『存在と時間』を読む Part.65

  第64節 気遣いと自己性

 気遣いの存在論的な構造については、すでに「〈(世界内部的に出会う存在者)のもとにある存在〉として、〈(世界の)うちですでに自己に先立って存在している〉こと」であることが示されており、この定式において、現存在の過去、現在、未来の3つの時間的な契機が含まれていることは、すでに確認してきました(Part.40参照)。この時間性については、次の第65節で考察されますが、この第64節ではその前提として、気遣いの問題を自己と自我との関係で検討することが試みられます。
 第1篇のこれまでの考察では、気遣いの存在論的な構造については明らかにされていましたが、それがまだ「死への先駆と」と「決意性」の考察に分断されたままで、それを統一的に眺める視点が確立されていませんでした。すなわち、現存在分析は、現存在の全体性と本来性については主題としていなかったのです。
 この統一的な視座が「先駆的な決意性」であることは、これまでの節ですでに明らかにされてきました。先駆的な決意性は、現存在の本来的で全体的な存在可能を含んでいるものであり、気遣いの構造は、このような実存的な存在可能が可能となるための条件だったのです。これが確認されたことで、全体性の統一性に向けた実存論的な問いが、いよいよ差し迫ったものとなってきたのです。

 この統一的な理解のための最初の出発点となるのは、現存在が実存する存在者だということです。ハイデガーは実存について、自己との関係によって定義していました。「現存在がそれに対してさまざまに態度をとることができ、つねに何らかの態度をとっているその存在そのもののことを、私たちは"実存"と呼ぶ」(Part.2)。この実存とは、現存在は誰もがつねに自分自身であるという「各私性」を特徴とするものです(Part.8参照)。現存在を統一的に理解するための手掛かりはここにあります。

Wie sollen wir diese Einheit begreifen? Wie kann das Dasein einheitlich in den genannten Weisen und Möglichkeiten seines Seins existieren? Offenbar nur so, daß es dieses Sein in seinen wesenhaften Möglichkeiten selbst ist, daß je ich dieses Seiende bin. (p.317)
わたしたちはこの全体性の統一性をどのように把握すべきだろうか。現存在はここに示したみずからの存在のさまざまなありかたと可能性において、どのようにして統一的に実存することができるのだろうか。明らかに、現存在がみずからの本質的な可能性において、”自己自身”がこの存在”である”ことによってであり、そのつど”わたし”がこの存在者であることによってである。

 「わたし」は、構造全体の全体性を締めくくっているようにみえます。この自己としての「わたし(>Ich<)」は「自我」とも訳される言葉であり、哲学の歴史においても伝統的に、この自我と自己というありかたが、人間の基本的なありかたとして考察されてきました。ハイデガーによればこの「わたし」の基本的なありかたは、次のようなものとして把握されてきました。

Das >Ich< und das >Selbst< wurden von jeher in der >Ontologie< dieses Seienden als der tragende Grund (Substanz bzw. Subjekt) begriffen. (p.317)
この「わたし」と「自己」は、昔からこの現存在という存在者の「存在論」において、支える根拠のようなもの、すなわち実体または主体として把握されてきた。

 実体の概念については、第19節で説明されていました。人間を実体であると考えることに大きな問題があることは、本書を通して指摘されていたことです。ハイデガーが人間という概念を使わずに、現存在という概念を使ったのは、このような実体としての人間という固定観念を回避するためだったのでした。現存在は事物的な存在者のように実体の概念では把握することができず、実存によって考察するべき存在者です。ですから自我性も自己性も実存論的に把握しなければなりません。その本質が実存のうちにある現存在という存在者の分析は実存論的に遂行される必要があるのです。
 そしてこのような観点から「わたし」について実存論的に把握することを目指したのが、「気遣い」という概念でした。気遣いはすでにみずからのうちに自己の現象を含んでいるのであるから(Part.40参照)、現存在の自己性を存在論的に規定するという問題は、気遣いと自己性の実存論的な関連への問いに絞られてくることになるでしょう。
 ところでこの節の前半部分で考察されるのは、現存在は実存する存在者として、そのあらゆる行為において、「わたし」として行為するという事実です。カントはこの問題について超越論的な統覚(>transzendentale Apperzeption<)という概念を使って考察したのであり、ハイデガーもこの観点から、実存する現存在の「わたし」という側面を考察することになります。

