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2023年に見たコンテンツをまとめてみる

タイトルの通りだ。
これは2023年に見聞きした、小説、漫画、映画、ゲーム等々、俺が今年印象に残ったものをそれなりにまとめてみようという試みだ。俺は日ごろ何見ただとか何聞いただとかメモをとったりしない。ので、おそらくこれは2023年に見たはず、といううろ覚えによって書き進めていくつもりだ。
なんでこんなことをするのかというと、これまでそこそこインプットしてきたはずなのに逆噴射小説大賞で中々結果を出せていないので、あれこれ食ったものをちゃんと咀嚼しきれていないのではないかと考えたからだ。ここでちゃんとインプットした作品を「なぜ好きだと感じたのか」と分析して消化していけば自ずと有益な結果をもたらす……はず。
そんな感じでやっていく。

(編集履歴)
※スターフィールド項の記述を修正
※ウルフェンシュタイン項の声優名の誤記を修正
※セラフィム項の記述のあらすじ部分の記述を追加
※マイゴジ項の記述を全面的に修正


小説

・アラビアの夜の種族

今年読んだフィクションの中ではこれが一番面白かったと思う。
読んだことない人のためにあらすじを説明するのは面倒なので省く。気になるなら俺の文章ではなく、実際に読んで知る方が圧倒的に良い。
で、俺はこれを読んで大変感銘を受けた。
もちろん世界観やストーリーは見事だが、何より俺が驚いたのは、入れ子構造の小説構成を活かして作者のやりたいことと読者の見たいものを両立させていることだ。
基本的に作品というのは作者のエゴで成り立っているわけだが、それを広く天下に広める段になるとそうも言っていられなくなる。というのもそれにはコストがかかるわけで、それに対してリターンがなければならない。つまり赤字にならない程度に売れなければならないということだ。そして作者の独りよがりな作品は売れないからこそ、基本的に商業作品は売れ線狙うのがセオリーなわけである。小説なら、共感できる主人公、スムーズな読書を促す文章、瑕疵を極力抑えたストーリー、といった具合に綺麗にパッケージングされた明快な作品が求められる。
そうしたものの良し悪しをここで論ずるつもりはない(俺の好きな貴志祐介とかまんまそんな創作術で今までやってきている)。だがそんなエゴイスティックさは商業主義と相性が悪いのは事実だ。
ではエンターテイメントはそういった作者の欲望と読者の要求にどう応えるべきか。それは両方ともぶち込んでしまえばよいのだ。
これはそんな荒業で成り立っている小説だ。
俺が思うに、この小説は現実と虚構がないまぜになった状態を書くことに終始している。史実のエジプト、カイロを舞台にしているが、そこで語られる作中作は逆にそうした史実を飲み込んでしまうほどの虚構を孕んでい、同時にその構成自体がこの小説全体のメタファーとなっている。
あまりネタバレできないのでわけのわからない書き方になっているが、読めばわかるはず。これは現実の中に虚構があるといった単純な図式で成り立っている物語ではないことがラストで(そして読み終えてネットで感想を検索した時、更に大きな物語に包括されていたことが)明かされる。そこで初めて、これまで語られてきた作中作が実は現実と重なり合って存在していたことに気づくのだ。
だがこれは俺が感じた驚きの前座に過ぎなかった。
この小説には現実と虚構、二つの相反する物語が共存している。これは同時に読者と作者、相反する二者それぞれの願望が一つの小説に強引につめこまれていることでもある。本来ならそれはありえない話だ。一つの物語に三つも四つも結末を用意することはできない。もしそれをやりたいなら小説にそれ相応の仕組みを持たせるべきだ。
そしてその仕組みこそが前述の小説構成だ。ある物語に内包されていたはずの物語が実はより大きな物語を孕んでいたという、現実と虚構の融解。それによって結末は幾重にも分岐する。
先述した小説構成も、これを成立させるためのツールに過ぎなかったのだ。これは並大抵な技量ではない。しっかりとその構成に説得力を持たせねばならないからだ。
そしてこのアラビアの夜の種族はそれを見事にこなしていたのだった。
読者がしっかりと納得できる満足感溢れる結末を提示した後、作者がやりたい放題の結末を提示し、さらにそれらをより大きな物語で覆う。
決して可読性が高いとは言えない小説だが、物書きの端くれとしてはこの小説を何度も読んで構成を分析し、その技量の一端でも掴みたいと強く思ったのだった。

