『NANA』ヤスに寄りかかる女たち

矢沢あい作『NANA』は連載開始から23年が過ぎました。2009年で連載はストップしているものの、未だ根強いファンが多く、続きを期待する声もあります。また連載開始当時生まれた世代の人たちも手にとって読むなど多くの人たちに愛されている作品です。

登場する男性陣はかなり「豊作」でタイプもいろいろ。その中でも読者からの人気が高いヤスと親密になる女性の特徴について今回考えてみました。


レイラ、ナナ、美雨。彼女たちの特徴、それは自らの激情を飼い慣らすことができず、激情が行き着く先にたどり着くことはないという諦念に陥っている女たちと言えるのではないでしょうか。諦念を持っている(=have)のではなく、諦念という存在になっている(=be動詞)というようにも言えるのかもしれません。一人ずつ考えていきましょう。


レイラは幼なじみでもあるタクミのことがずっと好き。でもタクミは女をとっかえひっかえで、自分には振り向きません。
時系列はズレますが、シンにお金を渡して遊ぶなど、不馴れなことをする不安定さや衝動性をもったレイラ。シン本人にその不馴れさを指摘されてもいましたね。
そんなレイラの激情は、タクミと結ばれるという形で成就されることなく、高校入学の頃に気だるい雰囲気の女に変わっていくのでした。それは成就されないから気だるくなったのか、それとも気だるさそのものが自身への何らかの諦念であり、それが成就しないことを招いているのか。人間にまつわる因果は言葉の世界で考える因果とは逆向きだったり、双方向だったりするのはよくあることです。
いずれにせよ、コントロールの効かない激情を諦めるというフェーズに入ったところでヤスと親密になるという形になっていて、他の2人も同じ構図が見て取れるのです。

ナナはレンとの出会いの際の狂おしい一目惚れが、初恋なんていう甘酸っぱい響きは似つかわしくない、嫉妬や焦燥感のような感情だったと言います。
ナナとレンは、タクミとレイラとは違って、きちんと結ばれてはいますが、情動がコントロールできないとき、突然呼び出したりして甘える相手はヤスなのです。
レンも読者からの人気は高いですが、自称メンヘラな人やネガティブなところがある自覚がある人は、「レンと一緒にいると病みそう」と思う人もいるようです。「ヤスの方が安心」と言う人が多い印象です。

美雨についても恋愛の激しい感情に流されるのが怖いと言っています。本当はああいう血圧低そうな女の人こそ「情熱的になりたい」と心の奥底では思っていて、「でも自分自身が制御不能になるのが怖い」ということなのだと思います。そしてそれもまたここで言う諦念なのだと思うのです。
ヤスのように理性的に付き合うことを決める態度に安心したりしています。また売れてないのに脱ぐ仕事はしないなど、自分の情動であれ、新しい仕事であれ、強い刺激を受けたくない敏感肌なメンタリティーが垣間見えます。
そういうところも引き受けて付き合ってくれるヤスが居心地がいいということなのでしょう。

詩音については私は正直あまりピンと来ませんが、「来てくれたのか」とヤスが言ったときに詩音は女の表情を見せました。情熱の対象が自分だからダメなのではないかと思うのです。
ファンには手を出さないというようなこととはちょっと違うのかなと思いました。

移り気なハチも一瞬「ヤスいいかも」となりますが、ヤスがレイラと付き合っていたことなどを聞いて怯んでしまいます。ですが本質はそこではなく、「キャー、かっこいい」の対象であったタクミと、いろいろな経緯がありながらも結婚にまで漕ぎ着けるそんな強さがハチの普通っぽさ由来であるのであり、諦念に陥ることなく、想いを成就しているのです。
例え他の女遊びを一切やめさせることはできなくとも、それも呑み込んでタクミと生きていくというまっすぐさが貫かれています。そこにヤスとの交差点はありそうにありません。


思うにヤスは高木家に育てられることになった経緯などもあって自分を優先にすることができない、自分自身を主人公にすることができない人なのかもしれません。
自分とその人の絆よりも、その人そのものが大事だとも言ってましたね。その人が絆も大事にするならそれも尊重するとか。
ヤスはヘルメットのように感情を取り外し可能なものとするところが、他者を優先する冷静さにつながっているのでしょう。
しかしそれは本当のところ優しさなのか冷たさなのか…
いずれにしろ、雨の日が嫌いじゃないというヤスのダウナー系なところに、自身の内にある激しさを制御できない女の人たちが救いを求めて集まるということなのだろうと思います。


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