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家康の決断 2.火種をどう扱うか

こんにちは、いっせいです。

徳川家康の75年の生涯の中でターニングポイントとなった決断について、書いていきます。今回は2回目、「三河一向一揆」になります


当時の時代背景や、家康の状況

三河一向一揆は、浄土真宗本願寺の門徒により行われて、1563年から1564年にかけて半年ほど続きました。
家康としては、三河の地で独立を果たした後、織田信長と同盟を結び、自身の影響力を高めることにより地盤を固める時期でした。
そんな中、起きたのが三河の一向一揆でした。

当時は民衆への影響力や、経済的な力を持っていた宗教勢力と対立するのは、地盤固めを進める家康にとって大きな障害になります。
また、家康の頭を悩ませたのが、家臣団の中から門徒側に味方する者も現れたことです。その中には後に重臣となる本多正信も含まれていました。

半年ほどの戦いの結果、家康は一揆の解体に成功します。その後、宗教勢力に対してどのような向き合い方をするのかが、問われてきます。

家康はどのような決断をしたのか

ここで家康には次の二つの選択肢がありました。

  • 本願寺と和議を結んで、三河での影響力を強める。

  • 本願寺を弾圧して、三河統一を図る。

家康は、本願寺を弾圧して三河統一を図ります。
一揆衆を解体させた後、本願寺の寺院に他派・他宗への改宗を迫りました。結果として、1583年まで三河は本願寺教団がない土地となりました。

決断の理由としては、前回にも書いた家康の目的に起因すると思います。当時の宗教勢力は経済力を持ち、一揆を起こす力もあったため、世の中が混乱する原因の一つにもなっていました。平和の世の中を目指す家康にとっては看過できない存在になっていたのだと想像します。

一方で、門徒側に味方した家臣団に対しては、寛大な処置をとることでまた松平家の結束を高める事に成功しました。
三河から宗教権力を排除することで、武家社会への権力統一を行うことで平和な治世を実現し、地盤固めに成功したのだと思います。

家康の決断から学べることは?

一度、問題が発生した場合には、自身の目的から逆算して根本的な解決を行うことが大事だと感じます。
三河という土地を平和にすることを考えた際には、複数の勢力が乱立していることは望ましくありません。
徹底的に浄土真宗の勢力を排除することで武家社会での権力の統一を図ることができたのだと感じます。

問題が起きた時には、目の前の改善だけでなく根本的な原因は何なのかを考え、徹底的に改善することが大事だと感じました。
自分の周りにも暫定的な対処にしていることがないか考えていこうと思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました。
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