同僚S君の死

 電話交換機のあと、パケット、フレームリレー、ATMの交換機開発に関わったが、初恋の電話にはやはり思い入れがある。導入から三十年間、止めずに動かし続けるシステムは少ない。また、多くは寿命前に交代、設計寿命を全うするシステムは少ない。
 S君は、交換機の寿命がくる前に他界してしまった。四十台の癌は速い。
出会いは武蔵野研究所の給湯室だった。朝、茶碗を洗っていると「ぼくのほうでやりますから」と替わってくれた。童顔なので、年上なのに「君」を付けてしまう。落語に出て来る丁稚のように元気で愛嬌があった。地方から導入準備のために勉強に来ていた。
 現場で交換機を保守していたが、プログラミングの経験はない。私が担当した2モジュールの小さいほうをサブで担当することになった。大きいほうのモジュールは、急に退職する先輩から引き継ぎ、私はそちらにかかり切りだったのだ。それに、週三日は朝から晩まで開発会議がある。
 彼の席は地下だから、朝茶碗洗いにやってくるのと、ときどき質問にくるだけで、あとは「ぼくのほうでやっておきます」だった。遠慮していたのだろう。
 「今夜、上映会があります。是非地下に来てください」と言われ、初めて地下に降りた。広い倉庫に、地方から単身出張の男たちが何十人も詰めていた。その隅にシーツか何かが張られ、映写機が置いてある。年配者が16ミリフィルムを取り出しながら、「鍋もいい具合だ、さあ今夜はスウェーデンですよ」
単身二年の出張を、六畳のアパートを六人で借りて節約していたから「地元に帰ったら家が建つね」とからかったが、S君はすぐ戻ってきた。できたばかりの開発部門の一期生となったのだ。
 開発完了後、私は研究にシフトしていたが、プログラミングの研修講師として開発部門に呼ばれて行った。彼は中継交換機のチームのリーダ格になっていた。中継交換機は、電話機がつながる交換機よりプログラムは小さい。数分の一しかない。それに中継なら、万一ダウンしても一般利用者には気づかれない。だから、まず中継から内製することになったのだろう。
 電話機がつながる交換機のほうが一桁台数が多く、機能追加要望も多い。だから開発量も大きく、多国籍軍の将校たちは、内製にも改良にも躊躇していた。そして、私が着任するのである。
 まずS君に挨拶に行った。相変わらず明るく元気だった。すると彼の上司がアゴで別室に呼ぶ。「そっちはそっちでやってくれ。俺たちにチャチャを入れないでくれ」あからさまな拒否反応だ。多国籍軍の内部には複雑な力学があるようだった。
 電話機がつながる交換機と中継交換機、じつは研究所では同時に開発した。中継のプログラムに電話機とつなぐプログラムを合体した構造だからだ。両方に使えるモジュールがかなりあった。残りも少しの改造で流用できた。だから、一つのプロジェクトで同時に開発した。それが七年後には、モンタギュー家とキャピュレット家に分かれていた。ロミオとジュリエットである。今度は私が遠慮する番になった。
 着任してすぐ、QCサークル発表会の審査員になった。製造業では品質管理手法としてQCサークルが当時流行りだった。NTT初めての製造部門として、QC活動を推進していた。S君チームは常に優勝を争っていたらしい。しかし、私には不満だった。書籍によく出てくるキーワードだらけの発表だったのだ。「見やすいプログラム」「分離がいいプログラム」「試験しやすいプログラム」そういう宣伝文句に反吐が出る。私も研究所で,そういう美辞麗句をたくさん書いた。書くと必ず「それはどういうこと?」と先輩や上司から問い詰められた。
 しかし、S君は計算などできる奴ではない。打算なく、純粋に担当プログラムを改良しようとしていた。しかし、純粋に頑張ればいいわけではない。それでは芸術になってしまう。格言は、いつでも、どのシステムにでも有効なわけではないのだ。酷評してしまったらしい。S君チームは初めて選外になり、自分の影響力に気づいた。それから、中継交換機にはチャチャを入れず、淡々と自分の担当の改良を進めた。いずれモンタギュー家も、キャピュレット家の施策を参考にしてくれるだろう。そう祈りつつ、カナダへ赴任することになった。ノーザンテレコム社での半年間の研修である。
 帰国してしばらくして、S君が入退院を繰り返していると聞いた。癌だが告知はしていない。見舞いに行った昔の仲間が奥さんから聞き出してきても、私は見舞いに行くのをためらった。行けば改良の話になる。彼は早く復帰したいと、ベッドの上で歯ぎしりしているに違いない。そんな彼と何を話せばいいのか。
 ノーザンテレコム社は、交換機を世界の電話会社に納入していた。それぞれの国、それぞれの会社の要求に、最小限の開発で対応する。それを独特のモジュール構造で実現していた。(JapanやNTTというモジュールがあった)NTT社内向けの電話交換機なら、もっと効果的なモジュール化を簡単に実現できると思われた。
 中継交換機はNTTコミュニケーションズの管轄になり、NTT東西とはリリースのタイミングも保守方法も違っていった。開発体制も完全に別れ、ソースも独立に進化してしまった。モジュールの構成も、ソースの書き方も、コンパイル方法も異なってしまった。S君が改良すればするほど、両家の溝は広がっていった。
 S君との再会は葬式になってしまった。奥さんに頭を下げると「さぞや主人がこき使ったと思います」と逆に深々お辞儀されてしまった。参列者の大半が彼の部下だった。私には温厚に見えた彼は、部下を叱咤して懸命に改良を進めていたのだ。
 「どうぞ見てやってください」奥さんが棺桶の窓を開けた。痩せこけていた。初めて開発に参加した交換機に恋をして、ずっとその交換機の開発に携わり、寿命より前に散った彼に、私は嫉妬した。
 手をとりあって一緒に開発できていたら、と夢見てしまう。しかし、開発内部で調整しているより、顧客の意向を優先して独立に開発してしまうほうが早い。しかも顧客はちゃんとその分の開発費を払ってくれるのだ。モジュール流用でトータルコストを下げる理想を追うのは、勝手な片思いにすぎなかったのかもしれない。

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