【ふしぎ旅】井随の大蛇地蔵
新潟県新潟市南区に伝わる話である
大蛇伝説は数多くあるが、ここまで詳しく語られている話は、それほど多くないだろう。
詳しい年代まで分かり、大蛇を鉄砲で退治したということ、退治した者の名前、そして、わざわざ火葬場で焼いて、その骨まで拾ってきているのだ。
現代ならば、大きくUMA事件として取り扱われることだろう。
おそらくは「1年分の村普請をただにする」ために、事細かに大蛇がいたということを事件として報告する必要があったのではないだろうか。
ただの不作ということであれば、自分たちが生活できないほどの年貢を納めなければいけなくなるかも知れない。ならば大蛇が荒らしたということにして、やり過ごそうとしたのではないだろうか。
そう考えると大蛇の骨を俵に詰めたのも想像がつく。
おそらく納められる年貢米が5俵ほどしかなかったのだと。
少ないながらも納める米を、大蛇退治の証として、大蛇の遺骨だと言って納める。
もちろん想像でしかないが、もし本当にそうであるなら、大蛇を仕立てた村人たちも、その話を認めて村普請をタダにした役人も粋なものである。
とは、言えこの伝承とは全く異なった話も伝えられている。
ここでは、大蛇は神の使いとされ、殺したことを責められている。
また、骨も俵に一つほどだ。
鉄砲で仕留められたというところは同じであるのは、蛇は金物、火薬が苦手で大蛇を仕留めるのならば鉄砲とされていたのであろう。あるいは大きな音がしたということだったのかもしれない。
たとえば、大蛇とはあふれた川の比喩で、洪水を防ぐために川の流れを変える大きな工事をしたことを大蛇退治と言い換えたのかもしれない。
そうすると、治水と水の利権に関して、役人に咎められたというのも納得出来ることではある。
話自体としては、前者の伝説の方が、分かりやすくて面白くはあるが。
大蛇地蔵は訪れてみると、集落の外れ、忠魂碑が立っている土地の道を挟んで真向かいに会社があるのだが、その会社の敷地を不自然にえぐるようにして、小さなお地蔵さまが祀られている。
無下に扱ったり、移動したりすることが出来ないあらわれだろう。
ただ、この地蔵。かなり新しく見える。
平成17年に撮影されたという写真と比べても、明らかに違う形である。
老朽化や事故などで壊れたとも考えられるのであるが、それにしても不自然な程変わっている。
いったい、何があったのだろう?
ともかくも、地蔵様本体をとり変えたのであれば、地蔵様というよりは、この小さな土地にこそ、なにかしらの因縁がありそうなものである。
向かいに忠魂碑があることからも、このあたり一帯が集落の神域であるのだろう。
伝説にもあるように、この辺り一帯は、大規模な干拓が行われる以前は田圃と”潟”と呼ばれる小沼、それに付随する湿地から出来上がっていた。
ジメジメしているから蛇などが絶えずおり、それが大蛇伝説にもつながったのだろう。
潟に雨が降ると、流れ出るところのないまま溜まり水となっており、大雨の時などは田畑まで溜水が流れ出し作物に大きな被害をもたらしたので「悪水」などと呼ばれた。
この悪水が「大蛇」のことなのだろう。
であれば、この悪水を避ける場所(丘や高台)などが、この辺だったのかもしれない。
また古地図を見ると、この辺りは幕領と長岡藩、新発田藩、それぞれの領地に近い。
伝説によって大蛇退治の扱いが違う(一方では褒美をとらせ、一方では責める)のも、その辺りが関連してくるのかもしれない
とすると、この小さな地蔵さまが、土地がどの領地のものなのか象徴していたのかもしれない。
そのような土地の記憶が、このように不自然な祀られ方をするに至ったのだろうか。
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