知的自尊心の大切さ

先日、「わかりやすい説明のコツ」というようなテーマのYouTube動画を観ていたら「難しい言葉を遣うな」ということを話していた。その中で「難しい言葉を遣おうとするのは自分がバカだと思われたくないから」「難しい言葉を遣われた方はマウントを取られたかんじがするからやめておけ」という話が出てきた。
「え?バカだと思われたくないから難しい言葉を遣う?なんだそりゃ?」
論理が難しいとか、前提知識や歴史的背景が入り組んでいて理解しにくいとかはあっても、単語レベルで難しいものを遣っていても賢いこととは何も関係ないだろう。なぜなら「その言葉の意味は何ですか?」「定義は何ですか?」と聞けば終わりだからだ。
むしろ唐突に難しい単語を出されたら、賢いどころか何らかの意図でこちらを煙に巻こうとしているか、相手の知識レベルに合わせて説明できないコミュニケーション能力の低い人間だと私なら思う。
「その言葉はどういう意味ですか?」と聞いて、しどろもどろになるようならそれは自分が言っていることがわかっていないことになる。

このようなことを考えていたときに、人が知的な範囲で判断や理解を取り違えるのは、頭の良し悪しよりも、知的自尊心とでもいうようなものが大きく関わっているのではないかと考えた。
例えば「定義は何ですか?」と聞くのが恥ずかしいとか面倒だという思いがあるかもしれない。

「そんなことも知らないの?」と言われるのが怖かったり「基礎から体系的に一歩一歩理解するのは手間がかかってできそうにもない」と思っていたりするのではないだろうか。
また「定義は何ですか?」と聞かれてしどろもどろになるのも辞書的な意味を答えなければならないと思っているのかもしれないが、そうではなく「『あなた』はこの話の中でどのような意味でその言葉を遣っているのですか?」ということにすぎないわけで、自分なりのその言葉の定義を素直に言えばいいだけだ。また一般的な言葉の遣い方と大きく異なるのであれば、その点をことわればよいのだ。

一般に自尊心というと、自分はやればできると信じる気持ちとか、自分の価値を信じるといった意味で使われる言葉だろう。
また「本当に自信のある人は人を見下したり蹴落としたりしないものだ」などとも言われる。自分には自分そのものとしての価値がある、あるいは自分にはできるということを他の条件とは関係なく信じることができていれば、他人を下げることで自尊心を調達する必要がないからだ。
他人を参照するということで言えば「他の人間にできることであれば、たいていは自分にもできるはずだと思っていた」と話していた起業家がいたが、そのぐらいに思っておけばいいのだろう。
同じように知的自尊心がしっかりしていると、揚げ足取りや漢字知識で相手を揶揄するというようなつまらないことをすることもなくなると思う。

また自分の価値や能力を「信じる」「肯定する」という点について言うと、これらは根拠がないわけで、そういうものを信じられるためには親から愛情を注がれてきたことが重要だなどとも言われるし、社会で成功するには、生来の能力などよりも自分を信じられる自尊心が大切だとも言われる。

このような一般的な自尊心と、知的自尊心の違いは知的自尊心には「信じる」「肯定する」という側面がないことぐらいだろう。
知的自尊心の内実とは何か。それは、基本的な定義や考え方、経験や観察に基づく事実、真っ当な論理的思考の手続きを取っていることや、判断となると真っ当な常識、常識的感覚に基づくことも入ってくるかもしれないが、

「それらをきちんと踏まえていれば知的判断としては『大丈夫だ』と思えること」だ。

簡単に言ってしまえば、下から積み重ねていけば難しく見えるものだって必ずわかると思えることだ。

そういった一般的な判断の手続きを踏まえているかは建設的な議論や検証で不十分な点を洗い出してきちんと決着がつくものだから「信じる」という無根拠さは基本的にはないのだ。
ちなみに真っ当な常識的感覚というのは、権威に従うということとは異なる。

例えば臨床医学では教科書的なことについては別に医師でなくてもきちんと勉強した人は勉強不足の医師を論破だってできるはずだ。
患者さんの個人差が大きいため、医療現場においては医師の経験に基づいて総合的判断として適応外処方することもあるし、様々な現場的事情を踏まえた医療をすることはある。これらは医療の世界での常識とされ、たしかにある程度以上の経験ある医師にしかわからない部分もある。もちろん常識はあくまで常識にすぎないからロジックが常識を覆すことはある。とはいえ教科書を読むだけでは現場的な適切さはわからないということはたしかにある。

一方で専門医や教授のような権威者がいつも正しいかというとそこは話が違ってくる。
いくら偉い先生が言っていても、定義やデータ、ロジックをすっ飛ばして「偉い先生が言っているから何だかよくわからないけど正しいに違いない」というのは悪しき権威主義だ。下から積み重ねればわかるということ、つまり知的自尊心を放棄した態度だ。

