【ショートショート】裏切りの代償
舞い落ちる雪がうっすらとフロントガラスに積もっていく。それをワイパーが左右に払いのけ、そしてまた積もる。払いのけては積もるの繰り返し。
運転席でその様子をぼんやり眺めながらマキコを待つうちに、私は三年前のことを思い出していた。
あの日もこんな天気だった。昼ごろから降り始めた雪が厚く積もり、ノーマルタイヤでは走れない状況になっていた。数時間後に当時付き合っていた彼女を迎えに行く約束をしていたが、あいにくそのときの私は冬用タイヤもチェーンも持っていなかった。どうしたものかと迷っているところに、偶然マキコが通りかかった。彼女は私が講師を勤める陶芸教室の生徒だ。その開催場所の公民館の駐車場だった。
どうしたんですか?と言って近寄る彼女に事情を説明した。するとマキコはこう提案をしてきた。
「少し様子を見ればどうですか?もしかしたら天気が回復するかもしれないし」
彼女のマンションは公民館から程近いところにあった。車をここに置いて家に来れば暖かいコーヒーでも淹れますよ、とも言ってくれた。私はその申し出をありがたく受け入れることにした。
部屋に入るとマキコは何かと私に身体を摺り寄せてきた。教室での日ごろの言動から、彼女が私に好意を抱いていることはうすうす気づいていた。だがマキコは私の彼女と親友関係にあることが分かっていたので、それはあえて無視するようにしていた。
ところが二人きりの状況でそうされると、私の理性は敢え無く崩れ落ちた。コーヒーに入れられていたブランデーがそうさせたのかもしれない。私とマキコは男女の関係になったのだ。
ベッドの中で、マキコは私に言った。
「この後、ヨウコとご飯食べに行くんでしょ?」
それは私の彼女の名だ。時計を見ればもう約束の時間だった。気まずい思いで頷くと、
「キャンセルすれば?だってもう無理でしょ」
確かに。時間的にも物理的にも彼女を迎えに行くことは難しそうだ。それに、彼女の親友と寝てしまったのだから、合わせる顔もない。
とりあえず理由は告げず、ヨウコにキャンセルの電話を入れた。すぐに彼女からマキコに連絡が入った。私の代わりに食事に行かないかと言う誘いだった。当然マキコはそれを断った。
電話を置いたマキコが淫靡な眼差しを私に向ける。二人してヨウコを裏切ったと言う背徳感が私たちを燃え上がらせた。
私には妻も子供もいた。隣県に居宅を構え、そこに併設した工房で飲食店などから依頼を受けて器を作るプロの陶芸家だ。講師の仕事は副業のようなものだ。それはヨウコもマキコも知っているはずだ。
妻には今日は遅くなると告げてあった。もちろんそれはヨウコと食事をするための嘘だった。だが今はその親友とベッドを共にしている。二人でぼんやり見るテレビでは、幹線道路で雪による立ち往生が発生したとのニュースが流れていた。
「泊まっていけば?」
マキコの言葉に私は素直に応じた。妻にはこの天気なのでホテルに泊まると連絡を入れた。別段疑われている様子もなかったことに内心胸を撫で下ろした。
そのままうとうとし、深夜過ぎにマキコの声で目が覚めた。電話で話しているようだがどこか切羽詰った感じだった。話し終えるのを待って「なにかあったの?」と声をかけると、驚くべき答えが返ってきた。
「演技よ、演技。ヨウコに電話していたの。あなたが事故で死んじゃったってことにしておいたから」
「は?どうしてそんなことを」
「だって、今後私たちが付き合っていくにはそのほうが楽でしょ。ヨウコも諦めがつくだろうし」
なんだかマキコの思うままにことが運ばれているような気がしたが、そのときはそれに乗るしかなかった。やっぱり生きていましたなどとヨウコに連絡を入れるわけにもいかない。そんなことをすれば私とマキコの関係を勘繰られ、修羅場に発展する可能性だってあるのだ。いっそ私を死んだままにしたほうが、ヨウコは悲しむだろうが大きな問題は起こらないように思えた。
翌日からマキコは様々な言葉を並べたててその嘘をヨウコに信じ込ませたようだ。それを裏付けるために、私は陶芸教室の講師を辞めざるを得なかった。
いきなり助手席のドアが開き、マキコが慌ただしく乗り込んできたかと思うと、
「早く。車を出して」
妄想から我に返った私は言われるままに車を走らせる。どういうことかと思い隣に視線を送れば、彼女はしきりに後方を気にしていた。
「なに。どうしたの?」
そわそわした様子でマキコはちらりとこちらを見ると、
「電柱の陰に、ヨウコがいたのよ」