・犬神明

念のため記しておくが、決してスケキヨが出てくる横溝正史の推理小説のことではない。
冗談はさておき、俺は平井和正の小説が好みだった。書店で初めてヤングウルフガイシリーズの第一作「狼の紋章」その冒頭数ページを読んだだけで「俺この小説好きかも」と感じ、その後見事にその予感は当たった。正直完璧な学園小説だと思う。今読むといささか古いが、そんなことを感じさせないくらいの普遍性と超絶クールな文章に彩られている。早い話が今でも普通に読める。
そしてそんなサーガの完結編とあらば読む以外に選択肢はないのだった。
だが実のところ期待値は低かった。なぜならこれ以前の「黄金少女」編が本当につまらなかったからだ。「紋章」「怨歌」「虎精の里」「ブーステッドマン」までは本当に面白く、読んでいてこれ以上に完璧な作品もないんじゃないかというくらいの出来映えなのだ(特にブーステッドマンは最高に気になる終わり方をしていたので期待値は俺史上かつてないほど高まっていた)。だがその後の黄金少女がすべてを台無しにしてくれた。文章の冴えは相変わらず抜群だが、ストーリーの方が完全にダメダメだった。ブーステッドマンのその後を書かず、遠いアメリカの片田舎を舞台に白人警官が暴走族と戦争する話になるなど誰が予想できただろうか。
俺はこれに大層萎えた。キャラクターも誰一人好きになれないので擁護できる点はない。
俺はこれに本当に期待していた。怨歌を読み終わってから同作者の「ゾンビー・ハンター」を読んだのだが、そのあとがきに「俺が人類ダメ小説を書くのはこれが最後」と書かれており、同時に「これからは腐敗した人類が浄化される話を書く。だがその道のりは暗いものになるだろう」と述べていたのでそうしたテイストを期待していたのだ。
平井和正は戦中の体験からか、作家デビュー当初から「人類はクソだから滅びるべき」という旨の小説を書き続けており、それをあらかた書き終えたので次のフェーズに移ると見ていた。しかし高橋留美子の「めぞん一刻」にハマったからなのか、はたまた新興宗教にハマったからなのか、そうした過去の激しい作風というのは鳴りを潜め、代わりに抹香臭さが漂うような作風に変化してしまったのだ。「デビュー当初から追っかけてたバンドが路線変更した時の古参ファンの気持ちってこんな感じか」と思ったのを今も覚えている。
さて、そんな話の続きとあらば期待値は半減した状態なのも無理はない。
実際どんな感じだったのかというと「まあ、あまり面白くはないよな」という印象。結末も知り切れトンボな印象を受けた。
ただ俺が気に入った点が一つあって、それが西城恵のことだった。
字面だけ見ると女みたいな名前だが、バリバリ男の元CIA非合法工作員である。
思えばヤングウルフガイシリーズは西城の物語だったように思う。戦中に日系人収容所で迫害を受け、その血肉に人類への憎悪を叩き込まれた西城は博愛精神を持つ主人公犬神明と対を成す存在だ。人間不信の職業殺人者、最強のワンマンアーミーたるこの男は、それでいてなお心の奥底ではどこか世界に期待しているものがあるように思う。
そうして硬質化した心がシリーズを重ねて解れてくる様は中々見ものである。これがこの大河小説の醍醐味かもしれない。
それがさらに本作で理想的とも言えるBeeという名のパートナーを得て、彼女に翻弄される様が面白い。俺にとって正直犬神明やらなんやらは本当にどうでもよく、この西城とBeeが作中で繰り広げる珍道中を延々と続けてほしかったくらいだ。ここだけラノベかと思うくらい気恥ずかしいイチャイチャが繰り広げられてて、読んでいるこちらが身悶えしたくなる(実際平井和正はラノベの源流と称される立ち位置におり、オンラインノベルの先駆けでもあったらしい)。
これが俺がこの小説を好きなただ一つの理由である。この二人の関係性があまりにも美しすぎる。
余談だが、高橋留美子は平井和正が一部原作を務めた池上遼一版スパイダーマンに大層影響を受けたと語っていた。確かにBeeもとい虎4のキャラクター造形というのは高橋留美子作品の登場人物にいそうではある(ただ俺はあまり高橋留美子の作品は好きじゃないのだが……)。

・ファウンデーション

SF読みになりたいなら定番の名作を読んでおくことも重要かと思い、SF御三家の一人、アシモフ先生の代表作を読んでみた。
俺が読んだのは3巻の半ば辺りまでで(ミュール編まで)、そこから先は飽きてやめてしまった。多分これからも読むことはない。
しかし読んだ部分はとても面白かった。AppleTVでドラマが配信されるというので予告編を見たのだが、そこで感じたあまりにも気宇壮大なイメージとは裏腹に実際の原作は文章に難がなく、サラッとしていて大変読みやすかった。古いからと身構えていたら肩透かしを食らった。
だからといってつまらないということはなく、問題発生から解決に至るまでの流れがミステリー小説のように気になってついついページをめくってしまう。
また、ストーリーもちょっと捻りがきいてて面白い。たとえばこの話の発端となる銀河帝国の滅亡と衰退のくだり。普通のSF(これが適切な表現なのかどうかはわからないが)だったら銀河帝国の滅亡を食い止める、とかいう流れになるわけだが、この作品は避けられない帝国滅亡の後の混乱を以下に素早く収束させるか、という諦めムードから始まるのが面白い(ローマ帝国衰亡史を参考にしたそうな)。
そしてそこから銀河帝国復興を目指す団体「ファウンデーション」復興への長い道のりが始まるわけだが、そこで描かれる問題発生と解決の流れ頭脳戦じみてて面白い。何か危機に陥る度にファウンデーションメンバーが、その創始者ハリ・セルダンが心理歴史学を駆使して実現した”予言″に薫陶を受け、問題を解決するという一連の流れが様式美になっているわけだが、遭遇する危機と、その解決方法が章を追うごとにどんどんエスカレートしていくので飽きさせない。前章で提示された無敵にも思えた解決策が次章に起こる危機で封じられ、さらにそれを倒す解決策を見つけ出すというのがジョジョのスタンドバトルのようでもある。
ところがこれがミュール以降失速した感があった。というのも、これはそれまでセルダンの予言を駆使して解決してきたセオリーを根本から覆す敵を出してしまったので、それ以話の成長が見込めないのである。いや、読んでいる途中でやめたからその後がどうなっているか知らないのだが、その前章に出てきた最強の敵ことミュールが出てくる章が無駄に長くてつまらないので途中で切ってしまったのだった。
というわけでもし俺が存命中に戦争か何かで文明が崩壊し、ファウンデーション以外の本が焼け落ちてしまったら続きを読もうと思う。

