『存在と時間』を読む Part.70

  (c)頽落の時間性

 これまでの分析で理解の第1義的な時間性が将来であり、情態性の第1義的な時間性が既往性であることが確認されてきました。現存在の世界内存在の開示性の3つの契機の1つとして分析の課題の対象となった残りの1つである頽落の時間性は、現在ということになります。
 この頽落の時間性の分析においてハイデガーは、頽落の3つの存在様態のうちで、好奇心の分析だけに限定しようとします。残り2つの様態である世間話と曖昧さの分析には、語りと解釈の時間的な構成について明らかにしておく必要があると考えるからです。

 好奇心は、わたしたちの誰もがもっている傾向です。わたしたちは新しい知識をもちたがり、新しい出来事について知りたがり、ときには他人の秘密を知りたがります。好奇心が新しい知識をもたらすものである場合には、それは現存在にとって生の新たな地平を切り開くために役立つものとして好ましいものでしょう。しかしそれが現存在の生にとって何の役にも立たないゴシップを知りたがるものであれば、それは現存在の実存のためには好ましくない働きをするものとなるでしょう。
 すでに第36節において、理解の重要な頽落形態としての好奇心について考察し、その3つの重要な構成契機が列挙されていました。「落ち着きのなさ」「気晴らし」「所在のなさ」です。世界の外見だけに魅惑された現存在は、見慣れないもの、遠くにあるものを見たがります。「好奇心はただ新奇なものを求めるだけであり、しかもそこからまた別の新奇なものに跳び移るため」だと指摘されていました。これが第1の「落ち着きのなさ」の契機です。現存在はこのように落ち着きなく、次々と新奇なものを求めますが、それは「つねに新たなものに出会うことを求め、それによって生まれる不断の活動と興奮を求める」ためです。これが第2の「気晴らし」の契機です。
 このように好奇心の重要な契機は、「配慮的に気遣われる環境世界における”落ち着きのなさ”と、新たな可能性を求める”気晴らし”」です。さらに「好奇心はいたるところにいるが、どこにもいない」という性格をそなえており、それは「所在のなさ」と呼ばれることになります。
 この(c)項の分析も、これら3つの構成契機に依拠して、好奇心の時間性を明らかにしようとします。第1に好奇心は落ち着きのないものとして、ある存在者のもとにたちどまって、それを理解するために、そのものを現在化するのではなく、ただ見るために見ようとします。

Die Neugier wird konstituiert durch ein ungehaltenes Gegenwärtigen, das, nur gegenwärtigend, damit ständig dem Gewärtigen, darin es doch ungehalten >gehalten< ist, zu entlaufen sucht. Die Gegenwart >entspringt< dem zugehörigen Gewärtigen in dem betonten Sinne des Entlaufens. (p.347)
好奇心は、落ち着きのない現在化によって構成されているが、これはたんに現在化するだけであって、それによって不断に、予期することから逃げだそうとしている。そしてこの現在化は落ち着きはないものの、この予期することのうちに「落ち着かされて」いるのである。この好奇心の現在は、それに属する予期から、逃げだすという強調された意味で「跳びだすように出てくる」のである。

 好奇心は、現在化の時間性のもとにあるのであり、この「落ち着きのなさ」は、眼にするものを次から次へと現在化することを目指すのです。それが「現在化は落ち着きはないものの、この予期することのうちに〈落ち着かされて〉いる」ということです。
 第2に好奇心はつねに新しいものを求め続ける「気晴らし」を特徴とします。この特徴についてハイデガーは、好奇心のもとでは現在が「跳びだすように出てくる」という興味深い性格づけをしています。好奇心のまなざしは落ち着きなく次から次へと移動しますが、その移動に伴って、好奇心の対象がもぐら叩きのように、次から次へと頭をもたげてくるのです。好奇心は1つのもぐらを叩くと、次に跳びだすもぐらを待ち構えて、それを叩こうとします。

Das >entspringende< Gegenwärtigen der Neugier ist aber so wenig an die >Sache< hingegeben, daß es im Gewinnen der Sicht auch schon wegsieht auf ein Nächstes. Das dem Gewärtigen einer bestimmten ergriffenen Möglichkeit ständig >entspringende< Gegenwärtigen ermöglicht ontologisch das Unverweilen, das die Neugier auszeichnet. (p.347)
このように好奇心における「跳びだすように出てくる」現在化は、見たがっている「事柄」に専念するどころか、それについての〈まなざし〉を確保しおえると、すでに次の新しいものへと目移りしているのである。この現在化は、ある特定のつかみとられた可能性の予期から、不断に「跳びだすように出てくる」ものであり、存在論的にはこれが好奇心の特徴である”たちどまることを知らないこと”を可能にするのである。

