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若さと責任。若くないことに気づいた30歳

ぼくが若いと思っていられるのはいつまでだろう、とふと思った。

現在30歳、子供もできて、仕事もヨイショと頑張っているところ。業界によって「若い」の年齢は違うし、場所でも全然違う。今でもまだまだ「若い」つもりでいるし、これから自分でできることはスポーツ選手以外ほぼなんでもある。

ただ、そんなことを思うと、東浩紀「ゲンロン戦記」を思い出す。正確には覚えていないけれど

「自分はなんにでもなれると思っていた。学者でも政治家でも作家でも。それが良くなかった。腰が座っておらず経営者として中途半端になってしまった」

というような内容。

うーむ。

いわゆる「ポジションをとる」と言われるようなことで、人生におけるポジションといえる。正直言いたいことはよくわかる。やっぱり経営をしだすと、HARD THINGSがいっぱい訪れる。選択肢が多いと、HARD THINGSが起きたとき「ぼくはやっぱり経営者じゃないし。ここで撤退するか」と思えてしまう。

ということで「若さ」に話を戻すと「若さ」というのは可能性と言ってしまえると思う。若いということは、可能性が大きいということ。自分の子供をみてても、大学生のスタッフをみてても、これから何にでもなれるな、と思う。それはもちろんハッピーなことだと思ってる。

責任とは「続けること」

一方で親になった自分が親でなくなることはとても難しい。それは親であることは、大きな責任があるから。大きな責任というと難しそうな、格好良さそうな気もするけれど、実際には毎日お風呂に入れる、ご飯を食べさせる、送り迎えをする、着替えさせる、などなど膨大な雑務だ。

その膨大な雑務を、疲れた日も仕事で落ち込んだ日も眠れなかった日もする必要がある。一人の時は、疲れたから今日はもう晩御飯もなしで眠るか〜、とできたけれど子供がいるとそうはいかない。

どんな日でも親「である」ことを続けなければいけない。一度子供ができて親「になって」おしまいではなくて、親としての役割をずーーっと続ける必要がある。なにかの拍子に、「もう親やーめた!」と言ってしまうことはまさに親としての責任の放棄になる。

「親になって初めて親心が分かる」というのはまさにその通りで、ぼくの親はよく20年ほど(自立するまで)親であり続けたな、とも思う。子供の時には、親は当たり前に親だったけれど、親であることは簡単なことではなかった。けれど、ぼくも子供にとっては「当たり前に」親でいたいと思う。

そんなことで親であること、親としての「責任」を引き受けるということは、「続けること」だと思う。

「責任」とはどんな時も続けること。調子が悪い時も、不機嫌な時も落ち込んでいる時も、親であり続けること。

若さと責任

はじめの東浩紀さんの言葉に戻ると、自分は何にでもなれるということは、何かであり続けない、ということになる。昨日までは経営者だったけれど、明日からは政治家になります。というのは、やはり経営者としての責任を引き受けきれていない。

正直なところ、会社や経営者というのはいつでもやめられる。それは極論すれば親であることをやめられるのと近い。親であることも、「解散!」といって責任を放棄することは可能だ。そして、経営者であることをやめるのはもっと簡単。他に自分のキャリアの選択肢があれば、よりやめやすくなる。

ぼくも医師としてのキャリアとしても「いつでも戻ってきていいよ」と言ってくれる場所もあったし、それ以外でもいざとなればアカデミックに戻ってキャリアを伸ばす道もあると思っていた。

ただ最近、経営者として辛いことがあった。新規採用予定のスタッフに謝罪などもした。

そんな時に逆説的に自分は経営者を続けていくんだなとやっと理解した。辛くても自分は経営者を続けていきたいと思っているし、続けるしかないと思っていることに気づいた。

若くなかった30歳

つまりぼくはもう若くはなかった。ぼくも政治家にもなれると思っていたし、医師としても色々なキャリアを描けると思っていた。前の上司からは、教授になると思っていたとも言われたし、まんざらでもなかった。

けれど自分は経営者「であり」続けようとするし、父「であり」続ける。


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