・我々は、みな孤独である

俺の大好き貴志祐介作品。
寡作にして遅筆な人なので、長編は防犯探偵シリーズを除くとだいぶ久しぶりになると思う。ところが最近この人はあまり当たりを書かない印象があり、期待半ばといった感じで読み進めていった。俺の勝手な想像だが、後世では「貴志祐介の後期作は微妙なのが多い」という評価を受けていると思う。知らんけど。
冒頭の掴みは理想的で逆噴射的な視点で見ても点数が高い。
そして相変わらずサイコパスと超能力というもはやお家芸となった要素を駆使した多ジャンル混合型のエンタメ小説となっている。
んが、全体を通して振り返ると手放しで褒められるかというと疑問符がつく。別に悪くはないし、綿密な取材を重ねてリアリティを出してきたり、ロジックの積み重ねで前世の存在を肯定しようとしてきた辺りは本当にすごいと思うが、それでも自身の実体験を活かした「黒い家」やホラー大賞受賞後一作目の「天使の囀り」といった往年の名作と張り合うにはいささか分が悪いように感じる。
何が足りないのか考えてみると、それは多分オチが良くなかったのかなと思った。事態の全貌が明かされなかった部分がマイナスポイントだったのだろうか。なんというか、映画「メメント」のような終わり方なのだ。一見綺麗だが何も解決していないという。
だがよく考えて、これは前世の存在を解き明かすことが目的のストーリーではないことに気づいた。
これは主人公が悟って終わるタイプの物語だったのだと。
All You Need Is Kill。あの小説は主人子のキリヤ・ケイジが殺戮マシーンになったところで終わり、その後の人類と敵性体における争いの顛末は描かれない。なぜなら重要なのは主人公が大事なものを失って(あるいは奪って)、「殺しこそが全てだAll You Need Is Kill」と悟ることにあるからだ。そこには主人公の中でかなりのウェイトを占めていたはずのヒロインすらも介入できない。
この「我々~」も同じく、事態の全貌を見せることではなく、主人公が何かを悟ってある領域に達することを描く話だったのだろう。
実際これを映画と見立て、作中で引用されていたボズ・スキャッグスの「We're All Alone」をED曲としてみると、あの味気ないラストもしっくりくる気がする。
と、最大限好意的に解釈してみたが、実際のところは連載作品だったために色々ぐちゃぐちゃだったのをなんとか不時着させたのが大方の真相だろう。
だがまあ真相は大して重要ではない。大事なのは、俺がこの物語がどういうものか“悟る”ことにあったのだから()。

・ロバート・オッペンハイマー ──愚者としての科学者

これは伝記だが、今度クリストファー・ノーランの新作が日本でも公開されるので勉強がてらに買った。不思議なことに今まで原爆関連の本は広島、長崎といった、日本からの視点で綴られたものはいくつか読んだものの、開発者であるオッペンハイマーの視点に寄り添ったものは読んだことはなかった。これをいい機会ととらえ、電子での購入に踏み切った。今思うと図書館で借りてもよかったかもしれない。
内容に捏造された部分はないように思われたので、原爆開発の経緯を知る入門編として読んでもいいかもしれない。
個人的に収穫だったのが、オッペンハイマーが使った言葉としてよく引用されるバガヴァッド・ギーターの登場人物のセリフ「我は死となれり云々」の使用意図についての考察部分。これはオッペンハイマー自身が原爆を完成させて世界の破壊者となったことへの自覚の表明ではなかったということを知れたのが大きかった(誰かとオッペンハイマーについて話す時にしたり顔で間違ったことを話すのは大変恥ずかしいから)。
あとはハヤカワから出る映画原作の文庫版を買って予習に充てようと思う。

漫画

・デビルマン

何年か前の逆噴射で、俺の小説は永井豪を思わせる、と講評を頂いたことがあった。俺個人は当時永井豪を読んだことがなく、不思議に思っていた(もっともこれは、俺が永井豪と同時期に絶頂を迎えていた平井和正の影響を受けていたことに起因するように思う)。
まあせっかくそういうお声を頂いたのでデビルマンの方も読もうと思っていたのだが、先延ばしにする内に2023年にずれ込んでしまった経緯がある。
んで、いざ読んでみると噂に違わず強烈な作品だった。露悪的な作品ならたくさん読んできたが、これはそれらのどれとも異なるぶっ飛びかたをしている感じがある。
グロテスクさで言えばこれ以上の作品はそこらじゅうに溢れているだろうが(グリム&グリィッティ?)、そこら辺を軽く飛躍して一気に不条理な世界に突っ込んでいく様は正直昨今の作品にはないように感じる。よく言われるヒロイン串刺しとかはまだしも、その後一瞬で崩壊する文明とデビルマンとデーモン陣営の壮絶な内ゲバ、そんでもって天から落ちてくる天使ども。言葉を失う黙示録ぶりである。
さらに読んでて思ったのだが、寄生獣はこれを強く意識して書かれた作品だったということ。というよりも寄生獣はデビルマンに対するアンサーソングなのだろう。互いの不信から破滅を招くこととなったデビルマン、それでも共生していけると結論づけた寄生獣、両者の違いはおそらく冷戦真っ只中に描かれたことと冷戦終了後に描かれたことが影響しているのかもしれない。漫画はエンタメであっても世相を敏感に反映する代物なので、そうした世相の違いが作品にも表れているのだろう。
正直義務教育的作品なので読めてよかったと思う。が、それ以外の永井豪作品を読むかと聞かれたら……今のところ未定であるとしか言えない。

・セラフィム 2億6661万3336の翼

まあ傑作である。原作者は押井守。
まずこの作品は導入となるあらすじの書き方がかっこよくて、引用すると、

21世紀、ユーラシア大陸の新興部に発した疾病はまたたくまに大陸全域を覆いつくした。
(中略)
汚染を逃れて流出する膨大な数の難民に対して先進国家群は一斉にその国境を閉ざした。
(中略)
封鎖された世界の内部では斬新的な絶望が、外部では文明の穏やかな退潮が始まった。
(句読点は俺)

『セラフィム 2億6661万3336の翼』冒頭より

もうこれだけで完結してもいいくらいかっこいい。冒頭一気に世界観を明かす方法というのは単純に読者の理解が進みやすいので割とベストなスタイルと言ってもよいのではないかと思うが、それだけに文章の格調というものも保たねばならないところがある。

199x年、地球のあちこちに核爆弾が落とされた。電気が止まって食べ物もなくなって人間がいっぱい殺し合った。

おれ

と書くよりも、

199x年、世界は核の炎に包まれた。おおよその文明活動は停止し、飢餓に苛まれた人は獣と化して殺し合い、あまたの死骸の堤を築いた。

おれ

と書く方が、分かりにくいかもしれないが格は保たれるように感じる。で、この押井節に溢れた冒頭文は作品世界が置かれた状況を端的に表すと同時に作品の格というものを大きく補完するものであるわけである。
これだけで読んでいる俺はぶち上がってしまった。これは私見だが、文明の衰退ではなく文明の退潮と表現することで滅亡に突き進む世界の閉塞感というやつを上手く表現できていると思う。
完璧である。
さらにさらに、そのあとにタイトル2億6661万3336の翼の意味が仄めかされる