 好奇心は1つの物事についてそれを理解しようと立ちどまるのではなく、表面的に見ただけで次の新しいものへと目移りします。そこには生についての真剣さが欠けているのであり、すなわちこれが非本来的なありかたであることは、言うまでもないでしょう。

Die ekstatische Modifizierung des Gewärtigens durch das entspringende Gegenwärtigen zu einem nachspringenden ist die existenzial-zeitliche Bedingung der Möglichkeit der Zerstreuung. (p.347)
このように予期から〈跳びだすように出て〉きた現在化のために、脱自的な予期は変様をこうむり、〈後を追って跳びだしてくる〉予期となる。この変様こそが”気晴らし”が可能となるための実存論的かつ時間的な条件である。

 「〈後を追って跳びだしてくる〉予期」とは、次から次へと新しいものに向かって跳びだす現在化に応じるために、そのような新しいものを現在化に提供する予期が現在化についてくるということを意味します。これによって好奇心は、それが求めるまま現在化するのです。
 第3に好奇心は、このような変様を負い続ける「気晴らし」のために、現在化することを自己目的とします。

Durch das nachspringende Gewärtigen wird das Gegenwärtigen mehr und mehr ihm selbst überlassen. Es gegenwärtigt um der Gegenwart willen. So sich in sich selbst verfangend, wird das zerstreute Unverweilen zur Aufenthaltslosigkeit. Dieser Modus der Gegenwart ist das äußerste Gegenphänomen zum Augenblick. In jener ist das Da-sein überall und nirgends. Dieser bringt die Existenz in die Situation und erschließt das eigentliche >Da<. (p.347)
このように〈後を追って跳びだしてくる〉予期のために、現在化はますます野放しになる。現在化は、現在のために現在化するようになる。このようにして〈気晴らし〉をしつつ〈たちどまることを知らないこと〉は、みずからに囚われつつ、”所在のなさ”になる。現在のこの〈所在のなさ〉という様態は、”瞬視”とはまったく正反対の現象である。”所在のなさ”においては、現-存在はどこにもいて、どこにもいない。”瞬視”は実存を状況のうちに連れだし、それに本来的な〈そこに現に〉を開示するのである。

 この〈所在のなさ〉は現在化として、瞬視と同じように現在の時間性に属するものですが、ハイデガーはこの好奇心のまなざしを瞬視と比較することで、好奇心の頽落のありかたを強調してみせています。また瞬視は先駆的な決意性によって、現存在は自己に固有の存在可能に直面するようになるのですが、好奇心ではますます特定の可能性から、それを閉ざしながら逃げるようになります。このように好奇心において現存在は、自己に固有の存在可能を忘却し、自己を忘却しているのです。

Im >Entspringen< der Gegenwart liegt zugleich ein wachsendes Vergessen. Daß die Neugier immer schon beim Nächsten hält und das Vordem vergessen hat, ist nicht ein Resultat, das erst aus der Neugier sich ergibt, sondern die ontologische Bedingung für sie selbst. (p.347)
現存在の「跳びだすように出てくること」において、同時に自己忘却がますます大きくなるのである。好奇心はつねにすでに次に訪れるもののもとにとどまり、それ以前のことを忘却してしまう。これは好奇心そのもの”から”初めて生まれてくる結果のようなものではなく、好奇心そのものの存在論的な条件なのである。

 こうして好奇心は、現在化の時間性において、現存在にさまざまな誘惑を与えることになります。次から次へと新しい興味深いものを提示することによって、現存在は次に訪れる新しいものを予期しながら、自己を忘却するようになるのです。この自己の忘却は、現在の時点におけるものだけではなく、将来の時点においても実現されます。現存在はみずからにもっとも固有の存在可能から疎外されてしまうのです。現存在は現在化の時間に固執しつづけるために、本来的な将来と既往性に基づく存在可能から疎外されているのであり、将来と既往の時間性のもつ意味もまた忘却してしまうのです。このことは逆に言えば、〈跳びだすように出てくる〉現在のもつ頽落的な時熟のありかたが、好奇心を引き起こすのであり、現存在の頽落的な時熟のありかたが、好奇心を刺激しつづけるのです。

