羽生結弦さん離婚問題。他の論者が見落とすたくさんの問題点。

スケート選手の羽生結弦さんが結婚からわずか数ヶ月で離婚を発表。各所から様々な意見が出ている。

切り分けて考えるべきところ、区別しなくてはならない事柄などが精査されていない荒い議論が横行し、羽生さんを傷つけることに加担したり、開き直りを見せるメディアまである。
羽生さんはいろいろな考えで結婚相手を公表しないことにした。そこには知らされていない諸々の事情があるのだろうが、それが何であれそれを踏みにじっていいということになるのだろうか。
他人の私生活をああだこうだというのが報道の自由なんていうご大層な話と直結するというのが私は感覚的にキモい。

感覚を言っても仕方ないので論理を述べていこう。一般の人たちだけでなく、いわゆる記者だの論者だのといった立場で、よくもまあそんなレベルの低い考えを披露できるものだと呆れるものも多い。論点はたくさんありそうだ。さっそく始めよう。

まず有名人として稼いだり、国民栄誉賞をもらったりしてるのだから単なる私人ではないという意見だ。
それはそうだろう。だが、そうするとどんなひどい取材にも耐えなくてはならないのか。
個人の生活というデリケートであったり繊細な側面まで一般大衆に晒されるのは有名人だというだけでただちに義務なのか。
「せめてどんな方なのかある程度明かしてくれれば」という意見もあるが、それも羽生さんが決めることで余計なお世話なのだ。
最近の「報道」はネットも一緒になってひどい状況になることも多い。ものごとは程度問題だ。上っ面の報道の自由という理念を盾にしているわけだが、どこまで現実の在り方を考慮に入れているのか。
報道の自由なる崇高な理念は、有名人とはいえ個人にすぎないプライベートをぶち壊してでも覗きみたいという下劣な俗情に媚びることも含めてなのか。一般論として議論はあっても構わないが、羽生さんがはっきりと嫌だと言ってるのを覆してまでやることなのか。

犯罪者には刑罰を課すのは適切であっても非人道的な扱いをしてはならない。次元の違うことなのだ。犯罪者なんだから非人道的な扱いもやっちまえというのは間違っている。
有名人だから多少の評論など一般人からされることはある。しかしそれと人権侵害級の取材を受けなくてはならないこととを区別すべきだ。
昔オウム真理教の教団施設のトイレの汲み取りをさせないということがあったが、あれと同じだ。

またジャーナリストの江川紹子さんは、取材は取材対象に許可を得てやるものではない。さもないと取材対象者の意向だけが報道されるというわけだ。相手が嫌がっても取材する必要がある場合があると。
たしかにそれはある。だが、それは政治家などの権力者の監視や犯罪の取材などの場合では妥当だろうが、スポーツ選手の結婚相手にそこまでする価値は本当にあるのか。そんな御大層な話なのか?相手が嫌だと言ってるときにまで。

また、「これまでの芸能人もいろいろ勝手に報道されてきた」という意見もある。
これもたしかにそうなのだが、様々な状況を勘案して羽生さんは、お相手を公表しないと考えた。それは現代のSNSで一部の人間が暴走すること、もしくは犯罪などではなくとももしかしたら名前が知れることで知られたくない過去が掘り出されたりするかもしれないのを恐れることだってあるだろう。
めちゃくちゃなイチャモンをつけて貶めてくる人間もいる。悪意のもとにはきれいなイメージを保つのは難しい。羽生さんはそういったことも考えたのかもしれない。

過去には親の不始末で、自身の結婚にミソがついた人もいた。スケベ心で女に金を出したのに、その女を思いどおりにできなかった腹いせに暴露をした哀れな男。だが問題はそんな雑魚ではなく、その男の代理人が週刊紙の記者という状況だ。ゲスネタで金を稼ぐ記者がそのネタ元の代理人ということに本当に報道としての問題はないのか。
この記者と哀れな男の結びつき、取材のあり方などを検証するためにも彼らの実名や家族構成、落ちぶれるに至った経緯を報道することは公益に資する。


そして羽生さんが言う、一部ストーカー紛いの人間による嫌がらせという部分についてだ。
「他の芸能人だって」と言うとき、すべての芸能人、有名人をいっしょくたんにしている。
どういうことかと言うと、羽生さんには羽生さんのファン層があり、ほとんどはまともな人だろうが、特に「コアな」人たちがどのようにアプローチしてくるのかといったことはそれぞれのキャラクターや売り出し方によって大きく異なる。
羽生さん、旧ジャニーズ、EXILE、アイドルなどのヤバいファンはそれぞれに特徴があるだろう。
それを踏まえて総合的に考えて、公表しないことに決めたのかもしれないし、外からはその様相は見えにくい。かといって羽生さん自ら「いやあ、中にはこんなキモいファンがいるんですよ」なんて言えないだろう。それぞれの事情や考え方で公表しないことにしましたというのがなぜそんなにいけないことなのか。しかもその目的は自身や家族を守るためなのに。

