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Cylinder あるいは 幾つかの夜

1日目

 今日よりも澄んだ空を感じたことがなかった。
 鳶がその空を飽きもせずに周回している。

 今日よりも静かな大気を感じたことがなかった。
 たとえ、それが今までそこにあったとしてもだ。

 僕の目の前にいる娘は、ただ無邪気に笑っているだけだ。
 今まで起こったことと、これから起こることの間で。

「何がそんなに面白いんだい」

 僕が尋ねると、娘は不思議そうな目をしながら、だけど僕の方を見ずに疑問形で答えた。

「面白くなければ笑っちゃいけないの?」

 その言葉が大気中に溶けていくような気がして、僕は言葉の行く先を見つめていた。

 笑うことに理由は必要か?
 考えた事も無かったが、これは難問だ。

 その日、僕達は...
 僕は、今までに聞いたことの無いような、咆哮にも似た嫌な音を聞いた。
 どこから、その音が聞こえてきたかを探る間もなく、目の前が明るくなり何も見えなくなった。
 気づくと僕と娘だけの世界だった。

 最初から、娘は水の畔にいた。

 彼女は誰なのだろう?
 記憶の中にある顔だが。

 凪の水面は空を映していた。
 穏やかすぎる夕暮れ、ふとしたことに気が付いた。

 太陽が見えない。

 夕暮れと言っても光が徐々に陰っていくから、そう思っただけだ。
 暮れなずむ朱色では無く、ただ闇が迫っているだけなのだ。
 娘の輪郭が綻んでいく。
 確証もないまま、昼が夜に変わっていく。

夜。

OFF.

 それは突然にやってきた。
 「何も見えない、聞こえない」というわけでは無い。
 何も動いていない。
 この世の中のありとあらゆる動力のブレーカーが、一斉に落ちたような、そんな感じだ。

 0/1の世界の夜は、ただゼロなのだ。
 起きてから、そのことに気づく。
 何も記憶には残っていない。
 闇が近づいて、気づくと闇が去っている。

*****

 その日、人類はみな同じ夢の中にいた。
 誰も、彼らを攻めることは出来ないだろう。出来るわけないのだ。

 男は、靄が広がる中で、思い出そうとする。
 ゆるやかな放物線を描きながら、水と空の青の境界線を掠めて、それは静かに落ちた。

 落ちた?
 いや、落ちたところを見た者はいないだろう。

2日目

朝。

ON.

