ただ、なんとなく
ある日の夕食時、娘がつぶやいた。
「中学校は、行こうかな」
娘は11歳。
地域の小学校は1年で辞めた。
一般的には「不登校」と一括りにされる。しかし、彼女に対して「不登校」という言葉を当てはめるのには、少し抵抗がある。
娘は、学校に「行けない」のではなく、「行かない」と決めたのだ。
しかるに、「不登校」にまつわる負のイメージとは少し趣きが異なる。
「積極的スクールキャンセル」
「教育革命児」
「攻撃的ミッドフィルダー」や「人間発電所」みたいな、なにかいい感じのネーミングはないものかと、日々頭を悩ませている。
「なんで中学校には行きたいの?」と尋ねる。
くちびるを尖らせ、お箸で鍋を突っつく。困ったような顔で、娘が一言。
「なんとなく」
2005年6月12日、米スタンフォード大学で卒業式が行われた。
いまだ語り継がれている、伝説のスピーチ。
スティーブ・ジョブズだ。
彼はスピーチの中で、こんなことを言っている。
「点と点をつなげる」
大学を辞めると決意したジョブズ。必須の授業を受ける必要がなくなったため、カリグラフの講義に出席するようになった。
このとき、大切なポイントがある。
「将来なにかの役に立つかもしれないから」とカリグラフを学ぼうとしたのではない。
ましてや、いつかマッキントッシュを設計するとき必要になるなんて、夢にも思っていない。
ただ、なんとなく。
なぜだかわからないが、なんとなくカリグラフに興味を持ってしまったのだ。
とある面接会場にて。
「では、当社を希望した理由を教えて下さい」
背筋をピシッと伸ばし、胸を張る。面接官の目をしっかり見据え、腹から大きな声を出す。
「はい!なんとなくです!!」
不採用である。
世間では、「なんとなく」という言葉に対して、どこか否定的なイメージを持っている。
曖昧、無思考、非論理的。
でもじつは、この「なんとなく」という感覚がとても大切なのではないのだろうかと、私は思っている。
昔、お見合い結婚があたりまえの頃。ある男性が、1人の女性をいたく気に入った。男は、高学歴、高収入、高身長。いわゆる三高である。
レモンと笑顔がよく似合う。
ザ・テレビジョン的好青年。
いつもしかめっ面している、女性の父親も「おい、いいんじゃないか?」と相好を崩す。
でも、なんか違う気がする。理由はわからない。ただ、なんとなく嫌な感じがする。
親の反対を押切り、友人からは「もったいない」と言われつつ、丁重にお断りした。
数年後、ある噂話を耳にする。
「あの人、実はかなりのマザコンでDV野郎だったらしいよ。奥さん、結婚して半年で実家に逃げ帰ったんだって」
ある朝、いつもと同じ電車に乗り、会社に向かう。しばらくすると、なにか車内に違和感を覚える。
周りを見回してみても、原因はわからない。ただ、なんとなく嫌な予感がしたので、ひとつ手前の駅で降りた。
会社まで歩いて向かう途中、何台ものパトカーや救急車とすれ違う。なんだか騒がしい。
会社に到着した。いつもより遅めの出社なのに、なぜか人が少ない。「あれ?みんなどうしたんだろう?」
数時間後、全ての謎がとけた。
電車内に、毒物が撒かれたらしい。
1995年3月20日。
地下鉄サリン事件だった。
これらの話に共通すること。それは、なんとなくの違和感によって、事前に難を逃れることができた、ということである。
なぜそんなことが、できるのか?
もちろん、偶然や思い違いもあるだろう。
しかし、人間には本来、そのような能力がそなわっているのである。
例えば、生理的に苦手な人が近くに来ると、鳥肌が立つ。そんなの当たり前だと侮ってはいけない。
それは、身体からのメッセージ。
多くの人は軽く見逃してしまう。でもそれは、このままだと生命が脅かされる可能性があるぞ、という危険信号なのである。
頭より先に、身体はわかっている。このような能力が、人間にはある。
なんの根拠もない、人生経験も少ない、そんな娘の「なんとなく」。本当に、信じて大丈夫なのだろうか?
不安は、ある。授業についていけるだろうか。いじめられはしないだろうか?悲しい思いはしないだろうか?
すぐにひよる。こんなに情けない私にも、ジョブズの言葉が胸に刺さる。
「何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです」
人間万事塞翁が馬。なにが正解なんてわかりゃしない。
ならば私も勇気を持って、娘の「なんとなく」という直感を信じてやろうじゃないか。
ジョブズ、ありがとう。おかげで前に進めそうだ。これからも、怖気づいたときは、きっとあなたのこの言葉を思い出すだろう。
「ハングリーであれ。愚か者であれ。」
ちなみに、私はこの文章を、アイフォンではなくアンドロイドで作成している。すまない、ジョブズ。
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