 カントの自我の理論において卓越していたのは、〈わたし〉が外界から受けるすべての印象に、「わたし」という意識が伴っていなければならないことを明らかにしたことでした。ハイデガーはカントの『純粋理性批判』を引用しながら、このことを説明しています。

Das >Ich< ist ein bloßes Bewußtsein, das alle Begriffe begleitet. Mit ihm wird >nichts weiter, als ein transzendentales Subjekt der Gedanken vorgestellt<. Das >Bewußtsein an sich (ist) nicht sowohl ein Vorstellung ..., sondern eine Form derselben überhaupt<. Das >Ich denke< ist >die Form der Apperzeption, die jeder Erfahrung anhängt und ihr vorgeht<. (p.319)
この「わたし」は、すべての概念にともなうたんなる意識にすぎない。それによって「思い浮かべることができるのは、ある思考の超越論的な主体にすぎない」。この「意識そのものは、個々の客体を識別する観念ではなく、観念一般の形式」である。「わたしは考える」ということは、「自己統合の意識の形式にすぎない。これはすべての経験にともなうものでありながら、しかもすべての経験に先立つものである」。

 人間の直観や判断のすべてに伴うことができる「わたしは考える」という意識を、カントは「自己統合の意識(統覚)」と名づけました。これがある人のすべての意識において同一のものであることによって、意識し判断する人間の同一性を保証すると、カントは考えたのです。
 カントがこの統覚の理論を提起したのは、その当時の哲学的な観念論の理論の誤謬を指摘するためでした。これについてはここでは詳しく説明しませんが、おおまかに言うなら、カントは「わたし」という意識は、その意識の対象となるような他の存在者のように実体的な存在者ではないということを指摘したのです。「意識そのものは、個々の客体を識別する観念ではなく、観念一般の形式」というのは、「わたし」という意識は、その人間が認識する表象につねに伴っていますが、認識された表象と同じ性格をもつものではなく、このような表象が人間にとって可能になるための「形式」であるということを説明しています。
 たとえばわたしがりんごを見て、表象としてのりんごを認識したとき、「わたしはりんごを見る」と語ることができるでしょう。また、りんごから視線をずらし、隣にあるぶどうを見るなら、「わたしはぶどうを見る」と語ることができます。この際、りんごを見る「わたし」とぶどうを見る「わたし」が同一であることは何によって確証されるのでしょうか。複数の経験を1つの「わたし」の経験としてまとめあげる、そのような同一性を保証するものこそが「自己統合の意識」なのです。

In jedem Zusammennehmen und Beziehen liegt immer schon das Ich zugrunde - ὑποκείμενον. Daher ist das Subjektum>Bewußtsein an sich< und keine Vorstellung, vielmehr die >Form< derselben. Das will sagen: das Ich denke ist kein Vorgestelltes, sondern die formale Struktur des Vorstellens als solchen, wodurch so etwas wie Vorgestelltes erst möglich wird. (p.319)
どのような総合と関係づけの働きにおいても、その根底につねにすでに、「わたし」が存在している。これは基体なのである。だからこの基体は「意識そのもの」であって、表象ではなく、むしろこうした表象の「形式」と呼ばれるのである。ということは、〈わたしは考える〉は表象されたものではなく、表象の形式的な構造なのであり、これによって初めて、〈表象されたもの〉が可能になるのである。

 人間が同一的な「わたし」であることができるのは、偶然的な経験によって得られる現象ではない必然的なアプリオリな形式としての統覚によるからであり、「これはすべての経験にともなうものでありながら、しかもすべての経験に先立つものである」とカントは考えたのです。

 ハイデガーはカントの功績について、次の2点から高く評価します。

Das Positive an der Kantischen Analyse ist ein Doppeltes: einmal sieht er die Unmöglichkeit der ontischen Rückführung des Ich auf eine Substanz, zum anderen hält er das Ich als >Ich denke< fest. (p.319)
カントの分析には2つの積極的な成果がある。第1に、カントは〈わたし〉を存在者的に何らかの実体に還元できないことを認識していた。第2にカントは〈わたし〉は「わたしは考える」であることを堅持した。

