99年東大入試「加法定理の証明」の真の出題意図。定義の重要性と出題の巧妙さ。

99年の東大入試で「加法定理の証明」が出題されたことは有名だ。

(1)一般角θに対してcosθ、sinθの定義を言え
(2)加法定理を証明しろ
という教科書に書いてあることが出題されたことが話題になったのだ。

20年以上経ってこの出題の意図が未だに正しく理解されていないように感じる。少々長くなるが今回はこの問題の本当の出題意図と、さらにこの出題の受験問題としての絶妙さについてもちょっと意外な観点から解説していきたい。


ちまたでは「数学は公式の証明から大事。公式あてはめや解法暗記じゃだめだというメッセージだ」などと言われていた。

なんで成り立つのかわからない「公式」に基づいて値が求まったとしても、そもそももしその公式が正しくないならば求まった値も無効になる。
数学は論理を積み重ねて思考を進めていくものなので考える前提となる知識(公式)が正しいと決まらなければ、それに基づいて導かれた事実も正しいとは主張できなくなる。
そのため「基本事実」とみなされている「公式」はなぜそれが成り立つのかわかっていなければならない、つまりそれを使う以上はいざとなれば証明できなくてはならない。それが数学の確実性を支える。そして数学のアイデンティティーはこの「確実性」なのだ。だから数学の学習では公式の証明が大切である、ということになる。
これはもちろん間違ってはいない。しかし出題意図を汲み尽くしてもいないようにずっと感じていた。

証明においては、そこで使われる知識そのものも「なぜそれが成り立つのか」がさらに問われるということが繰り返される。
「Aが確実と言えるのはなぜ?」→「Bだから」
「Bが確実と言えるのはなぜ?」→「Cだから」と遡っていくとすると、一体どこまで遡ればよいのだろうか。
一つは「これはさすがに間違いないだろ、明らかだろ」というような事実で、「自明の真理」として扱われるもので、これは「公理」と呼ばれる。自明として扱った以上、この成立についてはなぜなのかを問う必要はないことになる。
例えば「二点間の最短距離は線分で結んだときのその線分の長さである」というのが公理だとすると、それを前提にすることで、三角形の成立条件も導かれるだろう。一つの辺ABはAとBを線分で直接結んでおり、Cを経由するルートであるAC+CBよりも近道だというようにだ。(AB<AC+CB)

どこまで遡るのかのもう一つは「定義」だ。
この問題の(1)がまさに定義を聞いている。「cosθ、sinθとは何ですか?」への答え、言葉の正確な意味のことだ。
(1)の答えは、「単位円(半径1の円)上の点で、x軸正方向を0°として、原点を中心に反時計回りにθ回転させた点のx座標がcosθ、y座標がsinθである」
となる。
これもなぜそれが成り立つのかは問われない。単に名前の意味を言っているにすぎないからだ。あるいは上のような性質を満たすものをcosθ、sinθと定めた、名付けたということにすぎない。
物理の光学の分野で「なぜ焦点に光が集まるのですか?」と質問する人がいる。「光が一点に集まるのはなぜですか?」と聞くのはおかしくないのだが、「集まるのがなぜ焦点なのですか?」というのはおかしな問いなのだ。なぜなら「諸々の理由で光が集まる点を焦点と定義した」という話だからだ。
同じように「なぜ単位円上でx軸正方向から反時計回りにθ回転させた点のx座標がcosθなのですか?」もしくは「cosθはなんでθ回転したとこのx座標なのですか?」というのも無意味な問いであり、「それが定義だから」という以上の答えはない。

高校範囲の試験なので中学までに習った内容も使ってよい事実なのだろうが、基本的には、定義や公理から導けるもの以外は認めないのが数学的思考ということになる。
いづれにしても確実に正しいことや名付けたという以外の理由はないというもの、つまりそれ以上は根拠を遡れないものからのみ証明は進み、結論に至らなくてはならない。


また証明したいことが、証明したい知識に基づいて認められた事実に基づいてはいてはダメだ。
例えば「加法定理」によって「2つの複素数の積の偏角は、元の2つの複素数の偏角の和である」ということが証明されたとしよう。
それなのに「2つの複素数の積の偏角は、元の2つの複素数の偏角の和である」という事実から「加法定理」を証明したとするのは誤りだ。循環論法というやつだ。
「加法定理」という今から正しいことを証明したい事柄、つまりまだ正しいか確定していない事実をもとに導かれた「複素数の積」の話は確実ではない。その確実ではないことをもとに「加法定理」を根拠づけていることになるから証明したことにはならないのだ。


