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「蜜月トロイカ」

鞭もつ手で涙を 馭者はおしかくし
これでは世も末だと 悲しくつぶやく

 どうして、来てしまったんだろう。
 好きでもない男とのデートは、決まって苦痛なもので、まして、憎い相手ならいっそう、疎ましいというのに。
 この先に起こる、茶番の数々を予見して、漏出した緩い溜息は解けて、夏の一部になった。
 俗説的に溜息を吐くと、幸せが逃げてしまうらしい。けれど私のヘモグロビン、或いはタールで塗れた肺の中に、そんな摩訶不思議が宿っているなら、もっと妙々に暮らしている筈だ。
 
 真夏の太陽は、明瞭な熱を伴って、柔肌を刺すので、私は手近な木陰へと、水が排水口へ吸われる速度で向かう。メタリックな、幹を取り囲んで備えられた椅子は、体温少しだけひんやりとさせる。
 ケープの効能で、まだ今朝の造形を保った前髪をかき分けて、人の目が向いていない事を確認してから、充電式のファンを取り出し、風を胸元から注ぎ入れる。今日は、どうにも湿っぽくて、シースルーブラウスの隙間から、気化熱が滞った。袖口がはたはた、生気のない魚みたいに揺れた。
 唐突に、斜め左後ろから油蝉が鳴き始め、70dBの音圧がトラックみたいに突っ込んで来て、それが、暑さで空っぽな頭蓋骨で反響する。私は軽い脳震盪みたいに、ぐわんぐわん、何も考えられなって、熱中症に近いだろうけれど、それがどうでもいいくらい、気怠くなった。
 例年より気温が高いのに、ジリジリと、責め立てるような、勇ましい求愛に勤しむ彼らへと、半ば尊敬の念を抱える。
「お姉さん今なにしてるの?」
「えっ」
 想定外に近距離から他人の声がして、反射的に顔を上げると、隣に座っていた十代後半くらいの女性が、マスクをしていない男性にじっとりと詰め寄られていた。
「誰か待ってる?それなら俺と遊んだ方が楽しませられる自信あるけど、行こうよ」
「んあ、いや、結構です」
 女性は栗色のセミロングを使って、顔をさらと隠して、或いは相手と、目を合わせないようにして、親指でスマホのロックをかけると、小走りで逃げていった。
 男性は咄嗟に、反射的に、数歩だけ追いかけて、私にしか聞こえないくらい、小さな音量で舌打ちをした。
 なんだか、きっと暑さが、夏がいけない。生き物たちは、自身の生命の危機を直感して、そのために、少しでも子孫を残そうという、そういう魂胆に違いない。
 途端に蝉がキキッと鳴いて、何処かへ飛んで行った。同時に尿を撒き散らしたらしく、男性は「冷たっ」と言って跳ねた。もしこの場に、命のバトンの受け渡しなんて、尊いものがあるなら、テークオーバーゾーンを通行止めにしたい。

 スマホの、消音カメラを起動して、男性の腰の少し上が収まる範囲で、シャッターを切った。ぼんやり、この瞬間を保存、ないしは格納したいと思った。男性の顔を避けたのは、プライバシに配慮して、というのは建前で、スマホの角度から、男性がレンズに気付くとトラブルの元だからだ。
 私を見つけ倦ねているLINEの相手に、たった今撮った画像を送る。「ここにいます」と添えた。既読は直ぐに付いた。もうとっくに着いていて、ずっと探しているのだろう。
 往来は相変わらず多い。待ち合わせのランドマークとして使い古された忠犬の、半径百メートルは、昼夜問わず、賑わっていて、本当は避けた方が合流し易いのに、なんとなく、慣例として選んでしまう。
 東京で生まれ育った人間は、ここから外れた場所を指定するらしい。けれど生憎私は、海と年寄りが構成要素八割の、味気ない田舎出身だった。
 喧騒の中に、遠くで、カラフルな髪の毛たちが寄せ合って一つの星雲になる。全ての情報が銀河のように渦巻いて、うんざりするほど主張を繰り返す。暑さと、蝉と男と若者が、針の雨みたいに、私の身体に降り掛かる気がした。もう、顔を上げるのさえ面倒だった。

 卦体なデートは、偶然インスタで男を見つけたことに始まる。男の投稿へいいねを付けた、そうしたらフォローされた。それをフォローバックして二分後、DMが届いた。
「フォローありがと!アイコン可愛いね!本人?」
 この手の人はマニュアルでもあるのか、必ず本人確認をやってくる。それも自己申告の、形骸的な取り交わしだった。
 あの日から三年間も、この男にどうやって近付こうかと悩んでいたのに、いざとなれば呆気ない。あまりに単純な、そういえば、つまらない男だった。
「可愛いだなんて照れます笑笑、ほんにんです!」
 自嘲を込めた漢字を、苦虫を噛み潰したような顔で二つ並べた。