 第1にカントは、思考するわたしが、判断の主体としてすべての判断にともなうものですが、それが判断とは独立した別の存在者として存在するものではないことを、明確に確認していたことです。この〈わたし〉は、認識される表象のようには、「存在者的に何らかの実体に還元できない」ものなのです。
 第2にカントは、この〈わたし〉というものが「わたしは考える」という判断の主語としての役割をはたしているだけであり、いかなる存在者でもないことを明確に確認していたことです。カントは、〈わたし〉を思考作用から分離させることは拒んだのであり、これはカントの理論の重要な長所となっています。このことがなぜ長所であるのかは、以下で説明されることになります。

Gleichwohl faßt er dieses Ich wieder als Subjekt und damit in einem ontologisch unangemessenen Sinne. Denn der ontologische Begriff des Subjekts charakterisiert nicht die Selbstheit des Ich qua Selbst, sondern die Selbigkeit und Beständigkeit eines immer schon Vorhandenen. Das Ich ontologisch als Subjekt bestimmen, besagt, es als ein immer schon Vorhandenes ansetzen. Das Sein des Ich wird verstanden als Realität der res cogitans. (p.320)
しかしカントはこの〈わたし〉をふたたび主観として、すなわち存在論的には不適切な意味で考えている。というのも、主観という存在論的な概念は、”自己としての〈わたし〉の自己性”を性格づけるものでは”なく、つねにすでに眼前的に存在するものの自同性と恒常性”を性格づけるものだからである。〈わたし〉を存在論的に”主観”として規定するということは、それがつねにすでに眼前的に存在するものとみなして、考察の端緒とすることである。このようにして〈わたし〉の存在は、思考するものの実在性として理解されてしまうのである。

 ハイデガーは、カントの基本的な考え方を高く評価しながらも、そこには〈わたし〉について、思考する内容としての世界について、さらに世界のうちで生きている〈わたし〉のもつ制約について、3つの重要な観点で欠陥があったことを指摘しています。
 第1にハイデガーは、カントが〈わたし〉についてデカルト以来の伝統的な哲学の理論に重要な点で譲歩してしまっていることを指摘します。というのも、カントは「この〈わたし〉をふたたび主観として、すなわち存在論的には不適切な意味で」考えてしまったのであり、〈わたし〉を実体的なものにふたたび転落させてしまったからです。カントは知覚や判断にともなうだけであるはずの超越論的な統覚の身分を明確に規定することができず、その存在様式を眼前的に存在しているものとみなしてしまったのです。
 第2に、カントは超越論的な統覚という概念において、「わたしは考える」という理論的に空虚な命題に依拠したために、「何を」考えるのかという内容が軽視されるようになったのでした。

Kant vermied zwar die Abschnürung des Ich vom Denken, ohne jedoch das >Ich denke< selbst in seinem vollen Wesensbestande als >Ich denke etwas< anzusetzen und vor allem ohne die ontologische >Voraussetzung< für das >Ich denke etwas< als Grundbestimmtheit des Selbst zu sehen. (p.321)
カントはたしかに〈わたし〉を思考作用から分離させることは拒んだのだが、「わたしは考える」ことそのものを、「わたしは何かについて考える」という本質的で十全な形の手掛かりとして提示することができなかった。とくにカントには、「わたしは何かについて考える」が、自己の根本的な規定性であることを見抜くための存在論的な「前提」が欠けていたのである。