ここまで証明における、公理、定義、循環論法を簡単に説明した。

東大がこの問題を通して特に注意を促したかったのは何か。それは「定義」から思考することの重要性だと私は考えている。

公理や中学までの知識のように、確実だとわかっていることに基づいて論理的に証明を進めなければならないことや、循環論法がダメなことは多くの人が当然のこととして知っているだろう。
ただし、確実とわかっている知識というのも気を付けなくてはならなくて、「加法定理を証明しろ」と言われている以上、加法定理に基づいた知識は真偽が何もわからない世界においてもなお確実とされる知識だけを使わないと循環論法になってしまうというのが注意点だ。
実際、出題当時複素数の回転を用いて証明したという受験報告が相次いだ。
いわゆる数学オタクと言われる人たちがなぜか嬉々として「循環論法やっちゃったー」と言っていた。
先程も紹介したように複素数の回転は加法定理を根拠にしているので証明したことにはならない。
申し訳ないが、東大はまさにそのような受験生を落としたかったのだと思う。
「わかっている事実」「使っていい事実」と、そうでないものが腑分けできていないと証明問題はおぼつかない。

「加法定理の証明」と検索していただくといくつかの証明方法が出てくるのでそれらをざっくり検討してみたい。
複素数の回転を用いる証明は露骨に循環論法なのはわかりやすい。これはダメだ。

では余弦定理を用いた証明はどうだろうか。
実際の東大の採点がどうだったかは知らないが、私はこれも際どいと思っている。
余弦定理自体は加法定理は使わずに証明できるし、有名事実だ。数学的な誤りはないだろう。
ただ(1)でcosθ、sinθの定義という相当基本的なことを聞いてきている。
(2)ではこれを議論のスタートにしてほしいというメッセージだとすると、「直角三角形において、斜辺×cos=底辺とか斜辺×sin=高さ」のような事実から証明される余弦定理を用いるのは、基本的な定義から見ると結構「ジャンプ」している印象をもつ。繰り返しになるが、数学的には循環論法にもなっておらず、おそらく満点をつけざるを得ないだろうが、ジャンプの隙間を埋める議論は必要ないのかという疑問は浮かぶ。

そして最後、余弦定理を用いずに証明する方法だ。単位円上の点A(1、0)、これを反時計回りにα回転させたB(cosα、sinα)、さらにβ回転させたC(cos(α+β)、sin(α+β))、これら三点をそれぞれ-α回転した点A'(cos(-α)、sin(-α))、B'(1、0)、C'(cosβ、sinβ)を設定すると、AC=A'C'は回転すれば2つの線分は一致するので当然言える。あとは二点間の距離の公式(x座標の差の2乗+y座標の差の2乗の平方根)を用いるのみで導かれる。

①複素数の回転
②余弦定理を使う証明
③余弦定理を使わない証明
の3つにわけるとすると、③が(1)からの誘導にふさわしい思考手順であると思う。
線分を回転させても長さは変わらないこと、二点間の距離の公式(これは直行座標においては三平方の定理と同じ)、そして定義、たったこれだけで証明が完了している。③こそが東大が求めていた答えだと思う。

東大入試では白紙に証明を記述させるため「基本公式の証明は自力でできなくてはならない」と世間では批評されたが、①から③の証明手順の知識を何なら与えてしまって、「この中で最も基本を踏まえた思考はどれでしょう?」という判断をさせるだけの問題でもよかったと思う。
証明の中身の知識(②や③を答案に書けること)も大事かもしれないが、それ以上に、まずは考える対象の定義をはっきりさせ、それと基本的な事実との組み合わせのみで考えることが大事であることをわかってほしかったのではないだろうか。

「定義を大切に」というのは本来はどんな学問でも言われるし、議論でも錯綜したときには改めて問い直される。
「論理が大切」というのは何となく理解されているが、定義の大切さや論理的な思考との関係はあまり理解されていないように思う。