「2億6661万3336の翼」というサブタイトルの数字は、熾天使の持つ6枚の翼に、宣教師からローマ教皇に報告されたとされる異教の神々の数、44,435556体を掛けたものである。またその数、44,435556は6,666の二乗(6666 squared)である。ちなみに6が3つ並ぶ「666」はキリスト教では『新約聖書 ヨハネ黙示録13章18節』において「獣の数字」とされ、映画『オーメン』では悪魔の子供を示すナンバーとして使われたが、本作の舞台となる中国では「6」自体が縁起の良い数字とされており「6」が多数並ぶと「六六大順(※順は異字体)」といわれ、「すごい!」といった賞賛や「逃げろ!」といった意味で、いつしかネットで多様されるようになった。

『セラフィム 2億6661万3336の翼』冒頭より

同時に、これはこの作品の行く末をそれとなく暗示しているように思われた。この話は雑にまとめると中国大陸を舞台に新約聖書を語りなおすというもので、順当に行けばイエス・キリストが死ぬところ(受難劇)までは描くはずである。イエスが人類の背負った罪業​──天使病を肩代わりし、病を根絶することで世界に調和を齎すことになるのだろう。だが上記の、西洋では不吉な概念が翻って東洋においては必ずしもそうではない、という東西間の逆転現象を踏まえて再考してみると、解釈の異なる結末を迎える可能性が浮かんでくる。
俺はそれにわくわくした。
というのも押井守は以前ぴあのインタビューで、
「新約聖書の受難劇を題材にした映画を撮ってみたい」
と言っていたからだ。
以下にインタビューを引用しよう。

で、一応言っておきますが、イエス・キリストはユダヤ教徒です。キリスト教徒じゃないの。そういうのは初期の原始キリスト教の話。キリスト教が誕生する以前の話に、私は興味がある。

── 受難劇を押井さんなりの解釈で映像化したいということですか?

押井 そうです。実はその裏にはものすごく政治的な要素がたくさんある。たとえば裏切者として知られるユダだって、実は革命党員だったという説もある。当時は熱心党というローマに対するユダヤ人の反乱組織が実際にあったからね。使徒の中にもこの党に入っている人間は何人かいたはずなんだよ。そもそもイエス自身、彼らにある種のシンパシーを感じていたのは間違いない。距離を置いたのは彼が武装闘争をしないからですよ。

── 押井さんがこのテーマを選んだ理由が見えてきました(笑)。

押井 受難劇の映画化は、人間ばかりを描いて時代背景を描いてない作品ばかりなの。当時のユダヤの政治風土がどうだったのかを描いた作品は1本もないと思うよ。そもそもキリストはローマに殺されたのか? それとも同じユダヤ人の司祭なのか。はたまた旧勢力が手を下したのか、その辺もまだ分かっていない。一般的にはローマが殺したことになっているけど、ローマがキリストを殺したことで何のメリットがあるのかというところに疑問を呈する人も多い。

だから、そういうところまで描いて、初めて面白い話になるんですよ、受難劇は。そうじゃないと、単にキリストがかわいそう、というだけの浪速節になっちゃうんだから!

ぴあより

この作品にはWHOによって大陸丸ごと閉鎖されて苦難を味わわされた恨みを持つ中国の俠者達がマリアとなる少女を利用して自分たちを迫害した西洋世界に復讐を目論むくだりがある。マリアの胎内にいる赤子は疫病神として西洋世界へと差し向けられ、かつて西洋からもたらされた屈辱をそっくりそのまま返そうとしているのだ。新約聖書に則れば、イエスは自らの命をもって人類が背負った罪業──天使病を根絶する結末に至ることは想像に難くないが、ここで先の6に関する引用を振り返るとそうもいかない気もする。先に6という数字は西洋では不吉だが東洋では縁起の良い数字として扱われていると引用したが、これは作中の東洋と西洋ではその価値が反転するということではないか。つまりマリアの胎の中にいるイエスは福音を齎す存在ではなく疫病神なのではないか(実際作中でもそのような言及がある)。
これらのことから、この話の結末はまだ見ぬイエス・キリストが受難することによって天使病を根絶するという、救いを齎す結末ではなく、天使病をより一層拡散させて世界を滅ぼすことになるのではないかと思えるのである。その過程で上記インタビューのように、イエスの取り巻きの弟子たちやWHOの尖兵達といった連中が政治的策謀を巡らせ、東西間で武力闘争を繰り広げるのだろうと俺は推測する。
このように冒頭だけでいろいろな要素があり、世界観はかなり考えられている。想像する余地もたくさんある。俺はこうした読者が考察したくなるような要素を散らばす衒学的スタイリッシュさに痺れてしまう。
さらに漫画を描いているのが「パプリカ」や「妄想代理人」を手掛けた今敏なので可読性は高い。今敏がよくやる場面転換で前の場面を重ねて継ぎ目を埋め、切り替えをスムーズにする手法(マッチカット)が存分に駆使されているので読みやすさは尋常じゃない。他の押井守作品にありがちな見ていてダレる感じも(漫画だからなのか)上手く消化されていて、実は押井守作品では一番真っ当なエンタメしているのではないかと思える。
惜しむらくは二人が仲違いして永久の未完が約束されてしまったことである。両雄並び立たずというのか、互いのエゴがぶつかり合って両方とも放り出してしまうという始末。これを見るに、自分ひとりでナウシカを完結させた宮崎駿は偉大だったと改めて思った(逆に一人だからこそ誰かと対立することなく完結させることが出来たとも言えるが)。
ちなみにWHOが権力を増大させた世界、と聞いて類似作品を思い浮かべた人がいるかもしれない。俺が思ったのは、伊藤計劃の「ハーモニー」である。厄災じみた奇病が世界を席巻し、医療団体が権力を握る構図が本当にそっくりである。そこを踏まえると、ハーモニーはセラフィムの流れを彼なりに考察した二次創作と言えるのかもしれない。とするとセラフィムの結末はハーモニーに類似したものになるのかしれない。
伊藤計劃はアマチュア時代から押井ファンだったようなのでおそらくこれも読んでいたのだろう。ハーモニーの元ネタの一部を知りたいという人はぜひ。

映画(アニメ)

・スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース

23年に観たアニメでは文句なしにこれがトップだ。
ストーリーといい、映像といい、これ以上のものは近年中々ない。エンタメとして100点満点である。
主人公マイルズ・モラレスが先輩スパイダーマンに「世界か家族か」と選択を迫られ、「うるせえ!」と大量のスパイダーマンをぶちのめして実家に逃げ帰る話と聞けばよくわからない映画である。ところがこれが滅法面白い。
三部作の二つ目と聞けば帝国の逆襲を例に挙げるまでもなく次回作への繋ぎとなる必然を持つわけだが、これも例に漏れず次回へ続くといって終わる。
三作目は今年公開なので楽しみ。スポット、闇落ちマイルズ、スパイダーバース、といった問題をどのように解決するのか大変気になる。次も次回に続くとか言われたらキレるかもしれない。

・君たちはどう生きるか

俺が今年映画館で観たのはスパイダーバースとこれの二つだったと思う。あったとしても多分つまらなくて印象に残ってないのだろう。
んで、じゃあこれが面白いかと聞かれると「?」しか出てこない。
思うにこの映画は宮崎駿に興味がある人しか楽しめないのではないか。彼の内面に興味がある人が楽しめる映画だ。俺は初見時に「老人の走馬灯か」と思ったし、今でもその感想は間違ってない……と思う。宮崎駿から商業作品を作る人間としてのプロ意識を奪ったらこんな映画が出来上がるのだろう。
んで、俺はあの人の内面には興味ないのでそういう意味では楽しめなかった。
今回の宮崎駿は観客に対して話を作ることを完全に放棄しているように見えた。多分本人もそれはわかっているのだろう。宣伝しないのが何よりの理由に思える。自分の完全なるエゴに観客を付き合わせないためにほぼ無宣伝を選択したとしか思えない。「宣伝しなくても俺の作品見たいと思うくらいの情熱がある人だけが来なさいな」と。
そんなわけで俺は、これまで世間に対して何らかの意志を叩きつけてきた老人が年をとって俗世への興味を失い、自身の人生最良の時を延々と愛で続ける映画として楽しんだ。

映画(実写)

・首

北野映画は結構観ている気がする。
個人的にはキッズリターンが好きで、あれが最高傑作だと思っている。過不足なくまとまっているからだ。それ以外だとブラザーだろうか。あまり凝ったりせず、シンプルでストレートなストーリーを描く方がこの人にはあっているように思う。
今回の首は要素がごた混ぜで、個々のパーツは好きだが全体としては散漫な印象を受けた。なので総合的にはあまりいい印象はないのだが、好きなシーンはそれなりにあった。
天丼家康のシーンとか草履の掛け合いとかもよかったが、個人的にはあの刀フェラのシーンが一番「おっ!」となった。信長が荒木村重に対して刀に刺した饅頭を食えといい、そのまま刀ごと口に突っ込んでずたずたにするシーンである。初見時はえぐいことするなあ、という感想だったのだが、今考えるとあれは口淫のメタファーだったのだなと気づいた。
ずいぶん前に黒澤明と北野武の対談で北野は「水戸黄門なんざ印籠がなけりゃただのジジイなんだから、うっかり失くしていざという時に印籠を出せずに切られたら面白い」というようなことを言っており、そうしたテンプレ的なストーリーに捻りを加えるアイデアを持っていたことが伺える。俺が関心したのはそうしたアイデアが時を経てここでこういう形で実現したことにある。
この刀フェラは、北野武がこれまで極めてきた暴力描写、信長が荒木村重に刀の切っ先に刺した饅頭食わせたという伝説(テンプレ)を捻ったギャグアイデア(パロディ)、本作のテーマの一つである武士の衆道におけるドロドロ感等々が一つにまとまった大変いいシーンになっている。なによりガンフェラはみたことがあったものの、刀フェラなんぞ聞いたこともない。知っている方がいたら参考までに教えてほしい。

・ゴジラ −1.0

よく漫画なんかで「俺が間違っているのか、それとも世界が」というシチュエーションがある。
この映画を観終えた俺の置かれた状況がまさにそうだった。世間は絶賛一色、違うのは俺だけ。まあ結論から言うと俺が間違っていたのだが。
そもそもね、この映画に何か期待してはいけなかったのだ。以前note上に拙い文でマイゴジに対するバチギレ文を投稿したのだが、振り返るとそうしたこと自体が愚かしかったように感じる。
だがそれでもこれだけは言わせてもらいたい。
俺はこの映画が嫌いだし、みんなにも嫌いになってほしい。

・ザ・クリエイター/創造者

予告編を見た段階では観に行く予定は全くなかった。手垢つきまくりなルックに散々擦られたオリエンタリズムのアートスタイルと、既視感をこれ以上ないくらい感じさせる素晴らしい世界観に俺は完全に食傷していた。
だが監督がギャレス・エドワーズだったのでこれは観に行かねばなるまいと思ったのだった。この人が監督したレジェゴジ一作目のクールなゴジラが記憶に残っていたのもある。
んで、観に行って思ったのが、これはギャレスのやりたいことを詰め込んだ映画だった。近未来オリエントを舞台にベトナム戦争をやりたかったに違いない(実際舞台となるニューアジアはタイやカンボジア、ベトナムを参考にしたようだ)。地獄の黙示録meetsスターウォーズをやりたかったのだろう。東南アジアにこてこての近未来世界を顕現させたい、さらに彼が愛してやまないモンスターとしてのロボットと人間が共生する世界を描きたい、そうしたオリエンタリズムを感じたのだった。実際俺はこうした東南アジアに近未来世界が出現するといったルックを見たことがなく、それだけでも観に行ってよかったと思う。少なくともこの規模の商業映画ではああしたルックを見たことがない。
また、公開後にAIへの扱いやテーマが古すぎる、という感想を見かけたが、正直これは的外れに感じた。俺に言わせれば、これは近未来を舞台にしたスターウォーズであり(実際ギャレスはローグワンも監督している)、AIを搭載したロボット達はそれこそファンタジーでいうエルフやオークといったレベルの、機械という「属性」を付与された存在に過ぎないのだ。スターウォーズを見てR2‐D2やC‐3POといったAIの描写が現代的でないと批判する人がいないように、この映画もはなからそうした問題を扱う気はないのである。
スターウォーズでは奇妙なエイリアンと人間が平然と共生しているが、ギャレスはそうした風景を近未来オリエントにぶち込み、それを蹂躙しに来るオクシデントの連中と戦うといった構図をやりたかったのだろう。