 超越論的な統覚のもつ表象は、何らかの内容をもっていたはずですが、カントはそうした表象の内容を考慮しないために、〈わたし〉はふたたび孤立した主観へと押し戻されてしまうのです。しかし現存在は、そのように宙に浮いたような存在なのではなく、ある世界のうちに実存する存在者です。ですから「わたしは何かについて考える」の「何かについて」を取り除いて、「わたしは考える」という主観を考えても、これは存在論的にまったく無規定なままであらざるをえません。この「何か」が、世界内部的な存在者であると考えるなら、そこには暗黙のうちにではあっても、世界という前提がひそんでいるはずです。そしてこの世界という現象が、世界内存在としての現存在の存在機構を規定するものの1つであるからこそ、〈わたし〉は「わたしは何かについて考える」というものでありうるのです。思考するわたしが生きる「世界」という現象を無視することはできないのです。
 第3に、カントにおいては、思考する〈わたし〉が世界のうちで生きる存在者として、思考する内容についても、思考する姿勢についても、世界から影響を受けていることが、まったく考慮にいれられなかったことが指摘されます。

Im Ich-sagen spricht sich das Dasein als In-der-Welt-sein aus. Aber meint denn das alltägliche Ich-sagen sich als in-der-Welt-seiend? Hier ist zu scheiden. Wohl meint das Dasein ich-sagend das Seiende, das es je selbst ist. Die alltägliche Selbstauslegung hat aber die Tendenz, sich von der besorgten >Welt< her zu verstehen. Im ontischen Sich-meinen versieht es sich bezüglich der Seinsart des Seienden, das es selbst ist. (p.321)
”〈わたしはと語ること〉のうちで、世界内存在としての現存在自身が語っているのである”。しかしそれでは、日常的に〈わたしはと語る〉ことは、みずからを〈世界のうちに存在するもの〉”として”みなしていることになるのだろうか。しかしこれは区別しなければならない。たしかに現存在は、〈わたしはと語る〉ことによって、現存在がそのつどそれ自身である存在者を指している。しかし日常的な自己の解釈には、配慮的に気遣った「世界」のほうから、自分を理解しようとする傾向がある。存在者的には自分のことを考えながらも、現存在は自分自身の存在者としての存在様式については、”見間違いをする”のである。

 思考するわたしは世界内存在としては、「日常的な自己の解釈には、配慮的に気遣った〈世界〉のほうから、自分を理解しようとする傾向がある」のであり、こうした思考をする主体がそれが置かれた状況によって制約されていることを、カントは考慮することがありませんでした。

 「わたしはと語る」主体は、世界から影響されない純粋な主体として語っているのではなく、すでに日常性のうちで世界のうちに頽落した存在者として、世人の語ることを語るにすぎません。ですからここで「わたし」と語っている〈わたし〉は、世人自己にほかなりません。

Im >Ich< spricht sich das Selbst aus, das ich zunächst und zumeist nicht eigentlich bin. Für das Aufgehen in der alltäglichen Vielfältigkeit und dem Sich-jagen des Besorgten zeigt sich das Selbst des selbstvergessenen Ich-besorge als das ständig selbige, aber unbestimmt-leere Einfach. Ist man doch das, was man besorgt. (p.322)
「わたし」のうちで自己がみずからを語り出しているとしても、その自己とは、わたしがさしあたりたいていは本来的にそれでは”ない”自己である。自己は、さまざまな日常的な事柄や配慮的に気遣うものにみずから忙しく没頭している。そのように没頭した自己は、不断に自同的で、かつ無規定で空虚な〈単純なもの〉となっている。そうした自己は、わたしが自分自身を忘却して配慮的に気遣っている自己である。ひとは、ひとが配慮的に気遣う”そのものなのである”。

 世界のうちでさまざまな事柄に配慮的に気遣いしているこの〈わたし〉、世界のうちに没頭しているこの自己は、「わたしがさしあたりたいていは本来的にそれでは”ない”自己である」のです。それでは主体としての〈わたし〉は、つねに世人自己でしかありえないのでしょうか。もちろんそのようなことはありません。現存在に世人を乗り越える道が残されていることは、すでにこれまでの先駆的な決意性の概念によって明らかにされてきたことでした。それでは、本来的なありかたをする自己とはどのようなものでしょうか。

 ハイデガーは、「わたしは」と語る〈わたし〉は、実存する現存在であることを強調します。世人自己は、本来的な存在可能を回避して世人のうちに逃げ込んでいるのであり、根本的には自己自身ではないものです。ですから自己について存在論的に把握するためには、本来的な存在可能のほうから理解しなければならないのであり、世人自己もこの本来的な自己のほうから理解させなければなりません。