 朝は、ゆっくりと訪れる。
 光が、大気一面に、少しづつ満ちていく。
 相変わらず、その光源は見当たらない。

 僕は...
 僕らは昨日と同じ場所で座っていた。
 娘は、やはり水面を見つめて微笑んでいた。

 「おはよう」
 僕は当たり前のように、その言葉を口にした。

 「お、は、よ、う」
 僕の言葉をなぞるかのように娘は、その言葉を口にした。

 こんな朝の迎え方に早いも遅いもあるのだろうか。
 ただ、スイッチが入れられただけだ。

 これから、どうすればよいのか。
 今まで何をしてきたのか。
 思い出すのは、あの光だけだ。
 昨日の記憶ですら輪郭が朧気だ。

 「さてと」

 川の流れによって転がり進んでいく石のように、自分がどうなっているのかまるで分からない。
 それでも、僕は何かをしようと思った。

 まずは、現在の状況を把握しよう。

 僕は...
 おかしい。自分の名前が分からない。
「認識番号3番」とでも浮かべば、まだSFの世界になるのだが。

 僕は自分の名前を知らない。
 今、どこにいるか分からない。
 どうやって生きてきたかも分からない。

 ふと隣にいる娘の存在を思い出し、訊いてみる。

「僕は、誰なんだろう?」 

よくあるミステリーのように陳腐な言葉だ。

「私は誰でしょう?」

 娘は自分を指さしながら、微笑んだ。
 週末に独身男性がつくる燻製鶏のように時間を浪費しただけだった。

 太陽の無い世界で、ふと思う。
 もしかしたら、ここは誰かの箱庭で、僕達はその中の人形に過ぎないのかもしれない、と。

 だとしたら、何も思い出せないことや、今までのことが少しは納得できる。
 ひとまず箱庭の果てまで行ってみよう。
 予想が確かなら壁があるはずだ。

 僕は立ち上がり歩き始めた。

 「どこに行くの?」
 娘が尋ねてきた。

 「世界の果てまで」
 僕が答えると、娘は、興味無さそうに「いってらっしゃい」と僕に言った。

 僕は、ゆっくりと一歩、一歩水辺を離れはじめた。
 水辺から5分ほど歩くと、鬱蒼と茂った森が現れた。
 多分、この森を抜けたところが「世界の終わり」だな。
 僕は、そう確信した。

 森の中に入ると、そこは喧噪の世界だった。
 何かの鳴き声や足音。
 何物とも分からないノイズ。そのようなものに溢れていて、自分の耳を両手で塞ぐしか無かった。
 ただ他の生き物の気配は感じなかった。

 「何者かが密かにこちらの様子をうかがって、命を狙っている」

 そう思いながら慎重に足を進めた。
 喧噪の中、息を殺しながら、森を歩く。
 自分の足音すら聞こえないほどの騒音が鳴り響いているのだから、生物の気配を感じないのも無理はないだろう。

 慎重に、慎重に、オオアリクイの歩幅ほどのリズムで。

 あっけないほどに森は終わり、騒音は瞬く間に消え去った。
 そして、出発した所に戻っていた。

 「おかえりなさい」
 娘は、当然のようにそう言った。
 その言葉を九官鳥のように何度も繰り返し言ったということが分かるほど、事務的なものだった。

 「知っていた?」
  僕は尋ねた。

 「何が?」
  彼女は、疑問形で答えた。

 「この先に森があり、森を抜けると、この場所に戻ることを」

  僕がそう言うと、彼女は頷いて、呟いた。

 「みんな、そう」

 「みんな?」
 驚いて僕は聞きなおす。
 どういうことだ?
 ここには、僕等の他に何人もいたというのか。

 「みんな、森に入って、すぐに帰ってきて、そして落ち込むの」
 彼女の言葉に僕は自分も同じだと、うなだれる。

「そして、次は」
 そう言い、彼女は水面を指さした。

「みんな水に向かっていくの」
 彼女の声は、休日の騎士団長のように疲れていた。

「水に向かって歩いて、オヨグことなく、沈んでいく。
 水面が身体を包んでいき、そして、何も見えなくなる。
 その後は知らない。そのまま、誰も帰ってこないから」

 みんな?
 やはり、僕以外に、ここを訪れた者がいるのか。

 「ここには僕以外に、誰かいたことがあるのか?」

 彼女は小さく頷いた。
「でも誰もいなかった。
 ただ、ここを通り過ぎていくだけ。
 森へ行き、次は水へ行く。みんな、そう。
 34人までは数えたけど、その後は覚えていない」

 彼女は言葉を続けた。

 「どこへも行けない閉塞感。絶望。死。」

 死。
 それ以外に、この世界から出る方法は無いってことか。
 果たして、それも正しいか分からない。
 ただ此処に戻ってこないというだけのことだ。
 水の奥深く、何十人もブレイクダンスでも踊っているかのように藻掻いているかもしれない。

