電子メール

 電子メールはUNIXのmailコマンドからだ。一九八一年の高速電話モデム(4800BPS)は、電子レンジ程の大きさで数十万円した。備品では買えない金額だった。それが数年で下がり、自宅から会社のサーバにログインできるようになる。
 電話をかけて会社のサーバにログイン、サーバから電話をかけ直す「コールバック」プログラムを起動して電話を切る。かかってきた電話にモデムで応答する。自腹の電話代は最初の十円だけで済む。ちょうど娘が生まれた頃で、夜ピーヒャーというモデムの音が不評だった。
 海外出張となると、この手は使えない。そこで、会社のメールをAOLに転送することにした。AOLは電話のアクセスポイントが世界中にあった。ホテルから近いアクセスポイントに電話して会社のメールを読む。二〇〇〇年くらいまでこんな感じだった。いまでは、どこにいてもインターネットが使える。メールが電話より手軽になった。
 小学生の娘はパソコン通信の「ラインズ先生」にはまり、その中からメールしてくるようになった。娘には小一から自分専用の部屋とPCを与えていた。私がシリコンバレー支店赴任中「おかあさんがね」とメールが来る。妻からもメールがくる。うかつに返信できない。
 電話が一対一なのに比べ、メールは同報ができる。関係者に一斉に伝えることができる。これは仲間内で連絡をとるとき非常に便利だ。しかし、CCでメールが届いたとき、CCと過去引用には要注意だ。研究所をまたがる調整をやっていたとき、失敗を経験した。
 企業には必ず代表電話があるが、メールの代表が登場したのも二〇〇〇年頃だろうか。代表メールは、社内の関係者に同報している。誰が回答するか、お見合いになる。一次担当が回答を書いて、それを上司が確認してから返信する。そういうシステムが登場したのは、その頃である。
 シリコンバレーの展示会で、机一つ、担当者一人、最小のブースだったそのシステムは、テンプレートを使って回答文を作成する機能や、注意すべき単語が含まれていないかチェックする機能が面白いと感じたが、メールに承認が必要?と、そのときは思った。
 アフラックと保険のネット販売に挑戦する合弁会社を作ることになった。ネット保険を検討する利用者は、問い合わせも電話よりメールを好むかもしれない。ドットコムブームに便乗するだけでなく、技術的な目玉も欲しい。そこで、あのベンチャーの名刺を思い出した。
 アフラックに導入後、NHK担当の営業が相談に来た。NHKでも問い合わせメールが増えて苦労しており、提案できるのではないか。しかし、NHKは要望が多く、NTTに似たお殿様だ。しかも価格にうるさい。
 「集金人管理システム」の提案書を手伝ったことがある。集金人にハンディ端末を持たせて、訪問する住所を表示するシステムだ。スマホはまだない時代。ガスの検針などに使う小さなプリンタが付いた端末のメーカと組んでシステム提案した。未契約者を効率よく訪問するサーバ側の設計をかなり具体化したが、結果は失注だった。
 ところが、メールシステムはすんなり決まった。まだ競合がいなかったのだ。パッケージソフトで導入費も高くない。営業は小躍りした。
 NHKのメール対応担当者は数名から十名に増え、性能が問題になった。他にも要望がどんどん上がってきた。最初は私が仲介して米国側に伝えていたが、日本に支店を作ることになったと、支店長予定の日本人がやってきた。当面一人支店長でオフィス探しの最中だった。
 妻にその話をしたら、面接してみるという。東芝を辞めようか迷っていた時期だった。しかし、妻は海外営業だけで国内営業の経験がなく、採用には至らなかった。
 妻は本当はキャリアカウンセリングをやりたかった。東芝では、当時まだフルタイムの女性は少なく、後輩の相談を茶話会のような形で開いていたが、本格的にやるため資格を取得していた。東芝を辞めたあと、いくつかの会社を経て、メール相談のNPOと出会う。若者の相談をメールだけで行うというNPOだった。
そのメールシステムを覗かせてもらった。独自に開発したものだったが、なかなかよく出来ていた。複数の相談員で回答をチェックし、修正をアドバイスすることができた。また引き継ぎを考慮して、経過や予定を要約しておくなど、運用のノウハウがシステムに詰め込まれていた。
 相談は一問一答にはならない。悩みの本質を整然と説明できる人はいない。何度かやりとりするうちに、次第に背景や本音が見えてくる。そして、客観化ができれば大抵の場合、相談は完了する。メールのやりとりは五回から十回で、画面いっぱいの長文になる人もいた。
 私が電子カルテの開発を担当することになって真っ先に思い出したのが、この相談メールシステムだった。主治医が二十四時間三百六十五日、患者からの問い合わせに対応することはできない。夜間や休日は当直医師が、また他の専門の医師や看護師がチームで対応していく。あのメールシステムは、いわば精神科のカルテシステムだったのだ。
 対面のカウンセリングは理想かもしれないが、引きこもりや鬱病の人と会って話すのは難しい。状況が把握できて話が佳境になるまで1時間もかかり、そこで予約時間がきてしまう。メールはじっくり相談するのに双方都合がよい。ところが、民主党政権の「事業仕分け」で、このNPOの補助金はカットされ、あっけなく解散になってしまった。
 妻は今、千葉大学で対人コミュニケーションの授業をもっている。大学一年生向けに、大学に慣れ、就活に備えるコースだ。念願の若者支援にようやくたどり着いた。定員24名の授業に倍以上の申し込みがある。ワークショップ形式なので、この人数が限界だ。その授業の中で、メールでのコミュニケーションもやっている。
 電話応対の企業研修はあるが、メールの研修はない。ビジネスメールに関する書籍はあるが、契約などのプロ向きで、エンドユーザとのメールやLINEでのコミュニケーションは開拓途上である。営業、問い合わせ、就活に、新しいコミュニケーションが今後どんどん利用されていくだろう。やがて介護や医療の分野でも。

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