昔高一生を指導していた。彼ははじめ「三角関数」としてcosを直角三角形の底辺÷斜辺、sinを高さ÷斜辺と覚えていた。
導入のイメージとしてはそれでよいということを伝えた上で、一般角の定義を改めて教えた。cos(90°-θ)=sinθは直角三角形の中で理解できるのでよいのだが、cos(180°-θ)=-cosθというのは「直角三角形書けないからわかんないじゃん」と言い出した。「いや、単位円の定義に基づいて考えてみて」と言っても「いや、でも直角三角形書けないのに…」と言って納得してくれない。
直角三角形の話をしてるはずなのに、急に「円を描いて考える」ということに唐突さを感じたのだろう。その感覚はわからなくもない。定義と、それが必然的に含みこむ意味や概念が、前もって持っていたイメージなどよりも偉いということがなかなかピンとこないのだろう。
定義というのは、混乱や矛盾を引き起こさないものであれば、その言葉を使う側が自由に設定していいのだ。そしてその定義に含まれる意味に沿って論理的に導かれたものは正しいとしてよい。
数学を含めて学問の世界では、定義を設定するのは多くの場合個々人ではなく、各学問が主体となる。
cosやsinの定義は数学という主体が設定しており、数学を学ぶ側はそれをまずは覚えるということをする。本来はcosとsinを逆に定義しても構わない。単なる名前なのだから。しかしこれまで数学が構築してくれた知識体系を使いたければ、定義から従うしかない。そのぐらい定義は偉いのだ。
そして定義を覚えれば加法定理も導かれるし、さらに加法定理から導かれる倍角の公式や半角の公式、三角関数の合成なども使うことができる。

また「定義はどう設定してもよい」と言ったが、その学問の発展、展開にとってより良い定義の設定というものがある。
例えば、直角三角形の中でだけ定義するよりも単位円上の点として一般角に対して定義したことで、より広い議論が可能となり発展性があることは先程の高一生の例からもわかるだろう。彼の「定義」に基づけば180°-θの公式が「わからない」というのは実は論理的には間違っていない。定義を単位円のものに変えたことでより多くの事実が確定したということにすぎないのだ。


議論が錯綜したときにも「あなたの言う◯◯の定義は何なのですか?」と聞かれて慌てて「えーと、国語辞典にはこう書いてあります」などと答えるのもおかしい話だ。あくまで「『あなたは』◯◯をどういう意味だと思ってここまでの議論を展開してきたのですか?」と聞いているにすぎない。
定義の設定は自由なので、それぞれが異なる定義のまま議論していても意見の一致を見るはずもなく、「あなたの定義」を聞くことで、本当に同じ対象を議論しているのか確認しているわけだ。だから別に国語辞典のような既存の権威を引っ張り出してくる必要はなく、自分がどういう意味で使っていたのかを堂々と述べればよいのだ。
これが定義の重要性や論理的思考との関係だ。


ここからは受験問題としてのややテクニカルな話に入る。
cos、sinは余弦定理や正弦定理、「とりあえず二乗する」、和積や積和などなど、公式やテクニカルな知識をたくさん覚えて試験を解くため、定義などの基本事項は実際の受験指導の現場では蔑ろにされがちだったように思う。というよりそもそも何なのかわかっていない高校生が当時多かったのかもしれない。
数学ⅡBは指数対数やベクトルなども含め、解き方や計算テクニックを覚えないと話にならない分野が多く、その訓練に時間がとられがちだ。
指数対数ではなぜか「logはまだいいけど、指数が苦手」という人も多い。これはおそらく底の変換や計算の仕方を覚えれば何となくでも得点できるからだろう。logとは「底を何乗したら真数になりますか?」という値だから対数の方が得意というのは本来は変な話だ。だがともあれlogが何なのかは一応みんな知っていた。
しかしcos、sinに関しては、何なのか本当にわかっていない人がいることを東大は察知していたのではないだろうか。先程言ったように(2)は証明内容そのものよりも論理展開にこそ興味があったのであり、解答の内容だけで言えば何なら本当は(1)を(2)以上に重視していたように思う。「大事なことだから一応聞くけど、もちろん定義知ってるよね?」という出題だったのだろう。