 もう一つ、彼女の言葉に気になることがあった。

 「ねぇ、オヨグって、どういうことなんだ?」

 彼女は、僕の言葉に驚いて答えた。

 「オヨグはオヨグでしょ」

 それは、さも”オヨグ”という言葉が、誰もが知っていて当然と言わんばかりの口ぶりだった。

 「ごめん。本当に分からないんだ」

 僕は、そう答えるしかなかった。

 「考えたこともなかった。
 オヨグコトを知らない人がいたなんて。
 オヨグというのは、水を全身を使って移動することよ」

 「でも、皆、オヨグことなく、沈んでいったと言った。沈むというのは 水の中の移動じゃないのかな」

 僕は素朴な疑問を口にした。そして一つの提案を彼女にした。

 「言葉では分からないから、実際にオヨグしてくれないか?」

 僕の言葉に、彼女はど真ん中に投げ込まれた緩やかなドロップカーブを見送った時のように疑問形で答えた。

 「私?え、私が?」

 「そう、オヨグしてほしい。見ないと分からない」

 再度の僕の提案に、彼女は今度はしっかりと答えた。

 「私はオヨゲない。
  それどころか、ここから離れることすら出来ない。
 私は、どこにも行けない。ただ、通り過ぎる景色を眺めることだけ」

 彼女の言葉に対し、僕の正直な感想が口に出た。

 「なんだ、それ。馬鹿みたいだ」

 ホント、馬鹿げている。何もかも。
 この世界が何であれ、”どこにも行けない”って何だ。
 まるで、田舎の山奥で燻っている女子高生みたいな言葉だ。

 「馬鹿みたいだと言われても、本当のことなんだ」

 彼女は、さも当然のことのように話す。

 僕は、その態度に苛立ち、少しだけ強い口調で、彼女に問うた。

「いったい、どのような理由があって、ここから離れられないと言うんだろうか。ここから離れたら、君は消えてしまうとでもいうのか?」

 それに対して彼女は、不思議な答えをした。

 「消えはしない。もともと、いないんだから」

 「なんだ、それ。対象を見ない限り観察者は存在しないってこと?」

 まだ苛立ちが収まらない僕の言葉に対し、彼女はさらに不思議な答えをする。

 「レトリックではなく、現実のこととして、ここにはいないのよ」

 「そんな馬鹿な。君は確かにそこにいるはずだ」

 そう言って僕は、娘に近づいた。
 そして、右手をするりと伸ばして、触れようとした刹那。

 娘は僕の5mほど先にいた。
 いや、違う。娘の位置はおそらく変わっていない。
 僕が後退したようだ。その気も無いのに。

 「つまりは、そういうこと。
 私は、どこへも行けない。もともといない。
 ただ、見ることしか出来ない」

 そう言うと、娘は天を見上げた。

 「もともと何も無いことと、何かを失うこと、どちらが悲しいのだろう」

 僕は呟いた。ふと、思ったのだ。
 彼女に向けての疑問では無く、自分への問だ。

 「その問に答えなんか出るわけない」

 娘は、そう言い、言葉を続けた。

 「問がそもそも間違い。
  何かを失うということは無いの。
  ただ通り過ぎていくだけ。
  一度、交差した直線は、後は離れていくだけのこと。
  そして、気づいているでしょうけど、実は交差していることすらも怪しい。
  あなたと私は、同じ時間を過ごしていると思う?」

 娘の言葉に、僕は答えることが出来なかった。
 様々なことが起こりすぎて、頭が混乱して、思考が間に合わなかった。

 朝
 森
 騒音
 円環運動
 僕と彼女以外の誰か
 皆、同じ
 水からは帰ってこない
 オヨグ
 彼女はここにいない

 何よりも時間が過ぎ、闇が迫っていたことに気が付かなかった。

夜。

OFF.

*****

 「いつまで、君は、そんな玩具を覗いているんだい」

 筒の中を、楽しそうに覗いている少女に、男は問いかけた。

「ダー」

 少女は、無邪気に笑いながら、男に答えた。
 答えたのだろう。何を言っているのかは分からないが。

 ただ一つだけ分かっていることは、男も少女も生きなければならないということだ。
 瓦礫が連なる地平を目にした時、人々はこれからを思い絶望するか、今までを懐かしみ涙するか、あるいは無常を悟り立ち尽くすか。
 いずれにしろ、その動きは停滞するものと、男は思っていた。

 ところが実際にはどうだ。
 目にする者は皆、必死に生き抜こうと、状況に抗っているではないか。
 この少女ですらだ。

 男は、もう一度、周囲を見回した。
 何も無い。
 いや、かつて何かがあったであろう残骸だけが残された風景。 
 時には、生物であったであろうモノが無残な姿で転がっている時もあった。
 あまりにも、純粋な空の青さだけが、その風景に不釣り合いだった。

「ダー」

 少女は、まだ筒の中を無邪気に覗いている。

3日目

朝。

ON.