 このように現存在が頽落することは、ある意味では現存在の時間性がもたらす必然的な結果です。これは奇妙な逆説であり、本書においてハイデガーが直面していた重要な問題点を明らかにするものです。現存在の頽落が必然的なものであることについて、ハイデガーは2つの側面から語っています。
 第1の側面は、現存在が「死に臨む存在」であることを自覚し、そこに先駆的な決意をもって直面しようとするのは、現存在の根源的な時間性によるものですが、頽落はこの時間性と切り離すことができないという逆説にかかわるものです。現存在はたんに眼の前に「跳びだして」くる目新しいものに注意を惹かれて自己を忘却するわけではなく、もっと根源的な理由がひそんでいるのです。

Der Zeitigungsmodus des >Entspringens< der Gegenwart gründet im Wesen der Zeitlichkeit, die endlich ist. In das Sein zum Tode geworfen, flieht das Dasein zunächst und zumeist vor dieser mehr oder minder ausdrücklich enthüllten Geworfenheit. Die Gegenwart entspringt ihrer eigentlichen Zukunft und Gewesenheit, um erst auf dem Umweg über sich das Dasein zur eigentlichen Existenz kommen zu lassen. Der Ursprung des >Entspringens< der Gegenwart, das heißt des Verfallens in die Verlorenheit, ist die ursprüngliche, eigentliche Zeitlichkeit selbst, die das geworfene Sein zum Tode ermöglicht. (p.348)
現在が「跳びだすように出てくる」という時熟の様態をとることは、”終わりのある”時間性の本質に基づくものである。現存在は〈死に臨む存在〉へと投げ込まれていて、さしあたりたいていは、多少とも明示的にあらわにされた被投性を前にして、そこから逃走する。現在はみずからの本来的な将来と既往性から〈跳びだすように出てくる〉のであり、現存在を本来の実存に向かわせるためには、この現在そのものを超えていく迂回路を経由しなければならない。現在が「跳びだすように出てくる」ことの根源は、すなわち現在が自己喪失のうちに頽落していることの根源は、根源的で本来的な時間性そのものにあり、それが〈死に臨む存在〉に被投された存在を可能にするのである。

 頽落はある意味では世界に生きる現存在にとって避けがたい存在様態であり、「根源的で本来的な時間性」そのものから生じてくる必然的な事態だとみなされています。それでは現存在はどのようにして頽落から抜け出して、真の意味で実存することができるのでしょうか。この必然性はどのようにして乗り越えることができるのでしょうか。
 第2の側面は、現存在は自分が世界の中に被投された存在であること、死すべき存在であることを自覚し、それによってみずからを本来的に理解することができるのですが、その被投性が存在者的に〈どこから〉、〈どのように〉生まれたのかということは、現存在には閉ざされたままであることにかかわります。現存在がなぜ〈そこに現に〉存在する存在者なのか、これは知ることができません。ここで重要なのは、現存在のこの無知を作りだしている条件が同時に、現存在の実存を作りだしている条件であるという逆説的な事態です。
 現存在は、自分が世界のうちに投げ込まれるようにして生まれてきたことの根拠も、理由も、その由来も知ることができません。しかし現存在のこの無知は、現存在の事実性を構成するものです。現存在はこの無知に引き渡されているのですが、現存在の実存の脱自的な性格もまたこれによって生まれたものです。

Sie bestimmt mit den ekstatischen Charakter der Überlassenheit der Existenz an den nichtigen Grund ihrer selbst. (p.348)
それは実存がみずからの無的な根拠に引き渡されていることによって生まれた”脱自的な”性格をともに規定しているのである。

 現存在が頽落しているのも、さらにこのように無知の状態に置かれているのも、現存在が世界で生きるための条件です。そしてこのような否定的な条件こそが、現存在が脱自的な存在であり、時間性が脱自態であることを可能にするための条件なのです。そうだとすると、現存在の実存はこのような頽落と無知によって可能になっていると言えるのです。それでは現存在はどのようにしてこの頽落と無知から抜けでることができるのでしょうか。
 ハイデガーはこの難問に、ここで答えようとはしません。現存在が現在の地平のもとで生きるかぎり、この状態から脱出することはできないでしょう。