Die Selbstheit ist existenzial nur abzulesen am eigentlichen Selbstseinkönnen, das heißt an der Eigentlichkeit des Seins des Daseins als Sorge. Aus ihr erhält die Ständigkeit des Selbst als vermeintliche Beharrlichkeit des Subjektum seine Aufklärung. (p.322)
自己性は実存論的には、本来的な自己の存在可能のほうからのみ読みとるべきものである。すなわち、”気遣いとしての”現存在の存在の本来性のほうからのみ読みとるべきものなのである。”自己の恒常性”は、ふつうは〈基底に置かれているもの〉の継続性のことと理解されているが、これもまたこうした本来性に基づいて解釈することで、正しく解明されるのである。

 実存する現存在にとっての自己は、さまざまな判断や行動の土台となってその同一性を支えるものです。この同一性を支える土台となるものを、ハイデガーは「自己の恒常性」という概念で提起します。すでに指摘されていたように、これは実体の概念にあてはまるような「〈基底に置かれているもの〉(>Subjekt<)」の継続性のことではありません。

Das Phänomen des eigentlichen Seinkönnens öffnet aber auch den Blick für die Ständigkeit des Selbst in dem Sinn des Standgewonnenhabens. Die Ständigkeit des Selbst im Doppelsinne der beständigen Standfestigkeit ist die eigentliche Gegenmöglichkeit zur Unselbst-ständigkeit des unentschlossenen Verfallens. Die Selbst-ständigkeit bedeutet existenzial nichts anderes als die vorlaufende Entschlossenheit. Die ontologische Struktur dieser enthüllt die Existenzialität der Selbstheit des Selbst. (p.322)
ところで本来的な存在可能の現象を調べることで、”自己の恒常性”へのまなざしが開かれるのであり、これを〈みずからの立場を確保していること〉として理解できるようになる。”自己の恒常性”には、〈立場の堅固さ〉と〈恒常性〉という2重の意味があるが、これは非決意的な頽落が〈自己の非恒常性〉であることと対比される”本来的な”反対概念なのである。”不断に自己であること”は、実存論的には、まさしく先駆的な決意性を示す。この先駆的な決意性の存在論的な構造が、自己の自己性がもつ実存性をあらわにするのである。

 この恒常性は、「”不断に自己であること”」としても理解することができるものであり、この恒常性と不断の自己性を生み出すことができるのは、死への先駆としての先駆的な決意性です。「この先駆的な決意性の存在論的な構造が、自己の自己性がもつ実存性をあらわにする」のです。
 このようにして現存在が本来的に自己であるのは、決意性においてであるとき、すなわち、沈黙しながら、みずからにあえて不安を求めている根源的な単独化においてであるということになります(決意性の性格についてはPart.62参照)。これこそが気遣いの実存性の構造であり、「自己性は実存論的には、本来的な自己の存在可能のほうからのみ読みとるべきものである。すなわち、”気遣いとしての”現存在の存在の本来性のほうからのみ読みとるべきものなの」です。

Die Sorge bedarf nicht der Fundierung in einem Selbst, sondern die Existenzialität als Konstitutivum der Sorge gibt die ontologische Verfassung der Selbst-ständigkeit des Daseins, zu der, dem vollen Strukturgehalt der Sorge entsprechend, das faktische Verfallensein in die Unselbst-ständigkeit gehört. Die vollbegriffene Sorgestruktur schließt das Phänomen der Selbstheit ein. Dessen Klärung vollzieht sich als Interpretation des Sinnes der Sorge, als welche die Seinsganzheit des Daseins bestimmt wurde. (p.323)
”気遣いは、自己のうちに基礎を置く必要はない。むしろ気遣いを構成する要素である実存性が、現存在が〈不断に自己であること〉の存在論的な機構を与えているのである。このような〈不断に自己であること〉には、気遣いの完全な構造内容の全体に対応して、〈不断に非自己であること〉へと事実的に頽落しているありかたが属しているのである”。気遣いの構造を完全に把握するならば、そこには自己性の現象も含まれているのである。この現象を解明する作業は、現存在の存在の全体性として規定された気遣いの意味を解釈する作業として遂行されるのである。