最後にこの問題の受験問題としての絶妙さについて述べたい。
数学をあまり好きでない生徒に受験対策をどのようにさせるか。「とりあえず、この問題にはこのテクニック覚えて当てはめて解け」というように大量に知識を身に付けさせるだろう。だが、それだと応用範囲は狭く、設定が変わると「難問」と言われたりする。
数学というのは論理が明晰な分、簡単にしてしまうと上位層で差がつかない。そのためテクニックや「応用問題」のバリエーションを増やして差をつけさせている。そこに数学が得意ではない人が立ち向かうのにテクニックを大量に覚えるという対策が取られる。
しかしそのやり方だと案の定、多くの受験生に難問扱いされがちなパターンというのが出てくる。
中には特殊な数値感覚や図形感覚、いわゆるひらめきを要する問題もたしかにある。それは解けなくても仕方ない。
そうではなく、定義や基本概念をきちんと汲み尽くしてさえいれば、自ずと「この解き方をするべき」というのがわかる問題もある。私はこれを「解法の必然性」と呼んでいる。定義や基本概念が解き方を定めてくれているということだ。
定義や基本公式の証明は、いわゆる難問の答えを読んで、なぜそう解くのかを教えてくれる元ネタの宝庫だったりする。

難問こそ基本に含まれるのだ。

私は「とっとと解き方教えてくれ」とダルそうに言ってくる生徒に対してでもきちんと定義や基本概念を説明し、過去問などで行き詰まった時に、「定義は何だっけ?」と突きつけて思考を促す。
それを繰り返すうちに数学において「考える」ということが単なる思いつきなどの闇雲なものではなく、しかるべきルート、つまり必然性があるということが理解してもらえるようになる。

図形なら円の定義の確認から始め、円周角が中心角の半分であること、方べきの定理の証明などもそのアイディアに簡単に触れる。ベクトルをやっていてもひし形や長方形の性質のような小学校の内容もきちんと確認する。「ひし形を扱うときは単位ベクトルを使う」などはテクニックではなく、ひし形の性質から当たり前なのだ。
確率や場合の数では、樹形図などで数えあげることが基本中の基本であり、いざとなればそこに立ち返るようにしつこく言う。3個選ぶ組み合わせではなぜ3ではなく3×2×1で割るのかなど基本的なことから具体的に理解してもらう。小学生から浪人生まで同じ説明をする。そうするとCやPを乱発するのがこの分野の本質的な思考ではないこともわかるようになってくる。
このようなことがきちんとわかると大問の最後の方の「難問」とされていた問題の方が実はあっさり簡単に片付くということも多い。

長くなったが、私が定義や基本概念を教えるのは何も「数学とは本来こうあるべき」を押し付けるためではなく、受験問題にも「使える」からなのだ。結果的に、基本から考えるという正しい思考を教えることもできている。
他の数学指導者にも同じ考えの人はたくさんいるはずだ。

では東大のこの出題のどこが絶妙なのか。
それは意外かもしれないが、加法定理の証明が「使えない」からだ。
私はcos、sinの定義は教えるが、加法定理の証明はやらない。なぜなら線分を回転させても長さが変わらないことや二点間の距離しか使わない証明の中に、いわゆる受験の難問の解法の元ネタは含まれていないからだ。
東大はそこまで読んでいたのではないか。だからこそ単純な経験や暗記で差がついてしまうことを逆に防げると踏んだのだと思う。
基本公式の証明で言えば、例えば点と直線の距離の公式の証明の方がいわゆる「受験問題っぽい」テクニックが含まれる。しかしだからこそ経験している受験生も多そうだ。数学である以上、単に経験だけで差はついてほしくない。加法定理の証明はその点でも都合よかったのではないだろうか。
ただもしそうだとするとなおのこと(2)は証明内容を記述させるよりも「①から③のどれがふさわしいでしょう?理由とともに答えよ」という問題がよかったことになるのだが…

「公式の証明は本質的である」というわかりやすいメッセージとともに、その延長として「定義を大切にして、基本概念をちゃんと勉強してね。そうすれば細かいテクニックはいらなくなるよ」というメッセージにもなる。

もしかしたら少々飛躍のある推測かもしれないが、誤解も織り込み済みで、メッセージ性に富む巧妙な出題だったと思うのだがいかがだろうか。


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