『存在と時間』を読む Part.73

  (c)世界の超越の時間的な問題

 ここで現存在と世界の関係を再確認しておきましょう。すでに第18節において、世界の構造が有意義性であることが確認されていました。有意義性とは、現存在が自分の周囲に存在する手元的な存在者である道具を利用するための目的の連関のことです。そしてこの有意義性が統一されたものが、わたしたちが世界と呼ぶものであるのでした。
 こうした目的の連関としての有意義性は、わたしたちの生活の全体を貫いています。わたしたちがパンソンを使うのは、たとえばnoteを執筆するためであり、noteを執筆するのはみずからを表現するためであり、みずからを表現するのはわたしたち自身のためです。このように多くの行為は多重的な目的の連関によって構築されているのであり、わたしたちはそのためにさまざまな存在者を必要とします。このような手元的な存在者のすべての連関が世界であり、世界とは、そこにおいて手元存在的なものが手元に存在しているところであるのでした。
 ただしこの目的の連関には究極の目的というものがあります。わたしたち自身がどのような目的があるかと問われても、それ以上は目的連関をさかのぼることはできません。わたしたちの究極の目的とは、わたしたち自身なのです。

Das Dasein existiert umwillen eines Seinkönnens seiner selbst. Existierend ist es geworfen und als geworfenes an Seiendes überantwortet, dessen es bedarf, um sein zu können, wie es ist, nämlich umwillen seiner selbst. (p.364)
現存在は自分自身の存在可能〈のために〉実存している。現存在は実存しつつ被投されており、被投されたものとして存在者に委ねられている。現存在は現存在として存在することができる”ため”には、すなわちみずから自身”のために”存在することができるためには、こうした存在者を必要とするのである。

 現存在は「みずから自身”のために”存在する」ということは、自己の存在そのものが至上の目的となっているということであり、そのためには手元的な存在者を必要とするのです。

 ところで現存在はこのように自己の存在のために生きているのであり、世界とは現存在がこのような形で存在する場であるのですから、現存在がそのうちでみずからを理解する世界は、現存在の存在様式に含まれていることになるはずです。すなわち、世界は現存在の事実的な実存とともに、〈そこに現に〉(>Da<)存在してい(>sein<)ます。そうだとすると、現存在(>Dasein<)は実存しながら、みずからの世界であると言えることになるでしょう。
 そしてこれまでの考察から、現存在の時間性が現存在の〈そこに現に〉の開示性を構成していることが確認されてきました。そうだとすると、有意義性の統一性としての世界の存在論的な機構も、同じように時間性を根拠とするものでなければならないはずでしょう。それでは世界の時間性とはどのようなものでしょうか。それが現存在の時間性によって生まれるものであるからには、現存在の時間性と同じ特徴をそなえていると考えることができるでしょう。すでに現存在の本来の時間性が、脱自的な3つの時間の契機が時熟する統一性にあることが確認されてきました。ですから、世界の時間性もこのような構造にあるはずです。

Die existenzial-zeitliche Bedingung der Möglichkeit der Welt liegt darin, daß die Zeitlichkeit als ekstatische Einheit so etwas wie einen Horizont hat. (p.365)
”世界を可能にする実存論的かつ時間的な条件は、時間性が脱自的な統一性としての地平のようなものをそなえていることにある”。

 現存在の時間性における時熟としての「脱自的な統一性」についてはこれまで十分に考察されてきました。しかし時間性の「地平」についてはそれほど明確な規定はありませんでした。以下ではこの時間性の「地平」について考察されることになります。

 すでに「地平」というものが、そこに向かって上昇する動きと、そこから下降してくる動きが複合されたものであることは、>Woraufhin<という概念によって提起されてきました(Part.66参照)。現存在が世界のうちで生きる自己について理解するための土台となるのがこの「地平」ですが、そもそもこのような動性が可能となるために必要になるのが、時間性の脱自的な統一だったのです。

Die Ekstasen sind nicht einfach Entrückungen zu ... Vielmehr gehört zur Ekstase ein >Wohin< der Entrückung. Dieses Wohin der Ekstase nennen wir das horizontale Schema. (p.365)
脱自態はたんに、〈~に向けて脱出すること〉ではない。むしろ脱自態には、脱出の向かう〈行き先〉としての〈そこへ〉がそなわっている。このような脱自態の〈そこへ〉の行き先を、わたしたちは地平的な図式と名づける。

 この「〈そこへ〉の行き先」こそが、すでに>Woraufhin<として概念化されていたものです。この地平を時間性の観点から考察するとき、時間性の地平は3種類の脱自態のそれぞれのありかたに応じて異なったものとなるはずでしょう。すなわち、将来、既往、現在の3つの脱自態それぞれにふさわしい地平です。