裁判官はその決定によって執行のための「権力」をもつという意味では権威があるが、法学的にはロジカルに間違いを指摘することは我々にだってできる。それは法学が密教ではなく、知識それ自体は誰にでも開かれているからだ。


ニュートンやアインシュタインのようなビックネームだと、検証を経ていない晩年のテーゼを物理学者たちが一蹴してしまうことは難しかったという話もある。

理系はまだしも文系分野の大御所と言われる人については精神分析のラカン派=ラカニアンとかマルクス主義者=マルキストといった言葉があるように、彼らの思想や著作がある種の主義とか聖典となっていて、学問的に厳密な検証をせずに受け入れる「信者」もたくさんいる。おそらく「何かがつながった」感覚、自分の中にモヤモヤとしてあった感覚へのひらめきのようなものを与えてくれた思想なのかもしれない。
若い頃に有名になった思想家や学者が、輝いていた頃の精彩を欠いて晩年になって血迷ったことを言っていても、信者たちは「何か深い意味があるに違いない」となる。素朴に「そんなのおかしくない?」と言えなくてはダメだ。
ちなみにこのような態度はマルクスならマルクスを理想化して、真理を何でも知ってる人の言葉だと思うことでこの世の曖昧さについての不安を解消したり、同一化して自分が真理を何でも知ってる強い人になるというような心理機制と言えるだろう。

政治的な論争や、法解釈特に憲法解釈ではやたらと攻撃的に「そんなことも知らないで主張するな」という態度の人もいるが、そこは冷静に素朴な疑問をぶつけてみるとよい。なんとなく通説をなぞっているだけの人間はすぐにボロが出る。
過去の私のX(旧Twitter)でのやり取りをご覧いただければわかると思う。(同性婚についてのやり取り)

逆に冷静で特に意見を持たない人は、「偉い学者が作った通説なんだからそっちを受け入れとけばバカにされないだろうな」ぐらいに思っている人がきっと多いだろう。
そうすると「ムキになって通説を展開する人」と「通説を言っとけばバカにされないと思ってる人」が大多数となり、学会の通説が遂には世間でも「通説」となってしまう。
「いやでもここはさすがにおかしいでしょ」と自信をもって疑問を呈することができるか、そこが知的自尊心に依るのだ。自信を持って「なんでかわかりません」と言えることが自尊心だというのはなかなか面白いところかもしれない。
いづれにせよ真っ当に、普通に考えているという現実感を持てるかどうかが知的自尊心であり、それも内なる自信とかではなく、きちんと検証できるものなのだ。

学校の勉強や受験勉強でも特に数学や物理などで「とりあえずこのタイプはこう解くもんだよね?」という質問を受けるが、「通説ではそうだな。でもなんでそう解くんだ?」と聞いてみて「変数を一ヶ所に集めることができるから」とか何か理由を言えるなら充分合格点だ。応用が利きそうだからだ。本当は「定義や基礎概念につながる解法だから」と言えるのがベストだ。
とは言え数学や物理を苦手な人や嫌いな人は鼻をつまんで取り組んでいるだろうからそのような態度になるのも仕方はないのだが…

私が最も問題視するのはそもそも「わかる」とはどういうことなのかが「わかって」いないことだ。
「このタイプはこう解く」というのを知っていることをもってその問題を「わかっている」と思っていることがヤバい。
「『よくわからない』けど解ける」と自分で言っているならまだマシだ。「わかる」というのが今の自分の状態とは違うことを知っているからだ。

そしてこれについては歴史科目や国語の記述問題も同じだ。
「~世紀の民族移動がもたらした世界史的意義は?」と言われてその世紀の歴史ワードをなんとなくつなげただけだと「これじゃ世界史的意義とは言えないな」となるだろう。どう答えればその質問に答えたことになるのか、時代的にもどこからどこまでをつながりとして書くのかなどは「センス」などと誤魔化すのではなく、「素朴に納得できるか」を大事にすればよい。自分の解答と、予備校などが用意した解答を比べてみて、「うん、予備校の解答だとたしかに問いにダイクレトに答えたことになるな」と納得できればよいのだ。
国語でも「傍線部はなぜそう言えるのか」という問いにダイレクトに答えているか、そしてわかりやすく説明する形になっているのか、簡潔な答え自体にさらに「なぜ」を問うてみるなどして、説明として成り立っているか自分の理性で確かめるというのが大事であり、小難しそうな用語を並べたり、傍線部近辺を何となくつなげれば答えになるということはないのだ。

