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破局論の中に希望を見出す

 武力衝突、クーデーター、紛争、戦争、テロ、疫病、自然災害、気候変動、公害、原発事故・・・。世の中には危険が溢れている。それらは、人間、自然、技術によってもたらされる。

恐れを知らない動物は、逃げることもできず、生存競争においてたちまちに敗北するだろう。(  ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』岩波文庫、p.191)
戦争は多分起こりそうだとも、と同時に、起こりそうにもないとみえた。それは、あの宿命的な日まで、根強く続いた複雑で矛盾した観念だった。        
        (ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』岩波文庫、p.194)

 疫病、医療技術、気候変動、エネルギー問題に対して、専門家に加えて、社会に多種多様な声、相反する考え方がある。今、わたしたち一人ひとりはどの意見を信じて意思決定し、行動すればよいのか。

 環境や人に重大な悪影響が生じる危険性がある場合には、その科学的証拠が不十分であっても対策をとるべきだという予防原則の考え方がある(藤垣裕子『科学者の社会的責任』)。

 そして、専門家の意見が分かれる時に、それを市民が知りうることも重要という考え方もある。これは、ハーバーマスの公共空間における議論にも接続する(『公共性の構造転換』)。

 しかし、そもそも、その予防原則こそを批判するべきではないか。それが、ジャン=ピエール・デュピュイの考えだ。予防原則は、危険を経済学的思考のコスト・ベネフィットに還元してしまう。その問題点に加えて、近年、社会学者が論じてきたリスク論に対する批判があるのは言うまでもない。デュピュイは、イヴァン・イリイチの自律と他律の生産様式をもとにした逆生産性の議論も取り上げる。イリイチの逆生産性とはこうだ。

ある一定の発展の臨界値を超えれば、他律的生産は、自律的な能力が麻痺するほどの物理的・制度的・象徴的領域の完全な再編成をもたらす。その時、連鎖型の悪循環がはじまる。
  (ジャン=ピエール・デュピュイ著『ありえないことが現実になるとき 賢明な破局論にむけて』筑摩書房、p.26)

 目的と手段とが取り違えられ、学校、医療など社会の大きな制度が逆生産性により市民を苦しめる。平常時の可視化されない危険に加えて、大災害や疫病などの非常事態における危険はあらゆる人にふりかかる。ドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベックは近代化により安全地帯で暮らせる「私たち」と危険なところにいる「他者」という構図は崩壊したと指摘した(『危険社会』)。

 危険と似た言葉でリスクがある。社会学者の二クラス・ルーマンは、起こりうる損害が外部の環境に帰属する場合を「危険」と規定し、起こりうる損害が人間の「決定」に帰属する場合を「リスク」と呼ぶ。「危険」は個人が何らかの形で制御できないものであり、まさに大地震や疫病は「危険」に分類される。それは、個人の選択決定によって避けることができるものではない。しかし、疫病下にあって、個人が、あるいは組織の構成員が感染するか否かは、ある程度、組織と個人の行動の選択と決定に帰責するため「リスク」とも言える。

 「リスク」があっても組織や指導者への「信頼」があれば、その構成員は「リスク」を取ることができる。しかし、科学的根拠のない妄信は「危険」となる。前のめりになり、「リスク」を無暗な覚悟を持って振り払うのではなく、正しく恐れ、感染防止の「安全」対策を講じたうえで、段階的に開いていく、信じる者に「安心」を与えていくことが肝要であろう。

 何が正しいか不確定な状況下にあって、公の問題について、専門家、行政、市民、企業、様々な社会的アクターが意見を交換し、議論を通して社会的合理性を構築していくことも重要だ。従来、専門家と一般市民の関係は、専門家から市民への知識の一方向の流れを仮定した。つなわち、市民の知識欠如モデルだ。その考え方は今も根強くあるが、社会生活においては一般市民の方が狭い分野に生きる専門家よりも賢明な判断ができるという主張もある。民衆の知恵(宮本常一)である。専門家には専門家集団以外に言葉で説明するのが難しい暗黙知も存在するが、専門家が社会向けてある判断を意見表明した際には、その専門知に対して、一般市民が意義申し立てすることが社会的に許容されることが必要である。一方で、批判のための批判になっては社会問題は解決されない。今、世界には、安全も安心も不在だ。そして、簡単な処方箋はない。

 デュピュイに議論に戻ろう。予防原則は、リスクはコントロールできるという楽観主義がある。しかし、その認識を捨て去り、破局論を直視することからはじまるのだ。

未来を予見するということは、当然ながら、運命論に屈することではない
   (ジャン=ピール・デュピュイ著『ありえないことが現実になるとき 賢明な破局論にむけて』筑摩書房、p. 161)
人類の冒険の未来に重くのしかかる脅威の問題に対する破局論的な解決策のパラドックスに対する用意はいやま整っている。われわれが望まない固定した未来のかたちをとる否定的な投企について調整する必要がある。
   ( ジャン=ピール・デュピュイ著『ありえないことが現実になるとき 賢明な破局論にむけて』筑摩書房、p.181)

 わわわれ一人ひとりが変わらなければならない。
 未来学者のアーヴィン・ラズロは「過去になりつつある近代の価値・信念体系がいまだに私たちの社会の基盤になっている」と指摘している(日本ホリスティック教育協会『持続可能な教育と文化』)。

 その今や時代遅れになりつつある近代の価値・信念体系とは、「人間は自然を制御できる。ものごとを進めるにあたり効率性がもっとも重要である。すべてはお金に換算できる。個々の人間は個別の存在。市場に委ねれば社会はうまく機能する」といった考え方だ。この近代の考え方が社会にあまりにも深く浸透し、わたしたちもそれによって動かされていたために、社会は変わらなかったのだ。そのような考え方で走り続けなければ、ふと立ちどまった時に生きる意味の貧困に気づいてしまうからだ。その考えは、危険を知りながらも、安全神話を受容した私たち原発依存社会の根底にもあったものだ。

 今、求められているのは、人間だれもが、同時代的にさらには世代を超えて、人間としての尊厳をもって生きられる社会の構築だ。通奏低音として流れるものは「いのちの尊さ」。自らとともに他者をいつくしみ、自然を、生きとし生けるものをいつくしむ生き方だ。人間観、世界観、人生観に影響を与え、日常的な実践に生かされる知恵が必要である。知識だけではなく、われわれ一人ひとりの生き方の変化こそが重要なのだ。

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