・SISU 不死身の男

23年に観た実写映画ではこれが最高に面白かった。シンプルなストーリー、かっこいい絵面、そして斬新なアイデア。とても綺麗にまとまっている。
フィンランド最強のジジイ(Hell神鬼ヘルシンキ)が不良ナチス兵士をボコボコにして盗まれた金塊を奪回する、と聞けばこれ以上ないくらいシンプルな話だと分かるだろう。
近年の作品はヒーロー映画ですら悪人をぶちのめして終わり、とはいかない風潮がある。悪役の背景は丁寧に深堀され、動機は理解できるがやり方は気に食わんからぶちのめす、といった一連の流れを踏まねばならない。
だがこの映画は違う。敵はどう言いつくろっても擁護しようのない(とされている)ナチスであり、敵の背景は軽く語られるがそれはあくまでも主人公と対立する動機でしかなく、同情を誘う要素は徹底して排除される(なんせいたいけな犬にダイナマイト括りつけて主人公に突っ込ませたりしている)。
そうしたシンプルさに回帰したストーリーはトップガンだったりRRRといった傑作にも現れているが、これがそれらと一線を画すのはその上映時間の短さにある。セリフは極端に少なく、登場人物は必要以上に口を開くことはない。ほとんどがジェスチャーで成立している。個人的にこのスタイルは好みで、説明口調のセリフを聞くと没入感をそがれてしまう俺にとっては理想的なセリフ配分である。無駄にセリフで説明するマイゴジに絶望した俺にとって天啓ですらあった。
このSISUが、USA!を全面的に押し出すトップガンや背脂マシマシこってり豚骨ラーメンみたいなRRRに比べるとはるかにあっさりな作風であるにもかかわらず、それでもこの映画が成立してしまうのは両者に負け劣らぬ歴史的背景を有しているからだろう。
RRRがイギリス植民地時代を下敷きにしたように、冬戦争、継続戦争、ラップランド戦争、といったフィンランドの悲惨極まりない戦争を背景に物語を紡ぐことで作品にリアリティと背景情報の厚みを持たせているのだ。そうしたことを下敷きにすることで登場人物の置かれた苦境というものにより一層感情移入できる。だからこそナチスを鏖殺することにも説得力が生まれるし、よくアメリカ映画で軽率に扱われるくだらねーナチス像ともかけ離れた生々しさを感じられるのである。
この映画に出てくるナチスどもはこてこての悪役だが、それは単純な取材不足や想像力の欠如からくるキャラ造形ではなく、上記の背景情報を踏まえた上であえてエンタメに徹するためにここら辺を落としどころにしたように感じる。マイゴジに学んでほしい姿勢である。
単純なエンタメで語るなら、主人公のアアタミ爺さんのひどく独創的な殺し方に注目してほしい。この作品は他じゃ中々お目にかかれない斬新な殺害方法が特徴的で、身の回りにあるすべてを武器に七転八倒ながらも快刀乱麻の大活躍見せるアアタミ爺さんはかなり魅力的である。監督がランボーを参考にしたとのことで、ああした不死身マインドを持つタフガイぶりが画面に炸裂しているのがたまらない。地雷をあんな使い方する奴は初めて見た。
ネタバレできないのが歯がゆいが、見て損はないし、仮に損したと感じても上映時間は短いので微々たるものである。
正直観に行った人が少ないように感じたので、マイゴジなんぞ観ずにこっちを配信でもいいから観てほしい。
俺が観た2023年の実写映画の中では最高である。