「は?」と言ってルームミラーを確認する。そこに映った小さな姿。顔は分からないが、言われてみればそのような気がする。
「どうして?来るって約束してたのか?」
「してないわよ」
「じゃあ、ばれていたのか?」
「ばれてないはずだけど、今ので多分ばれた」
「見られたってことか?」
「そうね」
それきりしばらく車内が静まり返った。
「どうしよう」
苛立つようにマキコが口を開く。
「あの子、わりと根に持つタイプなのよね。ちょっと陰湿なところもあるし。刺されるかも」
「そこまでいかなくても、まあ少なくとも親友関係は破綻だな」
「何よ。他人事みたいに。あなたにだって影響あるでしょ。家に乗り込んでくるかもよ」
「それは大丈夫だ。ヨウコは私の家を知らないし」
「私は知ってるわよ」
「え?教えたっけ?」
「これ見ればわかるわよ」
彼女の視線はダッシュボードのナビに向けられていた。そう言えば、彼女を一人車に残したことが何度かあった。そのとき見たのだろう。
「どうしようかな……。追い詰められたら私、ヨウコに教えちゃうかもよ」
「やめてくれ」
「いっそのこと、どうすればいいか奥さんに相談してみようか?」
思わず助手席に顔を振り向けた。彼女が危ないと言って指差す。前の車のブレーキランプが点いていた。慌ててブレーキを踏み、それからすぐ横にあったコンビニの駐車場に乗り入れサイドブレーキを引いた。
ため息をつきながらマキコの顔を睨みつけると、彼女はいたずらっぽく笑う。
「冗談よ、冗談」
「勘弁してくれ」
「でもね、ヨウコのことはどうにかしなきゃいけないと思うの」
「どうにかって?」
「殺すしかないでしょ」
また冗談かと思ったが、私を見つめる瞳の奥に一瞬殺意が垣間見えた。
「おいおい。極論過ぎないか?」
「そうかしら?考えてもみてよ。現状一番問題なのはヨウコなの。あの子がいなければ丸くおさまるわけじゃない?」
「まあ、そうだな」
「だったら消えてもらうのが一番でしょ?」
「だからって、殺すと言うのは……ちょっと……な」
「私が奥さんに相談するなんてのは冗談だけど、あの子はそれじゃすまないかもよ。私が教えなくたって、住所を調べ上げて家まで来る可能性だってあるんだから。そうしたら、なにもかも奥さんにばれるのよ?いいの?それでも」
そのとおりだ。マキコがナビから私の住所を知ったのだから、ヨウコが同じことをしていてもおかしくはないし、私の車を知っているのだからそのナンバーから住所を割り出すことだってできるはずだ。個人情報の管理が厳しくなったとは言え、やる気があればいずれ突き止めることはできるだろう。そうなるとやはり、殺すしか手がないのか……?
煩悶する俺の耳元で、マキコが囁きかける。
「ね。あの子を殺すのが一番手っ取り早いのよ。だから、お願い」
またしても、マキコの思うままにことが運びそうだ。
果物ナイフで左手首を切り、それを浴槽にためたお湯の中につけた。流れ出る血液が見る見るお湯を赤く染めていく。果物ナイフは一度右手に握らせてから床に転がした。カランと浴室に金属音が響く。それでも彼女が目覚める様子はない。
リビングに戻るとテーブルの上には数本のワインの空き瓶とグラスがふたつ。そのうちのひとつをシンクで洗い、きれいに水気をふき取って棚に戻した。
バッグから空になった睡眠薬の包みを取り出し、空き瓶の横に無造作に置いた。彼女のスマホには先ほど私が打ち込んだ遺書が残されている。これでおそらく自殺と判断されるはずだ。
手袋をせずに触れた部分はしっかり記憶に留めていた。そこを丁寧にふき取ってから部屋を出る。
誰に見られることもなくアパートに戻った。
「お帰りなさい。どうだった?」
「うん。大丈夫。計画通りだ」
よかったと言って、ヨウコは私に抱きついてきた。
本当によかった。彼女とよりを戻せて。マキコには申し訳なかったが、こうすることが私にとっての最善策だったのだ。
そもそもヨウコと別れることになったのはマキコのせいなのだ。おまけに私が死んだなどという嘘までついた。それがばれそうになると今度はヨウコを殺せと言う。
これ以上彼女の言いなりになるわけにはいかなかった。流れでマキコと付き合うようになっていたが、心の中にはいつもヨウコがいた。私は誰よりもヨウコを愛していたのだ。
事情を話せばヨウコは全て赦してくれた。それからマキコを殺す計画をたてた。彼女さえいなければ、何も問題は起こらなかったのだから。
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