Das Schema, in dem das Dasein zukünftig, ob eigentlich oder uneigentlich, auf sich zukommt, ist das Umwillen seiner. Das Schema, in dem das Dasein ihm selbst als geworfenes in der Befindlichkeit erschlossen ist, fassen wir als das Wovor der Geworfenheit bzw. als Woran der Überlassenheit. Es kennzeichnet die horizontale Struktur der Gewesenheit. Umwillen seiner existierend in der Überlassenheit an es selbst als geworfenes, ist das Dasein als Sein bei ... zugleich gegenwärtigend. Das horizontale Schema der Gegenwart wird bestimmt durch das Um-zu. (p.365)
現存在が”将来的に”本来的あるいは非本来的に自己に向き合う図式は、”みずからのために”である。現存在が被投されたものとして情態性において自身に開示されている図式を、わたしたちは被投性の”〈それに臨んで〉”、あるいは委ねられていることの〈それにおいて〉と捉える。これらは”既往性”の地平構造の特徴である。現存在は実存しながら、みずからを〈そのために〉被投されたものとしてみずからに委ねられてあるが、〈~のもとでの存在〉として、それと同時に、現在化しながら存在する。”現在”の地平的な図式は、”〈~のため〉”として規定される。

 現存在の第1の時間的な契機である「将来」の地平は、究極の目的としての自己の存在が実現される地平であり、これは「みずからのために(>Umwillen seiner<)」です。
 次に「既往」の地平の構造は、現存在の被投性によって規定されます。「現存在が被投されたものとして情態性において自身に開示されている図式を、わたしたちは被投性の〈それに臨んで〉(>Wovor<)、あるいは委ねられていることの〈それにおいて〉(>Woran<)と捉える」とされています。
 最後に「現在」の地平の構造は、「〈~のため〉(>Um-zu<)」として規定されます。この現在の地平は、将来の目的連関と既往における被投性という時間性を統一するものであるから、これを「現存在は実存しながら、みずからを〈そのために〉被投されたものとしてみずからに委ねられてあるが、〈~のもとでの存在〉として、それと同時に、現在化しながら存在する」と表現することができるでしょう。すなわち脱自的な時間の動性によって現存在の時間性は、将来の「みずからのために」の地平から、被投された自己に臨む既往の「それに臨んで」あるいは委ねられていることの「それにおいて」の地平を経由して、現在において「~のため」という地平が生じます。
 これを例をあげて考えてみましょう。わたしはわたし自身のために(みずからのために)ある哲学書を理解しようとします。そのときわたしは、わたしのこれまでの言語能力や手に入る参考書、連絡のとれる先生、勉強する場所、勉強にあてられる時間といった被投性に直面して(それに臨んで、それにおいて)それらを考慮にいれる必要があります。そしてそれらを考慮にいれたなら、哲学書を理解するという目的のために、まずは訳本を読んでみるという今できることが必然的に定まり、実際に訳本を読むため(~のため)の行動が実現されるのです。
 このことからわかるように、現在が将来と既往性から生まれるように、現在の地平も将来と既往性の地平とともに、それらと等根源的に時熟します。

Der Horizont der ganzen Zeitlichkeit bestimmt das, woraufhin das faktisch existierende Seiende wesenhaft erschlossen ist. Mit dem faktischen Da-sein ist je im Horizont der Zukunft je ein Seinkönnen entworfen, im Horizont der Gewesenheit das >Schon sein< erschlossen und im Horizont der Gegenwart Besorgtes entdeckt. (p.365)
時間性全体の地平は、事実的に実存する存在者が〈そのものに向かって〉その本質からして”開示されている”場所を規定する。事実的な〈現・存在〉によって、そのつど将来の地平においてある存在可能が投企され、既往性の地平では「すでにある」が開示され、現在の地平では配慮的に気遣われたものが露呈されている。

 世界は現存在の時間の脱自的な統一と同じ構造で、脱自的に統一されているのです。ということは、現存在が時熟するかぎりで、世界もまた存在するのであり、現存在は時間性の脱自的で地平的な機構に基づくことによって、世界内存在することができるのです。

Die Welt ist weder vorhanden noch zuhanden, sondern zeitigt sich in der Zeitlichkeit. Sie >ist< mit dem Außer-sich der Ekstasen >da<. Wenn kein Dasein existiert, ist auch keine Welt >da<. (p.365)
世界は眼前的に存在するのでも、手元的に存在するのでもなく、時間性のうちに時熟するのである。世界はそれぞれの脱自態が〈みずからの外に出て〉脱自するとともに、「〈そこに現に〉存在する」。”現存在”が実存しないならば、いかなる世界も〈そこに現に〉存在することはない。

