拡大主義が人間を硬直させる

今回論じる拡大主義とは、例えば国の人口を増やしたり、個人レベルでは収入が増えて生活水準を上げていくことなどを指している。
そのことが人間や人間社会を身動きしにくくさせている側面があるのではないかということを考えた。

国や社会と、個人のような全然違う対象が、「拡大主義が硬直を招く」という一つの原理に従っているという話を今からしようとしているわけだが、それについて学問的裏付けが何かあるわけではない。
なので単なるポエムとして、読んでいただけたらと思う。また私個人は今の人口減少を肯定する考えもないし、国力やGDPなどの経済指標などとどのような関係にあるのか正確に知っているわけでもない。

間違っている部分や「今でも疑問だ」という部分に対して答えを知っている方がいればコメントなどで教えていただけるととてもうれしい。


大学の入学手続きなどの際に部活やサークルから激しい勧誘を受ける。
どう見ても自分とは色合いが違う先輩方も声をかけてくる。「いや、入るわけないでしょ」と思うのだが、とにかく誰でもいいと思っているのだろうか、勧誘ブースに連行して部の説明を丁寧にしてくれた。
そのときに「なんでそこまでして部員の数を増やしたいのだろう」と思った。部費を広く徴収できるからとか、もしくは組織が大きくなること自体に何かメリットがあるのか。仲間が多いということで縦のつながり横のつながりも増えるからなのか。

これについてはそもそもただ存続することさえも、拡大を企図していないと叶わないということもあるのかもしれない。
ニーチェは「価値とは維持と高揚の諸条件」と言っているが、拡大主義は組織や社会、個人のような有機体の本能なのかもしれない。

しかし今回論じたいのはそのような拡大主義に伴う弊害の部分だ。
国家にとって人口増加は国力を上げることに繋がると言う。生産活動も消費活動も活発となり、国内のマーケットだけで経済活動が回るようになる。

しかし人口が増えれば、たくさんの人々を食べさせていく必要がある。エネルギーや食糧のみならず、商品を売りつけるマーケットの確保も必要となるのだ。
歴史上で見れば、それが戦争を招いたり、はたまた奴隷制度のような非人道的制度を存続させることになった側面もあるのではないだろうか。
「外部にかわいそうな人がいるのはわかるけど、戦争や奴隷制度がなければ、今の国内の人たちを養えないじゃん。今さらやめられないよ」という感覚がある種の常識として蔓延し、仕方ないものとして非人道的なものまでもが存続することになる。
奴隷制度の終焉もある種の正義感だけで成し遂げられたわけではなく、別の領域での労働力(例えば工場労働者)として利用するために人道上の大義を掲げて成し遂げられたのかもしれない。同じ人間を不平等で不自由な状態に置くことへの憤りだけで解放が進んだわけではないのだ。

拡大主義のために他を犠牲にする。しかもおかしいと気付いても引き返せない。引き返せば仲間や自分が多大な不利益を受けることになる。

大量生産の食糧にしても、自然環境から狩猟・採集して自分達で消費する在り方とは大きく異なる形で調達されていることだろう。
農薬や抗生剤、各種添加物も多少の害があることはわかっていても、それによって巨大な人口を支える生産方法を変えることはできない。そんなことを主張すればたちまち「非現実的な主張だ」と一蹴されてしまう。例え身体に悪くてもだ。
もし小さな島で、数世帯が協力しあって食糧調達しているだけなら、歪な自然支配や食糧供給に頼る動機はないであろう。
大量消費社会における家畜の扱いなどは、我々は見て見ぬふりをしていると言っていいだろう。単位コストあたりの生産量を最大化するために狭いとこに閉じ込めたり、運動させずに食肉を肥大化させる飼育をしている。しかし、もし今後肉を食べなくてもタンパク質が摂取でき、人口を維持できるようになって、家畜が「解放」された暁には、「我々は同じ動物になんて酷いことをしていたのだろう」というように反省しているかもしれない。
今すぐその飼育をやめたら人類は飢えるだろう。そのために「これは仕方がない」と自分達をなだめすかしているのが現代の平均的な人間の感覚だ。

エネルギーにしても、供給が断たれれば国民の生活や命に直結する。よってリスクの大きな技術でもそれを続けるのが「現実的」と言われることになる。
カタフトロフィーはそうならないように「気をつけて防げばよい」のだ。

自動車は公共交通機関の少ない地方では生活の必需品となっている。
しかしそれだけではなく物流を支えてもいる。東京にいても肉も野菜も魚も、遠い地域の工場で作られる日用品もほとんどいつでも手に入れることができる。というかそれが可能だからこそ東京は1000万都市として成立している。物流に条件付けられて快適な都市生活が成り立つ以上は、昭和の頃のように年間交通事故死者数が10000人以上であっても「自動車をやめよう」とはならない。これも「気を付ければいい。車はどうせ必要なのだから」というロジックで通用してしまう。
ちなみに毎年10000人以上の死者がいると、「知り合いの知り合いが事故死した」とか「遠い親戚の誰それが事故の加害者として交通刑務所に入っていた」なんて話をたまに聞くというレベルだ。交通事故死が全く遠い世界の話という感覚ではないのだ。それでも「自動車を使うのをやめよう」とはならなかった。


