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【怪異譚】温泉地にて

 以前、会社の社員旅行で群馬県のとある温泉旅館に行った時の話。

 まずは大宴会場で会社の宴会があり、お開きになり、その後は各自、自由といことになると、とる行動と言えば、軽く温泉に入って酔いを少し醒ましてから、もう一度飲み直したり、夜の温泉街を散策したりということになるだろう。

 その時も、その例にもれず、私を含めて何人かの同僚が温泉へ行った。
 酔いも手伝ってか、歌など歌いながら呑気に湯船に使っていると、浴室の中に「グワチャ」という鈍いガラスの割れるような音が響いた。
 何があったのかと思う暇もなく、「うわ、何やってんだ!大丈夫か!」と同僚の悲鳴にも似た叫び声が浴室に響きわたる。
 あわてて、その音のした方に行ってみると、洗い場で、声を出した同僚の隣にいた、もう1人の同僚の平井君が、椅子に腰掛けたまま、うつぶせになって倒れており、その下のあたりが血で真っ赤に染まっていた。
 見ると平井君の前にあった鏡が割れていたことから(最初の鈍いガラス音はこの鏡が割れた音だったのだろう)何かの拍子に、平井君が鏡に頭をぶつけてしまい、その拍子に頭を切って出血し、そのまま気絶したということだったのだろう。

 こんな冷静な判断は、もちろん騒動が収まった後で出来たわけで、実際の現場では「救急車を呼べ!」とか「平井を動かすな!」とか「旅館の人に連絡しろ!」などと、同僚達が大声をあげながら行動していたわけで、その行動力は素晴らしいものであった。
 全裸の酔っぱらい男というスタイルを無視すれば。

 結局平井君の生命などには特に以上はなく、ただアルコールが入っていたためと、風呂に入っていたため、出血が少し多かったので、念のため入院をして、額を何針か縫って、処理は終わりという感じであった。

 この話、ここで終われば、平井君の酒の席での失敗談ということで笑い話として終わったのだが、続きがある。
 実は平井君が倒れた原因は、酔っぱらった上に風呂に入ったものだから、のぼせてフラっときて、鏡に頭をぶつけたとか、そういう類のものではないのだ。

以下、平井君の体験談。

 いや、あの倒れた時なんですけどね。僕は別にのぼせたとか、そういうわけではないんですよ。すべて、鏡が悪いのです、あの鏡が!

 いきなり、鏡なんて言っても、何のこと分からないですね。すいません、順序を追って説明します。あのですね、鏡にシミがあったんですよ。
 いや、すいません。ちょっと話を急ぎすぎました。

 ええっとですね、あの時、僕は身体を洗おうとしていたんですよ。だから、あの鏡の前にいました。それで、風呂の鏡って、たいてい曇っているので、まずシャワーで流して、その曇りを取りますよね。
 で、その曇りを取ったらですね、鏡に黒いシミがあったんですよ、直径2㎝くらいのシミだったんですけどね。僕は、そのシミが気になりましてね、タオルでそのシミを拭いたんですよ。そうしたらですね、そのシミを拭いた部分のタオルが赤く染まったんです。
 いや、タオル一面にというわけではなくて、あくまでもそのシミを拭いた部分が、赤くなったというだけなんですけどね。でも、その赤って、どうみても血の色なんですよ。

  それで、僕も気味悪くなってですね。ふと、シミをふき取った鏡を見るとですね、ちょうどシミのあった部分から、鏡が血を流しているのですよ。

 鏡からタラーと血が流れて、そしてその血痕が鏡の中程までにしたたり落ちているのです。

 なぜだか、僕はすごく怖くなりまして、あわてて、タオル鏡の血をふき取ろうとしたら、血が全くふき取れないんですよ。少し戸惑った後、僕はハッとして気が付いたのですよ。

 鏡ではなく、鏡に写った僕の顔から血が出ていることに。

 試しにタオルで、額を拭くと、今度こそ本当にタオルが血の色に染まりました。
 それを見たら、一瞬目の前が暗くなりまして。座ったまま、前のめりに倒れたんでしょうね。
 気が付いたときには鏡が僕の目の前にありました。そして、鏡の中には血塗れのまま、なぜか笑っている僕の顔があり、その顔を見たまま、何か強い衝撃を頭に受けたんです。おそらく、その時に鏡に頭をぶつけたのでしょうけれど。

  あとは、皆さんがご存じの通り、そのまま意識を失いまして、気が付いたら病院で治療を受けていたというわけなんですけど。いや、しかしこうやって、冷静に話してみると、何なんでしょうかねぇ。怪談にしてみても、なんか話の流れも唐突だし、酔っぱらいが見た妄想にしか思えないですねぇ。でも、あの時の僕は、ホロ酔い程度だから意識もあったはずだし、確かに体験したような気するんですけどねぇ。

 というのが平井君から聞いた話なのだが、確かに「怖い」というよりは「不思議な」話ではある。
 なぜ、鏡のシミを拭いたら赤く染まったのか。
 そして、なぜ最初は鏡から流れていたはずの血が、平井君の頭から血が出ているということに変わったのか。
 鏡の中の顔は、なぜ笑っていたのか。
 そのあたりがよく分からない。

 念のため、その旅館に関する怖い話などの噂が書かれた記事などを、探してみたのだが、特に目立った情報は見つからなかったので、あくまで平井君の話だけなのだろう。

 平井君が体験したことは、本当かどうかということはが彼にしか知らないことなので、これ以上調べても無駄なことだろう。
 案外と風呂場で倒れたことの照れ隠しからの作り話だったのかもしれない。

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