Die Gegenwart, die den existenzialen Sinn des Mitgenommenwerdens ausmacht, gewinnt von sich aus nie einen anderen ekstatischen Horizont, es sei denn, sie werde im Entschluß aus ihrer Verlorenheit zurückgeholt, um als gehaltener Augenblick die jeweilige Situation und in eins damit die ursprüngliche >Grenzsituation< des Seins zum Tode zu erschließen. (p.348)
このように現存在が世界のうちに引きずられていることの実存論的な意味を作りだすのは現在であるが、現在がみずからのうちから、他の脱自的な地平を作りだすことは決してない。もしもそうした地平を作りだすことがあるとすれば、それは現存在が決断において自己喪失の状態から連れ戻されて、保持された瞬視として、そのつど状況を開示し、それとともに〈死に臨む存在〉という根源的な「限界状況」を開示するときだけである。

 跳びだすように出てくる現在化は、現在のために現在化するのであり、「現在がみずからのうちから、他の脱自的な地平を作りだすことは決してない」と言えます。そしてこの状況から脱出するためには、「存在が決断において自己喪失の状態から連れ戻されて、保持された瞬視として、そのつど状況を開示し、それとともに〈死に臨む存在〉という根源的な〈限界状況〉を開示する」ことが必須でしょう。
 しかしこのように言い換えても、問題は解決しません。現存在が置かれている頽落の状況と無知の状況が必然的なものであるだけに、このような開示がどのようにして可能となるのかという問いは、答え難いものとなっています。「先駆的な決意性」という言葉だけでは、この難問を解決するのは困難に思えます。ハイデガーがこのような難問を自覚していたことは、この部分で明らかに示されているのであり、そこにハイデガーの理論的な誠実さをみることができるでしょう。


  (d)語りの時間性

 現存在の開示性はこれまで理解、情態性、頽落という3つの構成要素によって考察されてきましたが、ハイデガーはこれらの構成要素を「分節する」ものとして、「語り」という第4の要素を提起しているので、語りについてもその時間性が検討されることになります。ただしこれらの3つの構成要素について、すでに将来、現在、既往という3つの時間的な契機が割り当てられているので、語りにこれらのいずれかの時間的な契機が割り当てられることはありません。それでも語りは、現存在が世界について配慮的な気遣いに基づいて他者に語りかけるものであって、その際に現在化が優勢的な構成機能をはたすと考えられるのは当然でしょう。
 ただし言語には複雑な時間的な現象があります。言語は過去のことについて語ることも、未来のことについて語ることもできますし、時間の中で出会う出来事についても、心的な時間の中で起こる出来事についても語ることができます。ハイデガーは、言語にはこうした時間的な性格があるために、時称や言語学的な時間相などが生じると指摘しています。

Die Rede ist an ihr selbst zeitlich, sofern alles Reden über ..., von ..., und zu ... in der ekstatischen Einheit der Zeitlichkeit gründet. (p.349)
すべての〈~について〉〈~にかんして〉〈~に向かって〉語る語りは、時間性の脱自的な統一に基づいているからこそ、語りは”それ自体において”時間的なのである。

 語りが時間的なのは、言語的に時間的な現象を表現することができるからではなく、時間性に基づいているからこそ、語りはそれ自体で時間的なのです。ですから現存在の時間性についての考察を抜きにしては、言語学だけで語りの現象を理解することはできないと、ハイデガーは主張します。
 ただしハイデガーは『存在と時間』では、語りの時間性そのものについての考察を展開することはありません。語りは第1義的には、認識についての理論的な言明という意味のものではありませんが、それでもつねに存在者について語るものです。これは語りの時間的な構成を分析し、言語によって形成されたものの時間的な性格を説明するためには、時間性という問題構成において、存在と真理の原理的な連関という問題についての考察という巨大な難問とかかわることが避けられないことを意味します。これはある意味では本書の全体をもって取り組みべき課題であり、存在の意味への問いを具体的に仕上げるという本書の考察の枠組みを超えるような意味をもつ課題です。

Dann läßt sich auch der ontologische Sinn des >ist< umgrenzen, das eine äußerliche Satz- und Urteilstheorie zur >Kopula< verunstaltet hat. Aus der Zeitlichkeit der Rede, das heißt des Daseins überhaupt, kann erst die >Entstehung< der >Bedeutung< aufgeklärt und die Möglichkeit einer Begriffsbildung ontologisch verständlich gemacht werden. (p.349)
これによってこそ、「である」という語の存在論的な意味も画定することができるようになるだろう。表層的な命題論と判断論によって、この語の意味は「繋辞」の意味にゆがめられてしまったのである。語りの時間性、すなわち現存在一般の時間性に基づくことで初めて、「意義」の「発生」について解明することができるようになるのであり、概念が形成される可能性についても存在論的に理解できるようになるのである。

