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九十四歳の転倒

 独居の母が路上で転倒した。通りかかった人が救急車を呼んでくれた。そんなメールが母から来たのは夜。とうとう、緊張が走る。だが、メールは実家のパソコンから、入院するほどではなかったらしい。すぐに電話、声は元気そう。
「顎の絆創膏がじゃまで食べにくい」
 前のめりの転倒か。頭は大丈夫だろうか。
「ガラガラやったよ」
 CTで脳内出血を検査したのか。それで自宅に帰されたのなら、ひとまずは安心。
「それで明日、支払いに行くよ」
 母は、公民館でハンドベルの帰りだった。保険証は持っていない。路上で転倒した無保険の94歳を、その病院はよく受け入れてくれた。実際、救急車は病院をいくつかあたったらしい。
 支払いは私が行こう。翌朝、保険証をとりに、そして傷の様子を見に実家に寄った。
「あちこち痛いけど、保険証ようやく見つけたよ」
 無保険だと三万円くらいと病院で聞き、昨夜は一生懸命探したのだそうだ。しまう場所をちゃんと決めておけばいいのに、毎回思い付きで、ひょいとしまってしまう母だ。
 しかし、保険証だけで、どの患者の支払いか、病院は分かるだろうか。電子カルテを開発してきた経験から、ちょっと心配になった。何か他にもらわなかったか、再び母と家宅捜索。すると、予約票が出てきた。
「そういえば一週間後に来てと言われた」
 予約票の母の名前は、ひらがな。保険証の名前は、漢字とカタカナだ。無保険だから、ひらがなにしたのだろう。病院で保険証を見せて、事務員がカタカナで検索しても、母は見つからない。案の定、会計窓口は予約票を見て、ひらがなで検索。そして、事務員は目を輝かせ、私にお礼を言った。支払いに来ない案件だと、半分思われていたのかもしれない。
「ところで診察券は?」
 診察券のことは聞いていない。もらっていないと答え、支払いを済ませ、それから次週予約している脳神経外科の場所を確認した。すると、当日まず診察券を出してください。ないと答えると、「それでは初診になりますね、外来初診の窓口に」と言われた。実家に戻り、そのことを話すと、
「もしかしたら、もらったかも知れない」
 再び家宅捜索。診察券は保険証の中に押し込まれていた。

 さて、母にはかかりつけ医があり、定期的に診てもらっている。転倒から三日後が、ちょうど予定の健診日だった。そこで、私も同行することにした。かかりつけは内科の小さな診療所だが、経緯を把握しておいてほしい。転倒の影響がいつどのように出るか分からない。しかし、顎の大きな絆創膏について、母はきっとうまく先生に説明できない。病院の明細(創傷処置とCT)、処方された薬情(抗菌薬)を持参した。これだけで医師には大体事情が分かるだろう。
 一通り診察が終わると、母は先生に、絆創膏で食べにくい、とって欲しい、と訴えた。しかし、「それは病院で」とつれない。その理由は後日、病院で分かった。
 しかし、顎の絆創膏は食事のたびに汚れてくる。とてもしっかりしていて、剥がれてくる気配はないのだが、一週間が待ち遠しい。
 予約されていたのは、救急搬送された日に対応してくれた医師だった。母がちゃんと自分で歩き、診察室に入ってくるのを見て、医師は笑顔で「それでは絆創膏とりましょう」と言った。顎の傷はなかなか痛々しかった。
 私も縫ってもらったことがある。ローラースケートで壁に突っ込んだ。小学校では、教室で転び、机の角に額をぶつけた。大学では、自転車で転倒して顔面から着地した。だから、抜糸も経験している。しかし、ホッチキスとは知らなかった。機械でカチカチと抜いて消毒、はい終了。さすが二十一世紀。
 会計窓口に行くと、「診察券があるなら、あちらで」。スーパーのセルフレジのような機械が並んでいた。こちらも進歩している。前の人はクレジットカードを選択、入院費なのだろう。十万円以上だった。(母の抜糸は七十円だった)
 タクシー乗り場に行こうとすると、
「バスがすぐ来るよ」
病院前にバス停がある。一時間に一本なのだが、母は時刻表を覚えているではないか。じつは公民館の帰り、母はこの病院ロビーでよくバス待ちをしていた。冷暖房が効いていてコンビニもある。おしゃべり相手もいる。
 ところで、転倒から4日ほど経って、母は脇腹が痛いと言い出した。そこで、妻に脇腹周辺を丹念に見てもらった。打った跡はない。常時痛いわけではない。脳神経外科で訊くと「そりゃあちこち痛くなりますよ」とすげない。
 そこで、私がかかりつけの整骨院で診てもらうことにした。私もジョギング中に何度か転倒している。痛みが残り、それがフォームに影響し、直すのに数カ月もかかった。母は前のめりに手をつき、顎を打ち、膝も打った。その衝撃に筋肉が反応に、筋肉痛になったと思われる。
 心配する息子をよそに、母は一週間ぶりに買い物してきたと、大きな大根一本、キャベツ丸ごと一個を見せた。