 自己が気遣いの基礎となっているのではなく、「”気遣いを構成する要素である実存性が、現存在が〈不断に自己であること〉の存在論的な機構を与えている”」のです。良心の呼び掛けと先駆的な決意性を含む気遣いこそが、現存在の根本的な構造なのであり、「気遣いの構造を完全に把握するならば、そこには自己性の現象も含まれている」のです。こうして自己についての問いは、「現存在の存在の全体性として規定された気遣いの意味を解釈する作業として遂行される」ことになります。

 最後に、『存在と時間』での自己の概念について、これまでの考察をふりかえりながら、次の4点を指摘してみましょう。
 第1に、自己の概念は〈わたし〉や主体の概念との関係で提起されたものであるということです。カントは超越論的な統覚によってあらゆる判断の主体の同一性が保証されると主張しましたが、これにたいしてハイデガーは、このような判断の主体の同一性を保証するのは、主体を支える「自己」であると考えました。自己(>Selbst<)は、「同じであること(>Selbig<)」を意味するからです。
 第2に、ハイデガーはすべての現存在は実存する存在者として、「自己のために」判断を下すものであることを確認します。ハイデガーは本書で最初から実存を自己関係性によって定義してきました。「現存在がそれに対してさまざまに態度をとることができ、つねに何らかの態度をとっているその存在そのもののことを、私たちは"実存"と呼ぶ」のでした(Part.2)。現存在が何らかの態度をとるこの存在そのものとは、自己自身にほかなりません。実存するということは、自己にたいして何らかの関係をとりつづけているような存在であるということです。現存在は、「自己の存在において、この存在そのものが問題である」ような存在者なのです(同Part)。だからこそ、「現存在はつねに自らを自己の実存から理解している。現存在は自己自身であるか、あるいは自己自身でないかという、自己自身の可能性から、自己を理解している」存在者なのです(同Part)。
 さらに実存する現存在の重要な特徴は、各私性ということにありました。「この存在者がみずからの存在においてかかわっている"その"存在は、そのつどわたしの存在である」のです(Part.8)。この現存在という存在者は「〈わたしが存在する〉〈君が存在する〉というように、常に人称代名詞が添えられなければならない」のです。この人称代名詞で「わたし」とか「君」と呼ばれているものを一般化して語るなら、「自己」ということです。現存在にとってもっとも重要なことは自己自身なのであり、世界における現存在の気遣いは、究極のところは「自己のため」を目指しています。
 第3に、現存在が本来的に実存すると言えるのは、自己に固有の存在可能に向けて先駆的に決断する場合のことであり、主体や〈わたし〉の概念は、この自己の概念によって支えられています。現存在は良心と気遣いにおいて、自己に固有の存在可能を開示するのであり、現存在はみずからの死へと先駆しながら、この存在可能を目指して決断するのです。このような先駆的な決意性において現存在が目指しているのは、本来的な存在可能であり、そのためには自己が「〈立場の堅固さ〉」を維持することができていなければなりません。このような堅固な自己を確立することは、「”自己の恒常性”」と呼ばれるのであり、これは「こうした本来性に基づいて解釈することで、正しく解明される」のです。
 第4に、この自己は一般的に人称代名詞をつけて語られるべき自己であり、「わたしの自己」あるいは「君の自己」です。わたしにとって「わたしの自己」が何よりも大切なものであり、「そのための目的」であるのと同じように、君にとっては「君の自己」が何よりも大切な「そのための目的」です(「そのための目的」>Worum-willen<」についてはPart.17参照)。現存在は自己のためにあるような存在なのです。
 実存する現存在は、この一般的な自己の概念に依拠することで、他者との共同存在を理解します。というのも、他者もまた実存する現存在であることを、わたしは理解しているからです。「自己」は他者の理解のための根源となるのです。

 以上、ハイデガーの「自己」の概念についての確認をもって、この節を終わります。この「自己」の概念はハイデガーの後期の哲学まで引き継がれますが、ここでは『存在と時間』の範囲内でおさめました。
 次回の第65節では、ついにハイデガーの時間論が本格的に展開されることになります。

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