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無垢な暴力

私を含め、自分を卑下し、簡単に自己否定するタイプの人間が本当に孕んでいるのは自己肯定感の低さでも自信のなさでも何でもなく、歪んだ自己愛という暴力性だ。

自信のない人間は、まるで自分を小さく、弱く、簡単に傷つけられ蔑ろにされる存在価値のない者だと勘違いしている。常に他人の目を伺い、不快にさせないよう気を張り続ける。本当は逆だ。肥大化した自己愛が満たされないから、それを受け入れてくれない周囲に絶望し、勝手に殻に閉じこもる。常に他人を監視し、自己を攻撃する存在を恨み殺さんとばかりに銃を構える。ひっそりと影に潜み、気づかれないように周囲を恨み、呪詛のような攻撃を繰り返す。

そしてその根底にある意識は、「被害者」そのものだ。

パーソナリティ障害のレベルであるならいっそ当人も周囲も諦めのつく話ではあろう。彼らのこれの厄介なところは、「自信がない」という自身の「エゴ」を弱さに履き替え、共感や理解、ひいては救いを無垢に求めてくるところだ。弱者にプレッシャーを与えてはいけないという暗黙の優しさ。それが却って彼らの自己愛を増幅させる矛盾。気づかないということは、ある意味で救いなのかもしれない。


私の内側に潜むこの暴力性に気づいて恐怖しているとともに、そういう人間のあまりの多さに絶望すらしている。私は誰を信じれば良いのだろう、何を信じれば良いのだろう。こうやって思考している時点で、周囲に自己の求める理想を押し付けて暴力を振るっているわけだ。

期待しているのはいつだって自分自身だ。期待は理想の押しつけであり、本来自分の中で消化すべき一つの感情だ。だが、私のような「自信のない」人間は、その外れた期待を自分のせいにするように振る舞いながら、見えない無意識では思い通りにならない周囲への不満として蓄積していく。思考回路はそれを「弱さ」という名の幼稚な自己愛に歪ませ、自己嫌悪に見せかけたナルシズムを膨らませる。

自己否定も、自己嫌悪も、結局は過度な自己への期待だ。それが思い通りにならなくなった途端、「被害者」になる。自らが生み出した思考の被害者になり、その鬱憤の矛先は、あらゆるラインを超えて、何故か周囲に向けられる。そしてまた「裏切られ」、無意識の自己愛を歪ませる。

他人の目を気にするという繊細さは、要するに他人から映る自分を良いものと見せたい、理解されたい、肯定されたいという心情の裏返しだ。自分の感情に繊細なだけであり、決して他人の機微に繊細な訳では無い。ここが分かりにくいからややこしいんだ。いつまでもいつまでも勘違いを繰り返して、勝手に病んで、落ち込んで、呪詛を吐き続けるんだ。

耳障りの良い言葉だけに耳を傾け、「他人を思いやれる崇高な精神」と勘違いさせてくれるような甘美な情報にだけ飛びついて、自己を否定する事実や状況にあえて目を向け、不安を増幅して、そんな社会の被害者たる自分に陶酔し、そうやって自己を納得させることで、どうにかその凶暴性を発揮していないだけの繊細で獰猛な怪物。本当の被害者はどちらだ?

嫌われたくない、拒絶されたくないという感情の裏にあるのは、愛されたいという身勝手な期待。すべて諦めてしまえば楽なのに、歪んだ自己愛を抱えたままじゃ当分叶いそうにない。その事実が、たまらなく怖くて怖くて仕方ない。



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