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『堕落論』的救済論

「悪人正機説」とは

『私が来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである』(マタイ伝9:13)
『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。』(歎異抄)

 聖書、歎異抄のこの一節はいずれに、悪人にも救いがある、むしろ悪人にこそ救いがあるという悪人正機説を説いている。
 イエス、あるいは親鸞はなぜこのように言ったのか。そもそも彼らの言う悪人とはどのような人間なのか。
 それについて坂口安吾の「堕落論」の立場から論じようと思う。

 「堕落論」ほど悪人正機の考えを、的確に説明しているものは少ないだろう。
 おそらく、その理由は安吾が「人間」を見ていたからである。彼は思想を「思考」しなかった。思想は人間の生活から離れては意味をなさないとした。

 安吾は20歳の時に坊主になろうとして勉強をはじめるが、1年半位でやめてしまう。それは『仏教と人間との結び目、高僧達の人間的な苦悩について殆どふれるところがなかった』(「処女作前後の思いで」)からであった。

 彼は真の人間(人間らしい人間)を追求しようとしていた。そして「堕落」という道を見いだした。
 彼にとっては堕落の道こそが人間と宗教の結び目であったのだ。

 私はこの「堕落」の過程を整理し、それに即して聖書や歎異抄を見ていくことによって、悪人正機説が明らかになるのではないかと思う。それはイエスや親鸞が「思想」ではなく「人間」であったと信じるからだ。

 「なぜ悪人が救われるか」
 悪人正機という宗教意識の原点となる非常に大きな問題に対し「人間と宗教の結び目」を語らないことには宗教思想が人間から遠く離れたものになる恐れがある。
 その人間臭さこそが「堕落論」の真骨頂である

どこより堕ちるか

 当然のことながら、堕落とは堕ちることである。しかし、どこから堕ちることを堕落と言うのだろうか。そして、なぜ堕ちる必用があるのだろうか。さらに、堕ちるとはどのようなことなのか。

 堕落とは何処より堕ちることなのか。結論を先に言うならば、安吾の場合、それは社会秩序であり社会制度である。
 社会秩序において善悪はハッキリしている。
 社会制度に従うことが善であり、社会制度に反することが悪である。善人は「善悪とは何か」ということを考えずに、社会制度に身を委ね、それを善とする。
 安吾はこのような考え方を批判する。

 『先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己の真実の声を求めよ。』(「続堕落論」)と言う。「真実の声を聞く」とは「自我を見つめる」ということである。自分の本心、本能をしっかりと見定めると言うことである。

 真実の声は社会秩序という「他者」に拘束されない自由の中に現れる。自由といえば聞こえはよいが、それは孤独の同義語に他ならない。
 なぜなら他者に拘束されない状態とは自分以外に頼るものが無いという状態だからである。しかし、この孤独の中で真実の声を聞かなければ『人間の正しい光は永遠にとざされ、真の人間的幸福も、人間的苦悩も、すべて人間の真実なる姿は日本を訪れるときがない』(「続堕落論」)と安吾は言うのである。

 真実の声は社会秩序に反するものだ。と、言うより真実の声の中に社会秩序は存在しない。ただ自分があるだけだ。それが故に『醇風良俗によって罰せられるよりも、自我みずからによって罰せられることを恐るべき』(「恋愛論」)という態度が生まれ、その自由な(孤独な)態度こそが、安吾の言う堕落なのだ。

 これに対し、イエスは「堕落せよ」とは言わないが、真実の声を聞かない偽善者達を非難する。
 マタイ伝第23章はその顕著な例である。
 偽善者達は律法において善となり悪となる。彼らの自由は孤独ではない。彼らは律法の中に自分の自由を見いだす。律法によって規制された自分において自由を見て、それに満足するのである。
 だから彼らは傷つかない。なぜなら律法の飾りの美しさに安住しそれに守られ、裸の自分を見ないからである。

