『存在と時間』を読む Part.82

 第6章 時間性と、通俗的な時間概念の起源としての時間内部性

  第78節 これまでの現存在の時間的な分析の欠陥

 この節では、これまでの通俗的な時間概念とその分析の方法論の欠点を明らかにすることによって、第6章全体の構成を説明することを目的としています。そのためにこうした欠点については、そのありかを指摘するだけで、立ち入った考察は、第79節以下の分析に委ねられます。

 まず検討されるのは「時間内部性」という概念です。これまでの現存在の歴史性の実存論的な分析論では、歴史性が根本において時間性であることを示してきましたが、実存論的な分析の基本的な枠組みにおいては、現存在が時間のなかで生きることの実際のありかたは考察されることがありませんでした。しかし、すべての出来事は「時間のなかで」起こるものです。この状況は、「時間内部性」と呼ばれます。

Dem alltäglichen Daseinsverständnis, das faktisch alle Geschichte nur als >innerzeitiges< Geschehen kennt, blieb im Verlauf der existenzial-zeitlichen Analyse der Geschichtlichkeit das Wort entzogen. Wenn die existenziale Analytik das Dasein gerade in seiner Faktizität ontologisch durchsichtig machen soll, dann muß auch der faktischen >ontisch-zeitlichen< Auslegung der Geschichte ausdrücklich ihr Recht zurückgegeben werden. (p.404)
日常的な現存在の了解においては、事実的にすべての歴史を「時間内部的な」生起としてしか識別しないのであり、歴史性の実存論的で時間的な分析においては、このような日常的な現存在の了解に、発言の機会が与えられることはなかったのである。しかし現存在の実存論的な分析論の目的は、現存在をその事実性において、存在論的に見通しのよいものにすることにあるのだから、このような歴史の事実的な「存在者的で時間的な」解釈にも、それにふさわしい権利があることを、”明示的に”承認しておかなければならない。

 現存在は日常生活においては、自分や世界において起こる出来事を、自分の生きている時間のなかで起こる出来事として認識するのであり、「事実的にすべての歴史を〈時間内部的な〉生起としてしか識別しない」ものです。そこで現存在の歴史性の分析においては、こうした現存在の歴史についての「〈存在者的で時間的な〉解釈」についても考察する必要があります。
 こうした解釈が必要であることを示す重要な背景要因は2つあります。第1の要因は、歴史のほかに自然現象もまた時間によって規定されているために、自然を研究する学問もまた時間によって規定されているということです。現存在が自然のうちで、現存在以外の存在者に出会う時間についても、原理的に解釈することが重要です。
 第2の要因は、現存在が時間や歴史について考察する以前から、時間に合わせて生活していること、すなわち自分の時間を公共的な時間に合わせて生活していることです。歴史のうちでやがて時間を規定するために作られた道具としての時計が登場しますが、こうした時計が登場する以前から、現存在は時間のなかで暮らしていたのです。存在論的な考察の順序で言えば、現存在が自分の時間を計算にいれていることがあって初めて、時計のようなものを使用することができるようになると言うべきなのです。
 ハイデガーは、現存在のこうした「時間内部性」を考察するためには、次の2つの問題を考察する必要があると考えています。まず、現存在が実存しながら「何かに時間をかける」とか「時間を失う」ということができるという事実を解明しなければなりません。わたしはnoteの投稿に時間をかけることができ、実際に今この記事を作成していますが、わたしはこの時間をどこから取ってくるのでしょうか。この時間は、現存在の時間性とどのような関係にあるのでしょうか。

Das faktische Dasein trägt der Zeit Rechnung, ohne Zeitlichkeit existenzial zu verstehen. Das elementare Verhalten des Rechnens mit der Zeit bedarf der Aufklärung vor der Frage, was es heißt: Seiendes ist >in der Zeit<. Alles Verhalten des Daseins soll aus dessen Sein, das heißt aus der Zeitlichkeit interpretiert werden. Es gilt zu zeigen, wie das Dasein als Zeitlichkeit ein Verhalten zeitigt, das sich in der Weise zur Zeit verhält, daß es ihr Rechnung trägt. (p.404)
事実的な現存在は、時間性について実存論的に理解することなしに、時間を計算に入れている。時間を計算にいれるというのが、現存在の基本的な態度なのであり、これを理解するためには、存在者が「時間のなかにある」というのはどのようなことかという問いを解明する必要がある。現存在のすべての態度は、その存在から、すなわち時間性から解釈しなければならない。そこで重要なのは、時間性”としての”現存在は、時間を計算にいれるという、”そのような”ありかたで時間にかかわる態度を、どのようにして時熟させるのかを示すことである。

 第2に、現存在はたんに自分の事柄として、あることに時間をかけたり、時間をかける余裕がなかったりするだけではなく、他の共同現存在とのあいだで共通する公共的な時間のうちに生きていることに留意しなければなりません。ハイデガーはこの公共的な世界の時間を、「世界時間」と呼びます。