 相手の名前はかずき。阿莉花はかず君と呼んでいた。その名前を聞く度、私は滔々と胸中を苛まれていた。
 男はサッカーか野球か、屋外の部活に入っていた気がする。学校の休みは定期的に、練習試合があって、それを電車で阿莉花に付き添って、よく観に行った。
 スポーツにも、阿莉花の彼氏にも興味は無かった。ただ選手達のプレイを観なくても、阿莉花が柔らかい髪を飛び跳ねさせ、叫声を放つので、戦況はなんとなく分かった。いつも私はそんな彼女を、日傘に収める事だけ考えていた。

 男は、阿莉花の初めてできた恋人だった。

「野中さん?」
 はっと顔を上げると、男が立っていた。
「待たせてすいません、なかなか見つけらんなくて」
 男は頭を、鳩が歩くみたいに前後させながら、私の目を見て謝罪した。
「いえ此方こそ、座っているだけですみません」
 言いながらすっと、立ち上がると、私の目の高さに男の顎がきた。朦朧とする暑さ、低血圧で、重心がぐらついた。
 写真からは分からなかったけれど、想像より身長が高い。男の首元から、ずんとウッディノートが強く香った。
「はじめまして、かずっていいます、よろしく」
 男は私を真っ直ぐ向き、視線を逸らさないようにして、また頭を前後に動かして挨拶した。
 アイボリーのシャツに、黒いレザージャケットを羽織っている。シルバーのピアスが光る耳に届かない長さの金髪は、根元の黒さが際立っていた。
「野中です、よろしくお願いします」
 私は瞳の奥にある敵意が漏れてしまわないよう、細心の注意を払って、笑みとして、執拗に目を細めた。

「野中ちゃん渋谷よく来んの?俺昼の渋谷って新鮮」
「夜よく来るんですか?」
「そうだね、この辺の遊び場は制覇した感じ、ライブハウスとか結構あるよ」
「そうなんですね」
「ほらあそことか、Scale tonesって知ってる?俺あのバンドのギターと友達でさ」
「すごいですね」
 男が歩きながら何かを発して、私が反射みたいに何かを発して、そのあまりに無意味な、音の掛け合いは、ドン・キホーテの呼び込みくんと、車の走行音に飲み込まれていった。
 私は男の眉間を眺めながら、本題に入る術を逡巡していた。
「ほら、着いたよ」
 そう言われて立ち止まると、目の前には漫画喫茶とゲームセンターがあった。これから話をしようなんて二人に、ゲームセンターに入る選択肢はなく、目的地は明確に定まった。
 呆れ直す、なんて言葉が思い浮かんで、暫く口を開かないまま立ち止まってしまった。
「どうしたの野中ちゃん」
 あくまで不思議そうな表情で、私の顔を伺って、暑苦しいのに、肩に腕を回してくる。言葉とワンテンポ遅れたその動作に、ぎこちなさを感じる。たった今、男の、自然を装う為に生まれた不自然さが、痛々しく現れたのだった。
「あの、阿莉花って名前に聞き覚えないですか?」
「なに?俺なんかしたっけ、覚えてないわ」
 この場に居ない女の名前が出ただけで、警戒態勢に入ったのが肌で分かった。きっと似たような質問をされた事が過去にあるのかも知れない。
「野中、野中阿莉花です、高二の頃あなたと付き合ってた」
 この男が当時を鮮明に覚えていても、すっかり忘れていても、どちらにせよわたしを苛立たせたと思う。けれど。
「二年の頃か、あんまし覚えてないな」
「薄情ですね」
「言うね、ただ自慢じゃないけどあの頃モテたからな、いや、今はそういうの辞めたんだよ?えっとどの子だっけ、のなかあやり?」
「もういいです」
 右手に録音状態で持っていたスマホを鞄にしまって腕を振り解き、駅に向かって大きめの歩幅で歩き出す。男も慌てて、沿うように歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待ってよ、いま思い出すからさ、あ、落ち着けるところ行かない?俺野中ちゃんめっちゃタイプ、あれ、同じ苗字?」
 不必要にてろてろ揺れる、右手の指先が迫って来て、二の腕を半ば抉るように掴んだ。男から、加減の下手な力は、最低限の筋肉を通過して骨まで届いた。髄から寒気がした。
「怠い、うざい、しね」
 なるべく威圧するように、低い声で手を跳ね除けた。これまで男が触れた全ての肌が、微かな炎症を起こしているかのようだった。
「待ってよ阿莉花でしょ、ロングヘアの」
 思わず足を止めた。二年の頃は確かに、阿莉花は髪を伸ばしていた。