ゲーム

・starfield

普段から俺はnoteで批判的な物言いをしないように心がけている(ゴジラ以外)。したり顔で短所だと指摘したものが、実は単なる理解不足による勘違いであったりしたら慚死してしまうからだ。故に好ましくないと感じたものでも極力コメントしないことを原則として来たわけだが、このゲームに関してはアーリーアクセス権まで購入したため、文句を言う権利は十分にあると思う。
このゲームを端的に表すとしたら、「無味無臭の馬糞」といったところだろうか。
俺は同じベセスダのFallout4をプレイしてそのあまりの神ゲーぶりに感銘を受け、このスターフィールドにものすごく期待していた。発売前はスターフィールド関連のコミュニティに潜り込んで楽しく語らい、来る発売日を心待ちにしていた記憶がある。俺は特にあの円状のタイトルロゴが好きで、舞台となる「スターフィールド」世界を簡潔に表した良デザインであると熱弁していた。
しかしどのコミュニティにも冷静な人はいるもので、「宣伝文句にあるような星が千個あるというのはいくらなんでも多すぎる。このことから今回のゲームは多分に誇大広告を孕んでいると考えられるからして、あんまり期待してると肩透かしを食う」というコメントを見かけたりもした。だが俺はMSがベセスダを買収したこともあって下手なゲームは出してこないだろうと考えていた。
そしてベセスダがお出ししてきたのがこれである。
スカスカマップ、クソダルい手順を踏まねばならないファストトラベル、お使いばかりのサブクエスト、RPGとしての体裁にこだわるばかりに多重にスキルに制限を掛け、結果として自由度を著しく欠いたゲーム性等々と、欠点を上げればキリがない。
地上と宇宙の往来がシームレスでないというのは発売前から明言されていたためにそこは100歩譲るとしても、あたかもフィールドが広大であるかのようなプロモーションを重ねておきながら実際はロード挟みまくりなゲーム性はもはやオープンワールドゲームではなくオープンワールド(風)ゲームと呼称する方が適切である。
地表マップ開く→惑星マップ開く→星系マップ開く→銀河マップ開く→行きたい星系マップ開く→惑星マップ開く→進路設定してロード→惑星上空に移動(場合によってはスキャン待ち)→行きたい地上エリア選択→ロード→着陸ムービー→X長押しで船外移動→ロード→目的地到着。これのどこがオープンワールドなのか。宇宙飛行、星間航行といった字面から受けるワクワク感の全てを廃したこの移動手段は退屈を通り越して怒りすら覚える。
これで思い出したのが小島秀夫のデスファッキンストランディング。あのゲームもひたすら退屈な移動ゲームだった。ゲーム以外の視点で見ればこれ以上ないほど面白いゲームなのだが、肝心のゲーム部分が一番つまらないという悲しい存在だった。開発者本人は新しいことをやっているつもりでも、実際はみんな考えていたけどつまらないから実現しなかったことを嬉々としてやってしまったのである。オープンワールドにおける移動は退屈だから逆に移動をメインに据えようという、本人にとっては逆転の発想でもプレイヤーとしては退屈なゲーム性を獲得してしまったのだった。だがそれでも一定の売り上げを出せたのは、デスストが小島秀夫ブランドを背負っていたからだ。ヴィトンやグッチのバッグがブランド価値によって相応以上の評価と値段を獲得できるように、デスストも小島秀夫ブランドを背負うことによってその欠点を看過されてきたのである。
だがスターフィールドからは既にそのようなブランド価値は失われていた。76の炎上騒動でベセスダの信用度合いは底をついており、もうベセスダはつまらないゲームしか作れないというイメージが定着してしまっていた。独立後1作目という言い訳が効くデスストとは何もかも状況が違うのである。ゆえに炎上することとなった。
その後の対応もまずかった。ベセスダが取るべき対応はこのような馬糞を世に送り出してしまったことを誠実に謝罪し、今後のアップデートによる改善を約束することだった。しかしベセスダは対応を過った。
低評価レビューに対してカスタマーサポートが反論……とまではいかないものの、レビュワーの遊び方が不適切だと指摘し出したのである。
だがここにおいて不適切なのはこのゲームとカスタマーサポートの対応の方である。ゲームとはインタラクティブなものではあるが、まず面白い遊び方を指南するレールを敷くのは開発者側である。この対応は自分でつまらないゲームのレールを敷いておきながらプレイヤーに「なぜそっちの方向に進むんだい???」と言うようなものだ。「お前が言うな!」と返したい。あまりにも不誠実な態度である。
また、ベセスダ製ゲームの特徴としてMODによる拡張が挙げられるが、今回の虚無的なフィールドや謎の周回要素、ゲーム体験はMODありきで作られているように感じた。よくべセゲーはMODゲーと冗談半分に語られるが、それはあくまで元々の土台が面白いものをMODにより自分好みにカスタマイズするためであり、馬糞を味付けするためのものではない。MODとは足りないものをちょっと足すという、あくまで1を3や10に増やすというものでしかなく、0を1にするのは開発者側の仕事である。例えばfallout4には近接戦闘の有効射程を大幅に伸長させる、縮地戦法とでも言うべきBlitzというパークがある。これを獲得することで近接射程が20メートルほど伸び、戦闘の幅が広がって楽しかった記憶がある。なので俺はこのBlitzの移動距離制限を解除するMODを導入し、数百メートル先の敵をズタズタになぎ倒す爽快戦法を楽しんだ。
これこそMODの正しい使い方である。元々面白いものをさらに自分好みにカスタマイズすることがMODの醍醐味なのだ。決して馬糞を味付けすることではない。
そしてスターフィールドは0があまりにも多すぎた。
FO4にはMODを300個以上入れた俺だが、これに関してはDLSSMODとジャンク(売る以外に使い道がない&売っても大して金にならない)を拾えないようにするMODの2つしか入れていない。なぜなら大元となるゲームの土台が腐っていたからである。
と、ここまで批判を重ねてきたが、実のところ俺は今回のやらかしを見逃してやってもいいと思っている。が、俺がどうしても許せないのは、これ以降に発売されるであろうFO新作がこのような低品質で提供されることである。スターフィールドのような新規IPがコケるのはそこまで気にならない(アーリーアクセス権買ったけど)。何事にも初めてというものはあり、初めてのことに失敗はつきものであるゆえに許す気にならんでもない(アーリーアクセス権買ったけど)。だが俺が期待しているFO新作がこのような不誠実なゲームとなるのは耐えられない。
なので是非とも今回の件を反省し、素晴らしいゲームを出してほしいものである。TESとか作らんでいいから。
思えば発売数日前から雲行きが怪しいのを感じてはいた。当時ゲーム情報サイトのAUTOMATONがタイトル画面に関する記事を載せていたのだ。
この記事を要約するなら「タイトル画面を手抜きするゲームはその品質が危ぶまれる」という感じだろうか。ゲームの発売前に、とあるゲーム開発者がSNSに公開されたタイトル画面の出来からスターフィールドの品質に疑問を呈し、それがベセスダ重役の耳にまで入って論争を巻き起こしたという内容だ。
当時これを読んだ俺は「何言ってんだ」と眉をひそめたが、今となってはこの人の慧眼に感服せざるを得ない。このゲームの低品質を示す予兆は十分存在していたのであった。
以上のことから、今後AAAを自称するゲームの購入を検討する時は様子見することを心掛けようと強く思ったのだった。