 そして、実存する現存在と同じ脱自的な構造をもつ世界は、超越的なものであるということができます。現存在がそもそも世界内存在として生きているかぎり、現存在に世界が開示されているのであり、「現存在の存在は完全に時間性に基づいているのであるから、時間性は世界内存在を可能にし、それによって現存在の超越を可能にしなければならない」(Part.72)のです。

In der horizontalen Einheit der ekstatischen Zeitlichkeit gründend, ist die Welt transzendent. (p.366)
世界は、脱自的な時間性の地平的な統一性に根拠づけられているのだから、超越的なものである。

 現存在が手元的な存在者のもとで配慮的に気遣いながら存在することや、眼前的な存在者を主題化し客観化することは、世界を前提とすることで可能になっています。現存在が世界のうちで世界内部的な存在者と出会うことができるためには、世界はすでに脱自的に開示されていなければなりません。
 「脱自的」と訳すドイツ語>ekstatisch<であり、これは「脱自態」と訳す名詞>Ekstase<を形容詞化したものです。以前にも指摘しましたが、>Ekstase<は、日本語では「エクスタシー」にあたる語であり、これはギリシャ語の>έκστασις<(エクスタシス)に由来します。そしてエクスタシスとは、「外に立つこと」を意味する語であり、「脱自態」とはこのようなニュアンスをもつ語であるのでした。これにたいして「超越的」と訳すドイツ語>transzendent<は、ラテン語の>transcendentia<が由来になっており、もともとは「超えて登る」を意味します。ですからこの語にもやはり、「外に出ていく」という動性が含まれているのであり、世界が「超越的なもの」と言われるのは、現存在の実存と同じく、時間性の脱自的な性格に基づくためなのです。

 「超越」という概念は、伝統的に「内在」との対比で、世界のうちに生きる人間がどのようにして自分の外部にある対象を客観として認識することができるかという問いとの結びつきで考えられることが多々ありました。しかしハイデガーは、この超越という問題を、主観がどのようにして外に出て、客観と出会うかという問いであると考えるのは間違いであると指摘しています。というのは、現存在はすでに世界内存在として、道具連関に囲まれて、そうした道具を適材適所性のもとで使用しながら生きているのであり、世界のうちですでに手元的な存在者に出会っている現存在が、どのようにして客観の1つであるはずの手元的な存在に出会うことができるかという問いは、本末転倒なものだからです。

Zu fragen ist: was ermöglicht es ontologisch, daß Seiendes innerweltlich begegnen und als begegnendes objektiviert werden kann? Der Rückgang auf die ekstatisch-horizontal fundierte Transzendenz der Welt gibt die Antwort. (p.366)
問うべきなのは、世界の内部で存在者に出会うことができるということは、そしてこうした存在者を出会うべきものとして客観的なものとすることができるということは、存在論的にみてどのようにして可能になるかということである。その答えは、脱自的かつ地平的に基礎づけられた世界の超越にまでさかのぼることで、与えられるのである。

 世界が脱自的な地平的な構造をもち、超越的なものであるということは、世界は客観というものが主観の外にあることと比較して、すでにそれよりもさらに外にあることを意味します。こうした性格をもつ世界を前提とすることで主題化は可能になるのであり、世界は客観のような「世界内部的な」存在者とは次元が異なる(超越的な)ものだからです。

Wenn das >Subjekt< ontologisch als existierendes Dasein begriffen wird, dessen Sein in der Zeitlichkeit gründet, dann muß gesagt werden: Welt ist >subjektiv<. Diese >subjektive< Welt aber ist dann als zeitlich-tanszendente >objektiver< als jedes mögliche >Objekt<. (p.366)
実存する現存在の存在は時間性に基づいているのであり、わたしたちが「主観」というものを、存在論的にこのように実存する現存在として把握するならば、そのときには世界は「主観的なもの」であると言わざるをえない。しかしこの「主観的な」世界は、時間的かつ超越的な世界として、どのような可能な客観よりも「客観的な」ものである。

 世界内存在としての現存在は時間に基づいて実存するのであり、世界もまた同じ時間性に基づいて存在しているのですから、このように理解された現存在が「主観的」であるとすれば、世界もまた「主観的」であるというべきでしょう。一方で世界は、現存在一般の存在である気遣いの意味としての時間性に基づくものですから、主題化によって客観化された世界内部的な存在者よりも、高次の客観的なものだと言えるでしょう。

 そこで次に問題となるのは、さまざまな現存在が共同で存在するこの世界の「客観性」を作り出す重要な要因の1つである世界の空間性と時間性の関係です。次節ではこの空間性に注目して考察が行われます。


 今回をもって第69節が完了しました。ハイデガーが考える超越は、内在と対比されるような伝統的な超越概念とは異なる意味で語られていることには注意が必要です。次回もよろしくお願いします。

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