幼い頃、討論番組を観て感じた違和感。意見の身体性

幼い頃、昼のワイドショーだったり、ビートたけしさんのTVタックルなどでの討論を見て思っていたことがあった。
そのときのテーマは具体的には覚えていないが、例えば今で言えば、憲法改正賛成(◯)反対(✕)、原発推進賛成(◯)反対(✕)、沖縄の基地移設賛成(◯)反対(✕)という3つのテーマがあったとしよう。
出演者の皆さんはそれぞれ根拠とともに各テーマの◯✕を主張していくわけだが、みんな必死で自説を展開し、自信満々で、相手の論理や知識に穴があれば攻撃していく姿を見て、「これだけ知識がある人たちで考えても割れるものなんだなあ」と思っていた。その一方で「論理的、理性的に考えて話し合うことでよりよい結論を得ようとしているだけならなぜここまで攻撃的になる必要があるのだろう」とも思っていた。

当時わかっていたのは、意見が割れるのはどの点をどれだけ重視するかが違うかららしいということ。
例えば原発なら、そのリスクと経済的利点、石炭と比べた時の環境負荷などが論点だろうが、これらのうちどれをどれだけ重視するかで◯✕がわかれているらしい。あとはその政策をやることで海外からどう見られるかなど、新しい観点が提示され、「この観点が抜けてるぞ」という形で議論が広がることもあるようだ。
幼い頃は当然、それらのどれが正しいのかなんてわからなかった。しかし出演者はバラバラに主張しながらも、どうやら敵味方のグループがあるようだということに気づいた。AさんとBさんはなぜかいつも庇い合っている。「お友達なのかなあ」とその時は思った。
それどころか例えば先程の3つのテーマであれば、全て◯というグループと全て✕というグループが出来上がっているというようなことにも気づいた。
幼心に「うーん、こんな頭良さそうな人が真面目に考えても各テーマ◯✕が割れるような話なのに、なんで◯✕✕とか✕◯✕のような人はいないんだろう?」そんな素朴な疑問が頭をよぎった。
現代の勢力で言えば、◯◯◯がいわゆる右派で、✕✕✕がいわゆる左派だろう。
「お友達どうしで示しを合わせて◯◯◯で行く人たちと✕✕✕で行く人たちがいるんだな」と思う一方で、「でもそれなら◯✕✕とか✕◯✕で示しを合わせるグループはなんでいないんだろう?」そんな疑問もあった。
これが例えば消費税増税と法人税増税の◯✕であれば、仮に税収を増やすのにどちらかを増税しなくてはならないとすると2つのテーマは関連する。つまりどちらか片方◯でもう一方は✕となりやすいわけで、このとき✕✕がいないというのなら理解はできる。(◯◯は論理的には可能)
しかし一見関係がないテーマなのになぜ◯◯◯とか✕✕✕のように各テーマの賛否が連動するのだろうか。消費税減らすなら法人税増やせという論理がありうるのとは違って、憲法改正すると必然的に原発を推進するべきという論理はないだろう。
そして◯✕✕や✕◯✕で示しを合わせるグループはなぜいないのか。

私の結論はこうだ。

みんな論理的理性的な結論なんて求めていない。それ以上の決定原理が存在する。

というものだ。それは党派性で仲間内で固まるというのが一つ。
そしてなぜ✕◯✕で固まらず◯◯◯なのか。それは

理性的な思考では連動しておらず、結論は身体性に依って連動している。

ということだ。「身体性」という言葉は唐突に聞こえるだろうが、例えば◯◯◯グループは勇ましくて国家や社会の力強さを肯定するのかもしれない。
「憲法9条を改正して国軍を持てるようにしろ」と「原発推進して経済を回せ。風力や太陽光でチマチマやってても仕方ない」この2つは論理的には無関係だが、同じような勇ましさが身体に響いていると言えそうだ。

逆に「安全面から基地は移設した方がいい」けど「9条を高らかに唄っていることによって海外は日本を攻めにくくなるから憲法改正反対」というように✕◯混在の理屈を理性的に打ち立てるのではなく、「周辺国を威嚇するようにはせず話し合いで」というような、勇ましさを示すのと逆の身体性が見て取れるのだ。そしてそういう人は、太陽光とか風力とか自然に「優しい」形で社会発展していったらいいんじゃない?と思っているのかもしれない。これらの意見は、当人の身体の内部で調和しているのではないか。

このような身体性やら肌感覚での判断は、他人とは通じ合いにくい。というか本質的に通じ合えない人たちがコミュニケーションするためにこそ言語的に合意を探るべく理性的議論が発達したのかもしれない。つまり理性は身体の婢なのだ。

理性的議論を装っているものも悪く言えば大抵はまやかしだ。
自身のエゴイズムと、反対者によって自分の力を削がれることへの恐れ。理性を装って自身のエゴイズムを隠しての反対者への攻撃。
人間とはどこまでも「金髪の野獣」なのだろう。
それでもシステムをいじることで民主政治をカタストロフィックにしない制度設計によって、最低限の理性的な運用が不完全ながらもなされること。これを目指すしかなさそうだ。

そしてそれぞれの主張は自身の身体への響き方で妥当性を判断するわけで「論破」は無理なのだ。
論破は双方が論理の手続きにしたがっているときのみ可能であるにすぎず、そんなの非常に限定的な場面だ。
論敵の間違いを指摘するとき、相手の「知能」をうんぬんする人がいるが、知能というより身体性なのだ。無理筋な主張をしている人の中には、目が行っちゃってたり、栄養素足りてるんだろうか?と心配な表情をしてる人もいる。響きという点で言うと、デモの太鼓のリズム、メロディーが遠くから聞こえてくるだけで思想内容まで見当がつくこともある。これも意見なるものが身体性からの発露であると言える状況証拠の一つであろう。

理性ならざるものが理性を装う。それはある種の絶望や諦念なのか、それとも希望なのか。そんな想いを数十年も前から抱えてきたのである。


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