 何者かに規制されている者は、その規制に中に満足を見いだし、みずから欲すべき所を欲しない。
 しかしそれはみずから悩むべきところを悩まないことを意味する。彼らはもっとも悩むべき「貪欲と放縦」については悩まないのである。
『先ず、杯の内側を清めるがよい』(マタイ伝25:26)とイエスは言う。しかし、そのためには杯の内側を見る必用がある。偽善者は律法という外側に向けてばかりいて、内側の自分の本心を見ようとはしない。
 イエスの偽善者への批判はこの一点に向けられたものと言ってもよいだろう。

 親鸞はどうであろうか。親鸞は自力よりも他力を説く。しかし親鸞の言う自力は厳密な意味での自力ではない。彼の言う『自力作善』は「作善」への自力であり、「善」そのものは自力ではない。善は既に実在している。自力作善なるものは自らの本心を聞くことなしに、その善に安住する。

『いづれの行もおよびがたき見なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。』

 ここには親鸞の偽らざる本心と定められた善への心の衝突の跡を見ることが出来る。人間において、これはごく自然なことである。しかし、自力作善の者にはこれがない。善に対する自分の本心のごまかしがあるだけで真に悩むことがない。親鸞はこのごまかしが故に自力作善を批判したのである。

どこへ堕ちるか

 堕落とは、自分の本心を見つめて、社会秩序から堕ちることだと記した。
 それでは何処に堕ちるのだろうか。
 安吾は堕ちる先を見定めるために「真実」の声を聞くことの重要性を説いた。それでは真実の声とはどのようなものだろうか。
 それは決して美しいものではないだろう。目に付くものは肉欲や残酷心や汚らわしさばかりだろう。
 安吾が『ナマの私が嫌で不潔で汚らわしくて泣きたいのだ。』というのは実に正直な感想だろう。

 真実の声を聞くことは苦痛だ。自分しか頼る者がいない孤独の中で、その自分さえも汚らしくて頼りにならない不安定な存在であることほど苦しいことはあるまい。ここに人間は自我の敗北を知る。何者によっても救いの見いだせない絶望に陥る。

 安吾はそれを『生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独』(「文学のふるさと」)と言う。そして、これこそが僕達の故郷であり、本質であると言う。
 しかし安吾は『むごたらしいこと、救いがないこと、それだけが唯一の救いなのであります。』(「文学のふるさと」)と言う。
 なぜなら、私達は救いなしのまま、「人間」としてあるからである。私たちは善によって(あるいは悪によって)「人間」であるのではなく、ただ「人間」としてあるのみなのだ。
 何の理由もなく、ただその存在全てが肯定されているのだ。そして、堕落の行き着く先とは、まさしくこの「全的肯定」への自覚に他ならない。

 イエスの場合も安吾と非常によく似ている。
『悪い思い、すなわち、殺人、淫行、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくる』(マタイ伝15:19)

 偽の着物を脱ぎ去り裸となった人間はこのような自分の汚らしさを直視する。そして、この汚らしくて不安定で救いようのない自我に行き詰まってしまう。そして、これが故に人間は絶対的な孤独に陥るのである。

 この絶対的な孤独から、逃れようとして、人間は自分をごまかそうとする。イエスが受けた「悪魔の誘惑」はまさにこのことを言っているのだろう。だが、この孤独は私達に一生つきまとい、自分のごまかしによってはここから逃れる術はない。

 それでは、何処に救いを見いだすかと言えば、この救いなしの孤独自体を救いとしてみる他はない。
『天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも、正しくない者にも、雨を降らしてくださる』(マタイ伝5:45)

 この全肯定、救いなしの孤独にある人間が人間であるという全肯定、これを認めるということが私達の救いに他ならない。そして、悔い改めも、この全肯定の自覚の上に無ければ全く意味をなさない。だからこそイエスは律法に安住して、これに気付くことがないであろう偽善者を激しく非難したのである。

 親鸞の場合、この全肯定に気付くことの重要性は言うまでもない。
『(阿弥陀の)摂取不捨の利益』はこの全肯定に他ならない。

 『地獄は一定すみかぞかし』の私達が何の理由もなく全肯定されていることに気が付く。ここに親鸞の自力から他力への移行がある。
 逆に言えば、この一点でなければ自力から他力への移行はない。自分の罪の自覚のないままに阿弥陀に任せるというのはわがままと同じである。信心はただこの全肯定の自覚の一点でなければならないのである。