Die bisherige Charakteristik der Zeitlichkeit ist daher nicht nur überhaupt unvollständig, insofern nicht alle Dimensionen des Phänomens beachtet wurden, sondern sie ist grundsätzlich lückenhaft, weil zur Zeitlichkeit selbst so etwas wie Weltzeit im strengen Sinne des existenzial-zeitlichen Begriffes von Welt gehört. Wie das möglich und warum es notwendig ist, soll zum Verständnis gebracht werden. (p.405)
こうしてみると、わたしたちがこれまで時間性に試みてきた性格づけは、この時間性という現象のすべての次元を考察していなかったという意味で、そもそも不完全なものであったのだが、それだけではなく、さらに原理的な欠陥をそなえていたことが明らかになる。というのも、時間性そのものには、世界の実存論的かつ時間的な概念という厳密な意味での〈世界時間〉というものが属しているからである。どうしてそのようなことが可能なのか、またどうしてそのことが必然的なのかを了解する必要がある。

 この時間内部性のテーマは3つの節に分けて検討されます。まず第79節「現存在の時間性と時間についての配慮的な気遣い」では、現存在が日常生活において時間を意識するのは、配慮的な気遣いの地平においてであることを指摘します。そして次の第80節「配慮的に気遣われた時間と時間内部性」においては、このように配慮的に気遣われた時間と、「時間内部性」の概念の結びつきを考察することになるでしょう。
 現存在はこのように「時間内部性」のうちにある存在者であるために、つねに時間のうちで生きている存在者であり、また他の共同現存在とのあいだの公共的な世界時間のうちで生きている存在者です。こうした日常性における現存在と時間とのかかわりのうちから、通俗的な時間概念が生まれてきます。こうした通俗的な時間概念の特徴は、時間というものをある種の眼前的な存在者として理解することにあります。
 わかりやすいのが、時計によって示される時間でしょう。わたしたちは時計の秒針が進むのをみて、1秒間の長さをはかることができます。1秒とは、時計の秒針が次の目盛りに進むまでの時間です。時間をこのように秒針という眼前的な存在者が進むために必要な時間として理解するということは、時間というものがあたかも眼前存在者であるかのように考えるということなのです。このテーマを検討するのが、第81節「時間内部性と通俗的な時間概念の発生」です。

 ハイデガーは、こうした通俗的な時間概念の背後には、時間を主観的なものと考えるか、客観的なものと考えるかという哲学の伝統のうちでつづけられてきた暗黙の対立が控えていたことを指摘します。この章では、この哲学的な時間論について、カントとヘーゲルの時間論が俎上に載せられて検討することになります。
 まずこの対立はある意味では、時間を直観の形式と規定したカントのうちで、すでに哲学的に明確に指摘されていました。カントは時間というものが個人の直観の形式であるために、あくまでもその個人にとって固有のものであり、人間は時間をもつことで外的な世界の現象を理解できると考えました。この考え方では、時間は個人にとって、外的な世界を理解するための基本的な土台となるものであり、その意味では時間はきわめて主観的なものです。
 しかしカントは、こうした直感の形式としての時間は、すべての個人にとって共通のものであり、この時間という直観の形式の共通性によって、公共的な時間が生まれてくると考えました。その意味では時間はきわめて客観的なものとみなされました。
 ヘーゲルはカントのこうした問題構成を受け継ぎましたが、時間をたんに主観的なものと考えるのでも、たんに客観的なものと考えるのでもなく、「精神」という概念のうちでこの対立を止揚しようとしました。ただしヘーゲルにとって精神は、客観的な精神として世界の歴史を構築する力です。この精神の歴史性は、すでに考察した「世界時間」を作りだすものですから、ハイデガーの解釈とヘーゲルの解釈には共通したところがあります。
 しかしハイデガーは、本書の存在論的な時間論とヘーゲルの時間論に重要な違いをみいだしています。というのも、歴史を絶対精神の実現と人間の自由の完全な発展のプロセスとみなすヘーゲルの歴史および時間の概念は、本書の基礎存在論的な意図と対立してこざるをえないからです。このテーマが第82節「時間性、現存在、世界時間の実存論的かつ存在論的な連関を、時間と精神の関係についてのヘーゲルの見解と対比する試み」において詳細に検討されることになります。さらに第83節「現存在の実存論的かつ時間的な分析論と、存在一般の意味への基礎存在論的な問い」では、これまでの考察を総括する形で基礎存在論的な時間論が展開されることになります。
 この基礎存在論的な考察においては、ヘーゲルの時間論への批判に依拠しながら、時間について、次のような問いが問われることになります。

Die Frage, ob und wie der Zeit ein >Sein< zukommt, warum und in welchem Sinne wir sie >seiend< nennen, kann erst beantwortet werden, wenn gezeigt ist, inwiefern die Zeitlichkeit selbst im Ganzen ihrer Zeitigung so etwas wie Seinsverständnis und Ansprechen von Seiendem möglich macht. (p.406)
時間には「存在」がそなわっているのか、またどのようにしてそうした存在がそなわっているのか、わたしたちが時間を「存在するもの」と呼ぶのはなぜなのか、またどのような意味でそう呼ぶのかという問いに答えるためには、時間性そのものが、その時熟の全体において、どのようにして存在了解や、存在者について語ることを可能にするのかということを示す必要がある。

 これらの問いは、時間性が現存在の存在の意味として提起された第65節で語られていた時間性の謎です。これらの問いは、本書の最後の段落で掲げられた問いに、すなわちハイデガーが執筆することができなかった問いにつながっていくことになるでしょう。


 第78節は以上となります。いよいよ『存在と時間』最後の章がはじまりました。予定ではあと6回あるいは7回の投稿で終わります。次回もよろしくお願いします。

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