうるものを分節するための導きの糸を、空間的な関係のうちから取りだしてくるのである。現在化は、手元的な存在者に即して現存しているものとして、不断にこの空間的な関係に出会うからである。

 頽落した現存在は「現在化のうちで自己を喪失し、配慮的に気遣われた手元的な存在者のほうから、目配りによってみずからを理解するようになる」のであり、それだけに「理解において一般に理解され、また解釈されうるものを分節するための導きの糸を」、時間性の地平においてではなく空間的な関係のうちにみいだすようになってしまうのです。


 第70節は以上になります。今回は、現存在に固有の空間性が時間性に基づいくものであることが解明されました。現存在の日常性の時間的な分析も次の節で最後になります。

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