【ふしぎ旅】太郎代観音
新潟県新潟市に伝わる話である。
平安末期、越後の鬼と呼ばれた黒鳥兵衛が加茂次郎義綱に滅ぼされたが、義綱の家臣に斉藤太郎太夫という武士がいた。
太郎太夫は黒鳥征伐の功により浜通り地区を領有し、そこで天寿を全うした。
その遺骸は塔婆山に葬られ、村人はここを廟所と呼んでいた。
それから後、戦国の時代、東方より異国の僧が、この山に現れ村人たちに「近いうちに、ありがたい仏像を贈ろう」と行って西方へ立ち去った。
間もなく海上に異国船が現れた。
村人たちが船を眺めていると、天から「ここがわが結縁の地である。ただちに陸揚げせよ」という声がして、観音像を積んだ小舟がやってきた。
村人たちは「これが先日異人の僧が話した仏像だ」と行って謹んで受け取り、鎮守の白山神社境内にお堂を建てて、ここに安置した。
ところが、このお堂は風も吹かぬのに、屋根が吹っ飛び、仏像が外へ転げ出ていた。
村人は「この場所がお気に召さないようだ」と言って、塔婆山の上に立派な堂を建てて、ここに移した。
しかし、ここでもまた風も無いのに堂の屋根が吹き飛び、仏像が外へ転げ出ていた。
村人たちは、いろいろ考えた末、「この観音さまは、お堂の中が窮屈で嫌なのだろう。村が一望できる広場へ出してあげよう」と言って外へ出して安置し、雨ざらしにしておいたら異変が起こらなくなった。それから、、この仏像を「雨ざらし観音」と呼ぶようになった。
その後、この仏像のそばに堂守の庵が建てられ、斉藤太郎太夫の子孫が堂守として奉仕していたが、この庵が文化元年に焼け、再建した堂も大正五年に消失した。
不思議なことに二回とも加茂次郎の命日、8月15日だった。
太郎代観音は現在の東港工業地の一角にあり、その辺り一帯だけが、時代から取り残されたように、いかにも昔の漁村という感じの風景である。
そんな中、集落を見下ろすように、小山の上に当時と同じように、観音様はむき出しで在している。
伝説だと、仏像は一体だけのようにも感じられるがさにあらず、雨ざらし観音を中心に何体もあり、一大霊場となっている。
加茂次郎の家臣の者との関りがあるところが、単なる、仏様の由来譚ではなく、話を重層的にしている。
太郎代観音から割合と近くの新発田市には、黒鳥兵衛の墓とも伝えられている鬼塚なる所があったり、黒鳥兵衛の家臣である青鬼堅人の伝説もあるので、案外と海岸沿いの激戦区だったのかもしれない。
仏像が、お堂を拒むという話は、何例かあったかと思うのだが、地域的に貧しくてお堂が建てられないという言い訳のために、そのような話を残したのかもしれない。
あるいは海が近いので、高波や津波などで流されやすく、立派なお堂を建てても、無駄ですよと暗に諭しているのかもしれない。
別の伝説では、異国の僧の話などは出ておらず、仏像を積んでいた船が急にこの辺りで動かなくなったという様にも語られていることから、そのように船が座礁したりしやすい難所の海岸で、その被害を治めることを祈念し、また、もともとは潮目を見るための高台であったことから、お堂は不要としたのかもしれない。
いずれにせよ、古くより、この地の安全を見守ってきたということは間違いなく、今でも多くの参詣者がある。
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