人口を増やしても大丈夫なように技術は進歩し、少ない人口に対してエネルギーや食糧、生産手段が相対的に豊かになれば、本来その状態を維持すればゆとりのある状態が持続して個々の構成員は幸福なはずだ。
それなのに現実は、余剰を利用して余剰を使いきるまで人口を増やそうとする。そして余力がなくなれば再び「技術革新」を志向するようになる。
一億人の人口をラクに養うために技術が進歩して五億人養えるようになれば、人口は五億まで増えて、今度はラクに五億人を養うべく十億人を養う技術が開発される。
しかもその十億人はもしかしたら一億人の頃に食べていた肉や野菜よりも粗悪なものを食べているかもしれない。
多少の新鮮さが失われた食品もそこそこ美味しそうに見えるように添加物が加えられているとしたら、地産地消しか選択肢がなかった時代よりも粗悪なものを口にする羽目になるだろう。それは安く大量に作られて、物流網が整えられたからこそ新鮮じゃないものを食べることが可能になってしまったということなのではないだろうか。


個人の収入もそうだ。年収が低いころは「これが倍になったら日常生活めっちゃハッピーだろうな」と思うだろうが、それが正しいと言えるのは生活水準を維持した場合だ。
いざ倍になれば、余りをそのまま貯金や投資に回す人はめずらしい。旅行に行ったり外食するお店のレベルが上がるだけではなく、ローンで家を購入したりすれば、手元に残る現金はそこまで変わらないなんてことになる。他にも子供に中学受験をさせようなどなど「余剰金」は使い果たされ、「カツカツだよ」なんて高所得の人が言っているのもよく聞く。
これも個人の生活の拡大主義の帰結だ。
もちろんこれは有意義なものを獲得するための拡大であり、所得が増えたことで人生の質が下がっているわけではない。
しかしでは家のローンや中学受験を降りることはできるのか。
昔の収入でその時なりの生活は成り立っていたはずだ。それなのに普通は降りられないと思っている。拡大した結果、つまりローンがあったり、子供が中学受験をしているということを含めての自分になってしまっているから、それを降りることは、自分の一部を失うという事態となる。つまり自分が拡大してしまったことでそれを失うことは自分の手足を失うような感覚になっているのかもしれない。
家は昔住んでた安アパートに戻ればいいし、子供は公立の中学に行かせればいい。そんなおどろおどろしいことなのか。それでも今獲得しているものは自分の一部と化していて失うことはできないと感じてしまうものなのだ。


今獲得しているものは自分が正当に所持しているものであるという感覚はいわゆる既得権の起源だ。
社会全体のパイの分配を考え直すにあたっては、既得権側は改革の抵抗勢力のように外部から見なされるわけだが、当事者としては既に正当に得たものを奪われることになれば抵抗を感じる。

昔財政的に厳しかった大阪市の職員が、同じ業務内容で民間と比べて給料が高かったことから、給料を何割もカットされたりしたようだ。いきなり給料を減らされた職員もローンを組んでいたかもしれない。その時やはり拡大した生活を基準にして、その処分の妥当性を考えたはずだ。つまり納得はいかなかったことだろう。本来得るべき給料と並んだだけだとしてもだ。
拡大したラインを基準にするせいで既得権者は現実的な利害だけでなく、心情的にも改革に抵抗する勢力となる。


次に生物の進化を考えてみよう。単純な構造の生物が繁栄すべく、生きるための役割を分化させて機能ごとに身体の特定の部位に特定の役割を担わせる。そのそれぞれの部位が「器官」というものだ。
脳、心臓、胃、腸、腎臓これらのうちどれが完全にダメになると個体は死ぬだろうか。
最先端の医療の補助があるような特別な場合を除けば、答えは「すべての器官」だ。つまり一つでも完全にダメになれば死ぬのだ。機能分化が達成された以上、例えば腎臓の役割を胃が担うことはできず、生きるうえで必須の、毒物を体外に排出するという機能が一切果たせなくなるからだ。
全部位が全機能を果たしている金太郎飴のような分化していない生物は一ヶ所がダメになっても死なない。
しかし生命体として効率よく生き、また自らの勢力を拡大していくにあたって生物は「進化」して機能分化によって自身の勢力拡大を有利に進めたと考えられるが、その裏ではたった一つの臓器の故障で個体全体が死ぬという脆弱性を獲得してしまったのだ。


人間組織、人間の生、生物の進化、これらの拡大主義はそれぞれ硬直や脆弱性を孕んでいる。
しかし裏を返せば、そのような不利益を引き受けてでも有機体は効率性を向上させ、自身の勢力圏を拡大させようとする。
それは単なる適者生存なるダーウィニズムがその基底に隠し持つペシミズム、つまり単に生き残って単に子孫を多く残すことだけを自己目的とする世界観では描ききれない何物かがあるのではないか。
これまでの生にしがみつくだけではない、生の力の発露としての拡大、そしてその拡大は生きるものの端的な意志なのであり、それはそれ自体が目的であるような「力への意志」の一つの現れなのかもしれない。



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