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悪童村 一

『目次』

 子供の頃の夢をよく見る。
 故郷の家屋で、開かれたふすまの前に兄と二人で立っている。視界の先には敷かれた布団の上で眠っている母。
 ぼくらの手にはそれぞれ煌く凶器──包丁が握り込まれていた。ぼくは兄と顔を見合わせて頷いた。互いに決心はとうに済ませており、これからおよぶ凶行について精緻に思い描くことにも抵抗はない。
 死んで当然の人間だった。幼い頃からの育児放棄、日常的な虐待、生まれてきたことに対する懺悔の強要。ぼくらはうんざりしていた。口答えすればすぐに打擲され、腹の虫が収まるまで殴られ続ける。まだ体の小さいぼくらはこの女のなすがまま、歯を食いしばってこの異様な家庭に対する呪詛を飲み下すしか術はなかった。
 だがもう違う。ぼくらは小さな子供ではなく、十分に人ひとりをこの世から消し去ってしまえるだけの体躯と知性を手に入れた。
 元々殺そうと言い出したのは兄だった。もし生まれてきたのがぼく一人だったら、こんな凶行に及ぼうなどとは考えもしなかっただろう。下手をすれば、のたれ死んでいたかもしれない。気の小さいぼくに殺人などという外道に手を染める勇気が湧くはずもない。
 だが兄は違った。小さい時から正義の味方よりも極道の長か麻薬王になりたいと公言するような性格からして、人殺しというものに対する抵抗感は人一倍低かった。自分の目の前に立ち塞がるものは、いかに頑強な障壁であろうと万策を尽くして粉砕し、求めるものを手にする。そんな姿勢で人生を斜に構えて俯瞰する兄が、人生最大の障壁たる母を抹殺しないなどありえないことだった。
 そして今、ぼくは兄と共に寝息を立てる母ににじり寄る。鼓動が痛いほど胸を打ち、まるで鋼鉄の五指が心臓を締め上げているような心地だ。嫌な脂汗が顔といい体といい吹き出てきた。体が思うように動かない。全身が鉛に変貌してしまったかのような重さだ。
 ぼくは母のもとでしゃがみ込み、兄は母の顔を覗き込むように膝をついた。
「やるぞ」
 兄が喉首を掻っ切る動作をして見せた。兄の言葉で金縛りを解かれたぼくの体は自由を取り戻した。
 それからは早いもので、ぼくは両手で逆手に包丁の柄を握ると、母の胸郭に狙いを定めた。やってやる、という気概が一気に全身に充実する。まるで全身の血液がそっくりそのまま入れ替えられ、人格そのものが変貌したように、殺人衝動が昂まっていくのを感じる。有史以前から人類を突き動かしてきた強烈な感情のはたらき──殺意が今、殺すべき対象に牙を剥こうとしてた。
 そしてぼくは包丁を振り落とす。躊躇いは何処かへと消え去っていた。
 白い襖に血潮が飛び散り、叫喚が響いた。

【続】

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