 母の万が一に備えてきたつもりだが、今回はいろいろ誤算があった。母の買い物袋にGPS(子供の見守り用)を付けていたが、それは迷子や徘徊を想定してのことで、転倒には役立たなかった。
 母が住む新宿区には「高齢者見守りキーホルダー」がある。キーホルダーにIDと電話番号が刻まれている。電話は地域包括支援センターのもので、センターにIDを告げると、センターの人が私に連絡してくれる仕組みだ。
 しかし、救急隊は、このキーホルダーに気づかなかった。代わりに、GPSに私がマジックで書いた携帯番号に電話をしてくれた。たしかに私の携帯に着信があったのだが、見知らぬ番号からだ。私は無視をしてしまった。だが、もし電話に出ていたとしても、結局すぐ行くことは難しかった。
 母は、失くすのが怖いと言ってスマホを携帯してくれない。(それで代わりにGPS)だが、もしスマホを携帯していたとしても、自分で救急車を呼べただろうか。Apple Watchなどに転倒検知があるが、誤報も出る。結局、無視することになっただろう。
 今回、母は路上で転倒、通りかかった人に助けてもらった。もし自宅だったら、どうなっていただろう。じつは母は、七十歳のときに自宅で転倒している。それは、骨粗鬆症による半身麻痺だった。怪我はなかったので、母は固定電話まで這って行った。そして、母が電話したのは私ではなく、近所のお友達だった。
 私はシリコンバレーを頻繁に往復していた時期だった。お友達が自家用車で病院まで運んでくれ、入院を手伝ってくれて、夜になって私に電話をくれた。そういう奇特なご近所さんもどんどん高齢になっていく。
 路上転倒に対する万全の策は難しい。これが寝たきりになれば、ITで見守れる。母が寝たきりになる日は、そう遠くはないだろう。それまでに、実家にインターネットを用意しておこう。5Gを使ったホームルータは配線工事が不要。導入が簡単と盛んに宣伝している。都営住宅でも問題ないだろう。
 WiFiが使えれば、人感センサーも監視カメラも容易に設置できる。私が申し込んで、ルータは実家に設置しよう、と考えた。ところが、ルータの移動は禁止されていた。
 携帯電話と違い、ホームルータは固定した場所で常時利用される。移動体通信会社の立場になると、禁止するのも分からなくはない。設置住所近くの5Gアンテナ容量が足りるか、ちゃんと計算して設置を販売を許可しているのだ。
 通信会社にはちゃんと事情を説明した。母はネットから申し込むことができない。クレジットカードもない。(家族カードを渡しても使ってくれないので、随分前に解約した)いずれ老人ホームに入る。亡くなるかもしれない。だから、息子が代理で契約するのが合理的だ。しかし、コールセンターは、頑として、私の住所以外への設置を認めてくれなかった。
 しかたがない。私の住所で契約。届いたルータを数カ月寝かせ、それからWebで「引越し申請」をした。そして、引越し予定日にホームルータを実家に持参し、恐る恐る電源を入れた。WiFiが開通した。(もちろん、私は本当に引越ししたわけではない)
 このホームルータ導入の何年も前に、SIMカード内臓のChromebookを実家に導入している。SIMは私が購入し、通信料も私のクレジットカードで払っている。しかし、今後各種センサーを導入するとき、WiFiがあれば製品の選択肢が格段に広がる。まずはGoogle Nest Hub を試そうと思う。

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