ここまでをまとめると、どの科目でも学問でも、最後は自分の理性で確認できるということを信じられるのが知的自尊心だと言える。


とは言え、「やっぱりなんか難しそう」と思う人もいるだろう。そんな人におすすめしたいことは、

「違和感を大切にしまっておく」

ということであるように思う。

私は親族に大卒者もいなかったし、田舎に住んでいて情報もなかった。そんな中で公立の少し難しい高校を受けようと中3のとき決めた。公立だから問題が易しいので苦手を作るわけにはいかない。当時苦手だった国語を何とかしたいと思った。
教員に聞いても「読書習慣がないから悪い」とか果てには「人間性が悪いから国語ができないんだ」とまで言われた。
風の噂で「朝日新聞の社説や天声人語の要約をやると国語力がつく」という話を聞いた。
一応素直に見てみたが、「うーん、これ高校入試の問題文と全然違うじゃん。こんなもの練習して成績上がるの?」と思った。基地問題がどうのこうのとか政治家を揶揄するような文章で、違和感をもった。「でも自分の国語力がないからこの文章が勉強になることがわからないのかもしれない」とも思ったが、一方で要約したところで誰も添削指導をまともにしてくれないし、国語力がつく手応えを感じなかったため撤退し、とにかく問題集を解きまくった。するとそれが実質的な「読書量」となったようで何とか成績は上がった。テクニックも何もあったものではなかった。

また中学では古文の文法は係り結びぐらいしか習わないのに入試では読解が出題される。それ自体おかしな話だと思ったが、これも教員に攻略法を聞きに行った。すると「10回読め」と言われた。たしかに何回も繰り返せば文脈が見えてくることはあるのかもしれない。一貫性のある辻褄の合う解釈が前後を行き来する繰り返しの読みの中で出来上がることもあるのだろう。しかし自分には当時はその意味がわからず、能力もなかったので点数が上がりそうにはなかった。
都市部に用があって出掛けたとき、本屋に立ち寄ると私立高校対策用の古文の参考書があった。
そこには文法や単語がコンパクトに載っていた。
助動詞の「ぬ」や「ん」は現代語の感覚で否定だと思っていたが、古文では「ぬ」や「ん」に否定の意味はなく、意志や完了を意味するらしい。
「肯定と否定が入れ違ってるのが何ヵ所も出てきたら文脈なんか取れないよ。やっぱちゃんと知識つけた方が早いじゃん」と思った。


また哲学者ハイデガーは「死が人間の在り方を決めている」「おしゃべりや噂話などをして本来やるべきことをやらない頽落的な生き方をしているのは己の死と向き合わないからだが、それが平均的な人間の生き方だ」と言っていると中学生のとき知った。
「たしかにそれはあるかもだけど、死との関連だけで人間の在り方全て決まるのかな?異性親と似た人を情熱的に愛するとかそういう死とは無関係なところで生き方が決まってることもあるのでは?それとも情熱的な愛自体も死の観念に通じているのか?もしくは人生経験や哲学の勉強が足りないから理解できないのか」と疑問は持ちながらも結論は出せないという状態だった。さらに「死のことを年中考えてるような人がハイデガー哲学ファンなのかもしれないではないか。哲学者という特殊な集団が自分達お仲間どうしの感性を擦り合わせて平均的な人間とやらを論じているなら眉唾ものの可能性だってある」
先程の憲法解釈と同じ問題意識は当時からあった。
これは別記事にも書いた「意見には身体性がある」というのとも通じている。


中学生の頃の勉強法と哲学の話を例として挙げたが、身近な人とのコミュニケーションでも大してわかってない人間が立場もあってとりあえず適当なことを言うということのオンパレードだろう。
その時にわからないものはわからないと判断を保留にしたり、「何か誤魔化してるな」「そんなわけなくない?」という違和感を大切にしておくことだ。

もしかしたら意外に思われるかもしれないが、誤魔化しは理性の中にこそあるのであって、違和感などの感覚の中にはないのだ。
「知的」自尊心の話をしているのに意外かもしれないが、違和感などの感覚を尊重することこそが間違いを減らすのだ。

自分が中学生の頃は「自分の能力や感覚が悪いから理解できないだけなのかもしれない」と思いながらも、違和感は大切にとっておいた。間違いもあったかもしれないが、今になっても「やっぱり当時の感覚は正しかった」と思えたこともいくつもある。
こうして大人になってUPしている文章はようやくある程度の自信をもってみなさんに読んでいただくに至ったものだ。

知的自尊心は判断や理解に根拠をもって自信をもつことにつながるから、「自分はモノをきちんと判断できるんだ」というようにいわゆる普通の意味での自尊心をも高めてくれるし、逆に自尊心が高い人は自分の中の真っ当な思考や感覚を信じられるだろう。つまり相互作用しているのだ。

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