・Wolfensteinシリーズ

単純にトレーラーを観て買った。あきれるくらい単純なナチスバスターゲームである。

結論から言うと、あの動画にあったような世界観はあまり感じられなかった。ナチの制服を着たビートルズ(みたいなバンド)の曲が出てきたりと、そうした細かい部分は良きだが、いかんせん戦争が終わってから十年以上経っている設定なので、フランスに毒ガスを撒いて倒れ伏す民間人を射殺するといった面白いジェノサイドの風景が見れなかったのが残念だった。
ただ主人公のブラスコヴィッチが面白く、実質このゲームの魅力の9割を支えているのではないかと思う。日本語版で声を当てている中田譲治が上手いのか分からんが、ごつい筋肉質な見た目とは裏腹にいささか内省的なモノローグが何やら詞的な響きを感じせた。こうしたポエミーな喋りは、こだわりがない人にとってはどうでもいい部分かもしれんが、個人的にはこのバカゲーにシリアスな重さを持つ「悲壮感」というものを付与するのに一役買っていると思う。これが戦いの時に「レッツ・ロックンロール!」とか叫ぶバカマッチョだったなら大分評価は下がっていただろう。
また、このゲームにストーリー性を求めてはいけない。とてもとてもバカなゲームだ。なんと言っても12年間寝たきりだったにもかかわらず、主人公はナチス兵士の姿を見た瞬間にバッと起き上がり、瞬く間にその場のナチス兵数十人を葬ってしまう。どれだけナチスが憎いんだ、という感じである。もちろんここら辺はちゃんと主人公が憎しみを抱く理由は描かれているので納得感はあるが(それでもすげーバカゲーですが)。そうした不条理な部分に対する反省があったのか、次回作では僅か5ヶ月寝たきりだっただけで車椅子に乗ってたりしている。今作ラストで大けがしたからというのもあるのだろうが、前回が12年だっただけに逆に不条理感が際立ってしまってて笑えてしまう。
ゲーム部分で語ると、名作シングルTPS「バイオハザード4」タイプのシングルゲームといった感じだ。ひたすら敵を撃つだけの退屈な「METRO 2033」よりは楽しいと思えた。
ミッションやステージごとにそれなりにプレイヤーを飽きさせない工夫が凝らされているが、しかしバイオハザードのような往年の名作と張り合うにはいささか分が悪い出来だ。そうした「プレイヤーを飽きさせない仕組み」を見せられても「なんだなんだ⁈」というよりはミッションの本筋を中断されたことに対するウンザリ感の方が強い。とってつけたようなトラブルに「めんどくせえ」の感情を抱かせてしまうのはゲームとしてはマイナスポイントだろう。
またトレーラーを見るに、二丁ライフルで敵を爽快撃滅するアクションといった印象を受けるが、その分リロードが遅くなるといった世知辛いリアルさが爽快感を見事に拭い去っている。これならリロードも多彩でアクロバティックな感じにして、タイミングよくボタンを押すと気持ちの良いSEが鳴ったりすればテトリスみたいな爽快感を持たせられたかもしれんのに、と思うのでした。
なので自分は難易度ベリーイージー(あのブラスコヴィッチが赤ちゃんコスプレしてベリーイージーを選択するような軟弱プレイヤーを煽ってくるやつ)でプレイして、サプレッサーをつけた拳銃を使うなんちゃってスニーキングゲームとして楽しんでいた。敵をサプレッサーで一定数倒すとサイレントキル時のダメージが格段に向上する拳銃スキルを獲得でき、それを活かして物陰からズドンと葬ってやる。個人的にはこうしたプレイが一番楽しめる。このゲームのNPCは壊滅的に視力が悪いので、味方の死体が目の前で倒れていても無反応だ(ベリーイージーだからかもしれん)。個人的にはメタルギアのようにいちいち死体管理するのは面倒くさいのでこうしたつくりはありがたかった(ただ上級者にはぬる過ぎたのか次回作では死体発見時に警戒態勢をとったりと、自分の感じた良さというものが消えていたが)。
あと言及するとしたら投げナイフか。個人的にはゲームはリアリティよりも「こなしたタスクの難易度に比例した報酬が得られる」ことを期待しているので、投げナイフ一本で重装備の敵が死ぬことに不満はなかった。これでもし必死こいて弾道計算した末に命中したナイフが大した役に立たなかったら、それこそこのゲームは最低評価ものである(開発者もそうしたことに疑問を感じていたのか、次回作では投げナイフならぬ投げアックスに変更されていた)。
まあ悪くはないがよくもないゲームである。中田譲治の声を聴くためにプレイしたようなもんだ。

積んでるものたち(これから消化したいと思っているもの)

・ハイペリオン(小説)

この小説、誰がどうコメントしても好評しか出てこない異常な作品であり、それだけに大変気になっている。バールさんや伊藤計劃がべた褒めするくらいだからさぞ面白いのだろう。

・ペニス(小説)

津原泰水。二年前に亡くなってしまったが作品はこの世に残る。
この人の小説はバレエ・メカニックしか読んだことはないが、正直小説技巧は天下一品である。何でもかんでも丁寧に説明してくれる貴志祐介とは対照的に、この人はわけがわからないまま読み進めていう内にに気づいたらストーリーの全貌が把握できてしまうというとんでもない技巧を持っており、本好きなら一回読んでほしいレベル。まだあらすじも読んでいないが期待している(ちなみに数ある津原作品の中からなぜこれを選んだかというと単純にタイトルである。タイトルは大事ね)。

・虚構船団(小説)

筒井康隆は「笑うな」しか読んだことがないが、貴志祐介がおすすめしていたので読む。ざっとめくった感じ改行が少なすぎるような気がするが、この人にそうした「まともさ」を求めるのは違うと思うので特に言うことはない。けど結構期待はしている。

・マルドゥックスクランブル(小説)

これもバールさんがおすすめしていたので。

・鋼鉄紅女(小説)

英国産ロボットもの。期待は大きい。

・猫の地球儀(小説)

秋山瑞人は正直DBくらいしか期待していないのだが、あれの三巻が刊行されるまでの繋ぎとして買った。

・深海のYrr(小説)

ドイツでダヴィンチ・コードをぶち抜いた海洋SF。上巻を七割ほど読んだが今はまだ世界中で起こっているトラブルの詳細を描いている段階で、これから事態の全体像が輪郭を結んでくるものと思われる。解決編は大分先になりそうだが、浅学な俺にも理解できるように書いてくれているので先行きに不安はない。ちなみに現在Huluでドラマもやっているそうな。

・USJシリーズ(小説)

一作目のUSJは読んだが残りを読んでなかったのでこの間池袋のジュンク堂で二冊とも買った。期待している。

・フロムヘル(漫画)

ご存じアランムーア。今は4章を読み終わったところ。相変わらずのムーア節で描かれており、大変読みごたえがある。

・初代FOシリーズ(ゲーム)

セールをやっていたので買った。ちょっと触ったが、レトロゲームにありがちな説明書なしのゲームといった感じである。シームレス戦闘に慣れないので戸惑うことも多いが、ネットで説明書をあさってプレイしていこうと思う。


ふー、やっと書き終わった。
後半に行くにつれて雑な書き方になってしまった。
2023年はこんな感じであった。24年の逆噴射に向けて準備していこうと思う。

つづく

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