 ハイデガーの目指す存在論は、いずれこのような問題に取り組むことになるでしょう。しかしこうした問題は本書の課題ではないのであり、本書では現存在の開示性の時間性というテーマを考察するために、わずかに第69節で考察が展開されるにとどめられることになります。

 本節の最後では、これまで展開されてきた時間性についての考察の要点がまとめられます。これはわかりやすいので、少々長いですがそのまま引用します。

Das Verstehen gründet primär in der Zukunft (Vorlaufen bzw. Gewärtigen). Die Befindlichkeit zeitigt sich primär in der Gewesenheit (Wiederholung bzw. Vergessenheit). Das Verfallen ist zeitlich primär in der Gegenwart (Gegenwärtigen bzw. Augenblick) verwurzelt. Gleichwohl ist das Verstehen je >gewesende< Gegenwart. Gleichwohl zeitigt sich die Befindlichkeit als >gegenwärtigende< Zukunft. Gleichwohl >entspringt< die Gegenwart aus, bzw. ist gehalten von einer gewesenden Zukunft. Daran wird sichtbar: Die Zeitlichkeit zeitigt sich in jeder Ekstase ganz, das heißt in der ekstatischen Einheit der jeweiligen vollen Zeitigung der Zeitlichkeit gründet die Ganzheit des Strukturganzen von Existenz, Faktizität und Verfallen, das ist die Einheit der Sorgestruktur. (p.350)
理解は第1義的には将来に、すなわち先駆または予期に基づいたものである。情態性は第1義的には既往性に、すなわち反復または忘却において時熟する。頽落は時間的には第1義的に現在に、すなわち現在化または瞬視に根差している。それにもかかわらず理解はそのつど「既往しつつある」現在である。それにもかかわらず情態性はつねに「現在化しつつある」将来として時熟する。それにもかかわらず現在は〈既往しつつある将来〉から〈跳びだすように出てくる〉か、そこに保持されている。これらのことから明らかなように、”時間性はどの脱自態においても全体的に時熟する。すなわち実存と事実性と頽落の構造全体の全体性は、時間性のそのつどの完全な時熟の脱自的な統一性に、すなわち気遣いの構造の統一性に基づいているのである”。

 先駆、反復、瞬視が現存在の本来的な時熟のしかたであり、予期、忘却、現在化が非本来的な時熟のしかたです。そしてすでに確認してきたように、これらの3つの時熟のありかたは、どれも脱自的な構造のもとにあり、時間性はどの次元においても、「”時間性のそのつどの完全な時熟の脱自的な統一性に、すなわち気遣いの構造の統一性に基づいている”」と指摘することができます。

Die Zeitigung bedeutet kein >Nacheinander< der Ekstasen. Die Zukunft ist nicht später als die Gewesenheit und diese nicht früher als die Gegenwart. Zeitlichkeit zeitigt sich als gewesende-gegenwärtigende Zukunft. (p.350)
時熟とは、脱自態が「次々と継起して生じる」ということではない。将来は既往よりも”以後にある”のでは”なく”、既往は現在よりも”以前にある”のでも”ない”。時間性は既往的で現在化しつつある将来として時熟するのである。


 〈そこに現に〉の開示性と、現存在の実存的な根本的な可能性としての本来性と非本来性は、こうした時間性に基づいています。現存在は開示性ですから、この開示性が基づく時間的な構成を手掛かりにすることによって、世界内存在として実存する現存在が存在することができるその可能性の存在論的な条件を示すことができるはずです。このことが次の第69節の課題となります。


 3つのパートにわけて投稿してきた第68節は以上になります。
 ちなみに、お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、「脱自態」と訳すドイツ語>Ekstase<は、日本語では「エクスタシー」にあたる語であり、これはギリシャ語の>έκστασις<(エクスタシス)に由来します。エクスタシスとは、「外に立つこと」を意味する語であり、ふつうに使われる「忘我、恍惚」の意味はこれから派生したものになります。この「外に立つこと」という根源的な意味の>Ekstase<が、「外への存在」を意味する>Existenz<(実存)と共通することは明らかでしょう。ハイデガーが>Ekstase<という語を選んだのは、実存する現存在の存在の意味が時間性である以上、この時間性が「外に」という性格をもつことを示すためだったと考えられます。
 それではまた次回、よろしくお願いします。

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