堕落後の再生

 堕落から救いへの道を考えたが、救いだけではどうにもならない。
 それは私達の生活の土台ではあるが生活そのものではない。
 私達は、この土台の上に生活を再構築しなければならない。言い換えるならば、一度堕ちて死した人間は新しい命(救い)を受けて再生しなければならないのだ。
 それでは「生きる」とはどういうことだろうか

 「私は全肯定されている。」この事実の上に立って、人間は新しい自分を作る。安吾にとって「生きる」ということはまさにこのようなことであった。
『全て人間世界に於ては、物は在るのではなく、つくるものだ。私はそう信じています。だから私は現実に絶望しても生きて行くことに絶望しない。』(「余はベンメイす」)
 このように安吾にとっては生きることは造ることであり、それが全てであった。

 安吾にとっては「生きる」ということが善であった。理由なしの全肯定に対して、自分も自分をごまかすことなく全肯定する。それが「生きる」ということであった。善悪によって生活が定められるのではなく、生活そのものに自分が誠実であれば善であると安吾は考えていた。

 生きることによって満足するのではなく、生きることそれ自他が満足であるような生き方、それが安吾にとっての善い生き方であり、全肯定された自覚の上に立てられた生き方であった。だから安吾は自分を造り続けた(安吾にとって、それは作品を書くことであった。彼の小説はまさしく彼の生活そのものであった。)のである。

 生きること、それ自体が満足であるような生き方、イエスにとって、おそらくそれは愛するということである。
『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』(マタイ伝22:39)ここで注目したいのは「自分を愛するように」と言う部分である自分を真に愛せる人は少ない。なぜなら、自分を愛するということは善も悪も含めた自分の全てを肯定することであるからである。

『私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。』(「デカダン文学論」)
 そう安吾は言ったが、このようなものでなければそれを愛と言うことは出来ない。

 そして、そのようにして他人の全てを肯定する。そこには善悪はない。愛には裏切りも報酬もない。何かのために愛すると言うことは愛ではない。愛によって満足を得ようとするのは愛ではない。ただ全てを愛すること、愛によってそれ自体が満ち足りた状態であることを愛と言い、それがイエスの考えた善い生き方であった。

 親鸞の場合、生きるということは念仏を唱えることである。ただ全肯定に対して服従する念仏である。親鸞は自分を念仏の中に突き放す。そこにあるのは念仏だけで親鸞はいない。

『念仏は行者のために非行、非善なり』
 この言葉は親鸞の念仏に対する考え方を的確に表している。善のために念仏するというのは自分を全的に突き放していない。
 自分を突き放すということは自分の行いに全てを突き放すということである。それこそが誠実である生き方に他ならない。念仏もまた同じであり、念仏を唱えるから善となるのではなく、念仏の中に自分を突き放し、自らが念仏となるということが、親鸞にとっては善だったのだ。

まとめ

 「どこより堕ちるか」「どこに堕ちるか」「堕落後の再生」の3点について、堕落のプロセスを整理してきたわけだが、ここで私はは「イエス、親鸞はなぜ悪人正機を唱えたのか」「彼らのいう悪人とはどのような人間なのか」という最初に上げた2つの問いに答えなければならないだろう。
 その前に今まで述べてきたことを簡単にまとめてみよう。

 堕落者は、他の何者にも拘束されない自由な(孤独)の状態の中で自分を見つめる。
 そして堕落の行き着くところは、何も救いのない絶対的な孤独である。この孤独の中で人間は救いなしの自分が全的に肯定されているという救いに出会う。
 そしてこの救いのうえに新しい自分を造る。これが堕落のプロセスである。

 イエス、親鸞の言う悪人とは、上に記したように、「自由な状態の中で自我を見つめる者」である。このような人間がなぜ救われるか。

 それは自我を見つめることによって救いなしの孤独に陥るからである。この絶対的な孤独が救いであることに気付く人間がどれくらいいるか分からない。しかし悪人にはそのような可能性がある。この救いなしの孤独を通らなければ真の救いは見えてこない。

 おそらく、この視点から悪人正機は生まれた。そして安吾の求めていた人間と宗教の結び目も、この絶対的な孤独の中にあるのだろう。

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