 光が満ちていき、水面が明るくなる。
 娘は同じ場所に座っている。
 だけど僕は知っている。
 実際の娘は、そこにはいないのだと。

 それでも、やはり口にしてしまうのだ。
「おはよう」と。

 娘は相変わらず事務的に答える。
「お、は、よ、う」と。

 本当に、娘は”おはよう”の時間軸にいるのだろうか。

 朝が訪れても、まだ頭が混乱している。
 僕たちは...
 僕は、これからどうすれば、よいのだろうか。

 手っ取り早いのは、水の中へ向かうことだろう。
 その先で、この世界の出口が覗けるかもしれないのだから。
 しかし、そうする気にはならなかった。
 何となく、娘が言う”通り過ぎる”には早すぎる気がしたのだ。

 「行ってくるよ」

 立ち上がり、娘に言った。
 何処へとは娘は聞かず、ただ「いってらっしゃい」と言うだけだった。

 昨日とは違い、水と反対の森の方へ向かわずに、水際の道を娘から遠ざかるように、僕は歩き始めた。
 2,3分ほど歩き、ふと振り返ると、娘からは先ほどと全く離れていなかった。

「言ったでしょ、私はどこにもいけない。ただ見ることしかできないって」

 娘は、当然のように、そう言った。

 「逆に言えば、あなたが私を見ようとする限り、私はあなたを見ることになるの」

 ニーチェか、と思った後に僕は違和感に気が付いた。
 ニーチェって誰だ。
 不思議に思い、娘に尋ねた。

 「誰の言葉?」

 娘は答えた。
 「私の言葉に決まっているじゃないの。私が口に出しているんだから」

 「そうじゃなくて、ニーチェ」
 頭に浮かんだ人名と思われる名前を僕は口にした。

 「それが、あなたの名前なの?」

 娘の言葉に、僕は面倒になり「それでよいよ」と答えた。
 こうして、僕の名前はニーチェとなった。

 「それで、これからどうするつもりなの」
 娘は尋ねた。

「もう1度森へ行ってみる」

「また、あっという間に終わりよ」
 僕の言葉に、娘は呆れたように答える。

「そこで夜が来るのを待つ。ホントに夜が全てをリセットしているなら、僕はまた水辺に戻っているだろう」

娘は少し驚いたようだった。

「それでどうするつもりなの」
 そう尋ねた娘に僕は答えた。

「どうもしない。ただの暇つぶしさ」
 僕は、慎重に息を吐いた。

「もともといない君と、何処へも行けない僕の世界だ。ならば、君が観察できなくなるギリギリのところまで、いけたへん」
 肝心な台詞だと分かっていたのに噛んでしまった。

 「ギリギリのところまで行って、何が正しくて、何が間違えているか。それだけは掴んでおきたい。」
 何事も無かったように、僕は、その後の言葉を口にした。

 「全てが間違えていたら」
  娘は、当然の疑問を口にした。

 「そもそも全てと呼べるものなど無い!」
 僕は答えた。

 彼女は尋ねた。
 「誰の言葉?」

 「僕の言葉に決まっているじゃないか。僕が口に出しているんだから」
 そう言うと、彼女は微笑んで言った。

 「ねぇ、水の中には行かないの?」

 「行ってどうするんだ」

 「少なくとも、可能性はあるわ」

 「森には無いとでも」 

 「分からない」

 「なら、森に行くさ。分かるようになるまで。可能性の有無を確かめに」

「気を付けて。森で夜を迎えたものはいないから」
 彼女は、明らかにフラグであろう言葉を、躊躇なく言った。

 そして、僕は2度目の森に足を踏み入れた。
 相変わらずの喧噪の世界がそこにあった。
 1回目は、それに耳を塞いだが、今回は出来るだけ、そのノイズから、何かしらの兆候を探ろうとした。

