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家康の決断 5.長期的に物事を捉えられるか

こんにちは、いっせいです。
徳川家康の75年の生涯の中でターニングポイントとなった決断について、書いていきます。今回は5回目、「旧領関東への転封」になります。

当時の時代背景や、家康の状況

本能寺の変の後に、織田信長の勢力圏を引き継いだ羽柴秀吉が全国統一を進めました。

多くの大名が恭順していく中で最後まで抵抗を続けたのが北条氏でした。北条氏は、関東に大きく勢力を持ち、本拠地の小田原城を中心に抵抗を続けていましたが、1590年に遂に降伏しました。

その後、徳川家康は秀吉の命令で、領地を三河や駿河といった今までの領地から、北条氏の旧領に移封されることになりました。

数字で見ると、119万石から250万石へ領地を拡大したのですが、縁の深い土地を失い、また北条家の旧領ということもあり、住んでいる人々の忠誠心が厚いわけではありませんでした。

また、豊臣家によって全国統一が果たされたわけですが、各大名家を滅ぼしたわけではなく、同盟や恭順によって影響力を強めていったのでまだ豊臣政権が盤石というわけではありません。有力大名などと手を組むことができれば再度抗戦することもできたかもしれません。

家康はどのような決断をしたのか

ここで家康としては、二つの選択肢がありました。

  • 羽柴家との関係性を継続し、関東へ移る

  • 大名家の一部と手を組み、豊臣政権に抗戦する

ここで家康は、羽柴家との関係性を継続して、関東へ移ることを選択します。縁戚を結んでいるとはいえ、豊臣家の方が勢力を強くしており、恭順という形になります。そのような立場となってもなお
前回同様に豊臣家に権限を集約することで平和な状況を作れるという意図から引き続き選択したのだと思います。

また、家康もこの時には49歳となっており、戦ではなく、内政に力をいれていこうとしていたのかもしれません。
実際に、この関東移封後に開発された結果、現在の東京までつながる江戸の繁栄につながっています。

家康の決断から学べることは?

自分の残りの人生を考えると、今後は内政の方にシフトしたのは短期的ではなく長期的に物事を捉えたのだと考えられます。
自分が亡くなった後に、豊臣政権がどうなるかを考えながらも安定した平和を求めてまずは地場の政治から始めたのではないでしょうか。
自分が死んだ後のことも考えて決断するという大きな物差しを持てていることが大事だと考えます。

ここまで読んでいただきありがとうございました!
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