はじめにお相手の実名を報道したという地方のメディアは「なぜ隠す必要があるのか?それこそ女性蔑視だ」などと言う頓珍漢さだが、それは彼らが決める話ではないのだ。
とにかくひどいものだった。「おらが街のお嬢さんが有名人と結婚した。だから報じる」と。「でもこのような結末になったのは自分達のせいかもしれず残念だ」と言うどころか「自分はお相手の方のお父様とも知り合いで、娘を守ってくれなかったことを憤ってるに違いない」と言う。
ではお父様には取材したのか?公私混同のもとに勝手な憶測でモノを言う。「報道の名に値しない」なんていうことさえもバカらしいレベルだ。

「お相手の方から抗議は来ていない」とも言う。
しかしお相手の方が嫌だと思っていないなら羽生さんは一体何を言っているのか?羽生さんが他の離婚理由を隠しているなどの見解もあるが、それならお相手の方は羽生さんに「自分は報道に対して嫌な思いはしていない。ウソを言うな」と「抗議」などしてもよいわけだ。そのような事実が確認できない以上、自分達に抗議が来ていないということだけをもってお相手の方が嫌な思いをしていないというのは論理的に間違いだ。それにこれだけ居直っておいて、抗議が来たら謝罪するのか?
まあ高校入試レベルの国語力もなさそうなので、今の話しは少し難しかったかな?

私から言わせれば、このように知的にも人間的にも拙劣な連中が剣よりも強いペンを握っていることに大変な危機感を感じるので、このような発言をしている人間の実名や経歴、家族構成を知りたいし、それを報道することは公益に資すると思うがいかがだろうか。


カメラを向けてくる人間への最大の対抗手段はカメラを向け返すことだという。
キャンドル・ジュンさんは自身の会見の中で、質問者にも自分のステージに登壇してもらって質問を受けた。つまり誰がどんな質問をしたのか晒されるわけだ。政治家や著名人を追い落とす力を持つのだから、取材がどのようになされるのかは公益に資する情報だ。
岡田斗司夫さんは、約束と違う取材の仕方があれば取材者をこちらも晒すというやり方をした。

杉田水脈衆議院議員は切り取りをやられるだけなので会見を開かないという。賛否はあるだろうが、主張をねじ曲げられるなら取材対応をしたくないというのは理解はできるし、反対者からの質問などが受けられないという問題はあるが、自身の主だった主張はもらさず話すのであればYouTubeでもなんでもいいのかもしれない。しかし杉田議員側から報道席にカメラを向けて会見して公開する手もありそうだとは思った。
これら全て報道被害のひどさ、回復の困難さからの防衛だ。本来公人は反対勢力からの質問も受けるべきだ。だが、それもあまりにも劣化した非常識で非人道的なものならば対応できないのは当然だ。
私から言わせれば、悪質な報道のせいで杉田議員の主張が部分的にしか伝わってこない事態となっていることになる。

話は逸れたが、常識が崩壊し、その被害や影響があまりに大きい現代の報道には、絶対に個人情報は出さないというのは有名人にも許されるべきではないか。
そう考える理由について最後に新しい論点を提示したい。
現代は多様性が認められ、差別やいじめ、ハラスメントに対する目は厳しくなっている。
これは被害を訴える閾値が低くなっていることを意味する。いいか悪いかはさておき、求められるタフネスのようなものも少なくなってきている。
困ったときやつらいときに声をあげやすくなったことそれ自体はいいことだ。
以前なら有名税ということで何でもかんでも飲み込んできた有名人の方々は、この状況でもまだ非人道的な扱いを甘受しろというのか。
常識が変わってきているのに、有名人だけは固定でボコボコにされろというのはさすがに違うのではないか。
有名人も被害を訴える閾値を下げたり、そっとしておくように求めるハードルを下げることが許されるべきだ。

離婚後も様々な憶測やそれに基づいた批評がなされるが、「他人には預かり知らないことがいろいろあったのだろう」では我慢ができないのだろうか。
「離婚よりも一緒にいて守ってあげるべき」とかなぜそんなこと言える?「離婚」と「婚姻継続」で前者の方がよさそうだという状況判断はいかなる場合にもおかしなものなのか?そして結婚や離婚の主体は羽生さん一人なのか。お相手の方が主導して意志決定がなされた可能性はないのか。
そこでいろいろ葛藤や、もしかしたら喧嘩もしたかもしれない。その中で現実的な最適解を二人で見つけたのならそれを応援するということではダメなのだろうか。

しょうもないメディアに乗せられる一般人という残念な状況だと私はさみしく思う。


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