「ゴールデンエイジ」ープロスポーツ界を目指し、ヤリ過ぎな我が子の行方? Part3

 パリのオリンピックが始まりましたね。
かつての私の大学の研究室にも、体操でインターハイで優勝した、とか、T県の水泳のある種目の個人成績は未だに破られていない、国体に出場してあの北島康介と並んで泳いだ、というゼミ生が普通にいて、驚いたものです。

 で、「水泳を続けるなら、筑波大学に行っていた」はずの彼がなぜ辞めたのかを問うと、ボソッと「疲れたんです」と。秒単位の記録更新、大会毎のメダル、肉体的鍛錬もさることながら、精神的にもキツい、ということです。

彼らは、大学生ですから、2年前の自分を淡々と分析しながら、指導教官の私に話してくれましたが、今、目の前で頑張っている子ども達は親に「ノー」と言えるのでしょうか。

Part1で触れたように、言語なら母国語が身に付く時期、音楽なら「絶対音感」が身につく時期、が各々の「臨界期」と呼ばれます。が、「ゴールデンエイジ」の厄介なところは、その年齢でその運動をひたすら頑張った場合、とそうでない場合、を同一人物で比較できない点です。その意味で、サプリも同じで、そのサプリで悩みが解消されたのか、はサプリを呑まなかった場合と同時に比較(コントロールと言います)できませんから。

 高校生・大学生なら、自らの判断でそれを続けていくかどうか、決めることもできます。しかし「ゴールデンエイジ」(正確には何歳か、は別にして)の時は小学生ですから、親がどうさせたいか(あるいはさせたか)が別れ道。後悔しないように、やらせておけば良かったと、後で思わないように、という保護者の気持ちも判ります。しかし程度の問題もあるかと思います。

 水泳や陸上なら、個人競技で自らの判断も可能ですが、野球やサッカーはチームプレイですから、社会学的に言うと「集団の中の地位と役割」の問題も出て来ます。例えば、かつて「怪物」と言われた栃木県の作新学院出身の江川卓投手は巨人に入団しましたが、彼が大学時代、東京六大学野球で彼が投げる球を打てる者はなく、法政大学が常に優勝したとか。

 しかし、彼がいた作新学院が甲子園で優勝したかと言えば、違うのです。なぜか?江川投手が投げて勝つと、地元紙は皆その卓抜した能力を持つ、江川投手を絶賛します。しかし、チームメイトは、それが面白く無かったそうです。「頑張って勝つと、皆江川が凄いから、ってなる」と言って本気で守備や打撃に力を入れなかった、と。作新学院は、第一試合で敗退。

 江川投手の話の真偽は不明ですが、私の従兄弟が、野球の投手で地元紙に「江川の再来か!?」と取り上げられました。すると、彼は突然、「野球は集団のスポーツだから嫌だ。個人技が良い」と言って、さっさと相撲に変え日体大に推薦で入学し、今は少年院の看守をやって慕われているそうです。

私のゼミ生は、頑張って高校の教師になり、無名だった水泳部の顧問になって、その高校を常勝高校に育て上げ、生徒から尊敬されています。後進の育成には、自らの親のあるスポーツへの影響が、その将来を良い方向に導く例もあるようです。

一方で、気が付いたら、学業を全て犠牲にし、算数の計算は分数もできなくなった生徒は、靭帯損傷でサッカーのクラブセレクションが絶望的。公立小中学校のレベルの低さを(都内では)取り上げましたが、その中でも底辺の位置。

 親のエゴで子どもを駄目にしていないか?「ゴールデンエイジ」に振り回されるとリスクが高いので、その運動一筋だけでなく、少しは学業にも分散すべきでは?

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