 何の鳴き声だろう?
 甲高く明らかに死に向かっているだろうモノの叫びに聞こえる。
 そして地中から響いている足音に似た低音。
 皮膚という皮膚を刺して、その穴から焼け焦げるような匂いを発するノイズ。
 聞き続けると慣れるかと思ったが、そうでもない。
 頭痛と眩暈が、身体にまとわりつく。

 音は身体をさらに蝕み、嘔吐感で、歩くことも立ち止まることも困難になる。
 気づけば、耳をふさぐことすらも出来ない程、身体は疲弊していた。
 それでも、何とか残った力で、森を出ようと歩みをすすめる。

 「ダー」 

 今の音は何だ?
 人の声にも似ていたが。
 その音を別の音がかき消した。
 森一帯の木が爆ぜるような音と、それを包み込むような咆哮に似た音。
 何十秒か、その音が続いたのだろうと思う。
 身体の肉が軋み、全ての毛穴から液体が分泌されるような感覚。
 耐え切れない病める痛みの中で、光を見た。
 光はあっという間に消え、僕の意識は静かに薄れていった。

夜。

OFF.

 *****

 男は一度だけ、少女が覗いている筒を拝借して筒の中を見たことがある。
 見えたものは、何も無かった。より正確に言えば、”無”があった。
 ただ、空虚が筒の中で広がっていた。
 なんてことは無い。空虚が広がる空間。
 自分が置かれている状況と何ら変わりが無いと思い、男は筒をすぐに手放した。
 少女は、男に筒を覗かれたことに少し不機嫌な様子だったが、返すと、また楽しそうに筒の中を覗いていた。

 どうせなら、筒の中に海が見えれば良かったのにな、と男は思った。
 今、海と呼べるものは、この辺りにはない。
 あるのは泥水の水溜まりだけだ。

 そうでなければ、木々の緑が見たいなと男は想像した。
 森の中は、様々な音に包まれている。
 動物の鳴き声や、移動する音。虫の音。
 鳥たちが羽ばたく音や、風が木々を揺らす音。
 時には、森そのものが呼吸しているのではと思える程の規則的なリズムが繰り返されている。
 そんな生命の音の中に、出来ることなら、ずっと身を委ねていたいと男は心から思った。

 しかし、男が置かれている身は、ただ今日を生き延びる、それだけのためにわずかな食料と水を求めて、この荒れ野を放浪する毎日だ。
 面白いのは、戦争後や、大災害の後となると、闇の勢力やら、モラルの無い者たちが闊歩するものなのだが、時に男が他の人間にあっても、そのような者はいなかった。

 この世界で出会う者の大半は、彼と同じように、これといった目的も持たず、その日を生きのびることだけに必死な者か、少女のように何を考えているのか分からない、そもそも考えているかすら分からない者だった。

 おそらく彼らは、もともと何も無かった。
 だから希望は無いが、失望すらもしなかった。
 「贅沢をしたい」とか「幸せになりたい」などという欲望は、「生きる」という行動には邪魔であった。
 欲望のままに、人を殺めたり、犯したりしようとする者も、確かに最初の頃には存在した。
 しかし、そうした者は、すぐに横たわり、大地の餌となった。
 人々は、その状況を直ちに理解して、そして生きること以外は諦めた。

 せめて、妄想くらいは良いだろうと、男はかつて見た海や森を思い浮かべたが、それが現実となることを期待することは、罪であることは分かっていた。
 世界が光と闇に包まれてから、残ったものは、この荒野と空だけということは、何十もの昼と夜を重ねて、現実の感覚として、男の身体に刻まれていた。

 少女は相変わらず筒を覗いている。
 なぜ、俺はこの女と一緒にいるのだろうと、男は思う。
 少女と男は、出会うまでは、まるで接点が無かった。
 ある日、男がいつも通り野宿をしていて、目覚めると傍らに少女がいた。何も考えていない寝顔だった。
 その後、なぜか少女は男の後をついてきた。
 男は、追い払うことすら面倒なので、少女を相手にしていなかったのだが、男がどこへ行こうにも黙ってついてくる。
 眠ろうと横になると、いつも寄り添ってくる。時には、構ってもらいたげに男に抱き着いたりしてくる。
 何度か少女を抱こうとも考えたが、それすらも面倒なので、結局、何もしないでいる。

 この世界では、生きること以外は、無駄なものだ。
 生存欲。
 男を動かしているのは、それだけだ。考えることすら、時に億劫に思える。過去も未来もない。ただ、今を生きるだけだ。

 少女は、それすらも超越しているように感じられる。
 誰の視線も気にせずに、ただ生という波に揺蕩っている。

 少女は筒の中に何を見ているのだろうか。
 そんなことを考えることは、この荒野に落ちている石の数を数えるくらい、意味が無い行為だと分かっていても、やはり考えてしまう。

 男が筒の中に見た空虚が、現実の景色と変わりがないのなら、少女が楽しそうに見ているものも、また現実と変わらないのだろう。

 「ダー」

 楽しそうに少女は筒の中を覗きながら、歓喜の声をあげる。
 男は、少女を見ながら、視線の先の異変に気が付く。
 荒野の果て、抜けるような蒼い空と赤い土との境界線が、やけに明るい。

光?

 そう思ったのだが、光では無く、それは流動体であった。男は以前に、それを何かの映像で見た覚えがある。

津波だ。

最終日

ON.

朝。

 なのか?

 意識は戻っているが何も見えない。水面も森も見えない。
 あの不愉快な騒音も聞こえない。

 全くの空虚だ。
 立ち上がったつもりだったが、その感触が無い。
 感覚というものが全く無くなっている。

「私の声が聞こえる?」

 聞き覚えのある娘の声が、聴覚でなく、自分の意識に直接に割り込んできた。

「端的に言うと、私はあなたを観測できなくなったの。
 あなたは、今、世界の間を揺蕩っている。
 それを制御して、世界に固定することが不可能になったの」

「森で夜を迎えたから?」
 急に物語がSFじみてきたなと思いながらも、僕は口には出さずに、その言葉を意識した。

「それもあるし、それ以外の世界の関りもあるの。
とにかく事故が重なって、どうにもならなかったの

 こうにも、紋切型な展開は、なかなか近年はお目にかかることは少ない。ましてや、自分が体験することになろうとは。その不条理さに閉口する。

「これから進むべき道に関して、あなたには選択肢があるわ。
 一つは、全てを諦めて、自分の意識や感覚を廃棄して、光と音だけの存在となること。
 もう一つは、世界の流れに抗い、永遠に、闇を泳ぎ続けること。
 前者は、今後は何も苦しまずに済むけど、あなたという存在があったという痕跡すらも消滅する。
 後者は、再び世界に戻れるかもしれないけど、それまでは、何もできずに孤独な地獄が続く時間となる」

 一切を”無”とするか、何時降りてくるかも分からない蜘蛛の糸を待ちながら、永遠を待ち続けるか。
 ロールプレイングゲームのラスボスにでもなった気分だ。
 魔王とやらも、こんな気分だったのだろうか。まだ、選択肢があるだけ、こちらの方がまだ良いか。

 思わず、僕はその不毛な選択肢に笑ってしまった。
 彼女の呆れた声が意識内に響く。

 「こんな場面で笑っているなんて、何がそんなに面白いの?」

 僕は答える。
 「面白くなくちゃ、笑っちゃいけないのかい。」

 まずは、この難問の答えを探さないとな。
 時間なら永遠にある。
 今まで起こったことと、これから起こることの間で、全ては大いなる暇つぶしとなるだろう。

お読みいただきありがとうございます。 よろしければ、感想などいただけるとありがたいです。