 その年も梅雨はよく蒸れて、多種多様な制汗剤の匂いが、教室に充満して、深く息をするとくらくらした。阿莉花は、長い髪の隙間から水分を弾き出すみたいに、その白く透き通る指で手櫛を繰り返して、鬱陶しそうにしていた。
 見かねた私がドライヤーと延長コードを家から持ってくると、お腹を抱えて笑った後、過呼吸になっていた。
「ちょっと風和、こんな暑いのにドライヤーって最高」
 涙目になりながら笑う、彼女を見るためなら、私はなんだって出来る気がした。
 ノートをドライヤーで、ぱらぱら捲って遊んだ阿莉花は、擦ると消せるのボールペンの筆跡へ、ドライヤーを当てると文字が消えることを発見した。そうしてドライヤーは、授業中にもかき鳴らされて、一限目の古文の授業で教科担当に没収された。

 万が一、彼女を不真面目だと思われたかも知れないから、名誉のために添えると、阿莉花は学内で六番、クラスで一番の成績だった。

7階でエレベータを降りると、ホワイトウッドを基調にした、清潔感のある受付が見えた。壁へと木目は続いていて、アイアンウッドのラックにはMOREやGLOWといった雑誌が備えられている。
「じゃあ受付してくる」
 そう言って、男は慣れた手つきで会員証を取り出し、カウンターに向かっていった。
 他の壁にはお菓子、サンドイッチといった軽食も売られていて、私は葡萄味のグミを摘むと、男が受付をしているカウンターへそっと置いた。

「お待たせ、それとこれ、女子ってグミ好きだよね」
 男はそう言って、さっき私が買わせたグミを手渡した
「ありがとうございます、一粒要りますか?」
「あとで頂戴」
 儀礼として差し出すと、形式として断られた。私はそれに安堵して、一粒口に放り込み、袋は鞄に仕舞った。
 奥へ進むと、たくさんの漫画が敷き詰まった棚が列を成していて、それは、あるとわかっていても壮観だった。
「野中ちゃんは、好きな漫画とかは?」
「私飲み物だけでいいです、注いできます」
「ちょっと待って」
 直ぐにでも飲み物を取りに行こうとした私を、男は声をかけて止めた。
「部屋の鍵だけ持ってて」
 そう言って受付で貰った鍵を手渡して来た。私はなるべく、手のひらが男の指に触れないように受け取った。
 
 ドリンクバーで、リンゴジュースを選択する。外の暑さが身体に残っているけれど、冷え性だから、氷は入れずに一杯だけ、飲み干した。そうして次は氷を入れて、もう一度、リンゴジュースを注いだ。
 この瞬間に男はどうしているだろうと、棚を見に行くと、漫画を数冊持ちながら別の漫画を見繕っているようだった。
 どうせ茶番の小道具で、読む気なんてさらさらないから、真剣に選ばれるほど滑稽さは増していった。

 扉を開けて、身の危険を感じたら直ぐ外に出られるよう、入り口の隣に陣取った。滲むように漂うシートの臭いに、他人と消毒液の臭いが混じって、形容し難い空気がのしかかった。
 シートはやんわり、ベタついていて、手をつくと離すときに、少しだけ粘着を感じる。

「お待たせ、あれ、なんでそんな手前にいるの、広いのに」
「お部屋に入ったら、直ぐ疲れてしまって」
 男は軟弱だな、と笑いながら、奥の方へ座った。
手に持っていた漫画を机に置いて、その中から一冊、無簡素な板を取り扱うみたいに手にとった。
「野中ちゃんは阿莉花ちゃんのことが知りたいんだっけ、写真とか見る?」
「あるんですか?」
 写真、と聞いて跳び上がりそうだった。私の知らない阿莉花の、当時の姿が見られるなんて、棚から真珠、瓢箪からダイヤ、なんでも、その胸騒ぎを男に悟られないようにしながら、落ち着かなかった。
「写真って勝手にバックアップされるじゃん、何年前だっけ」
「三年です」
「じゃあ十六年か、待ってね」
 男が大きく指を、上から下に滑らせるのを、私は「待て」を受けた柴犬みたいに眺めた。まだかまだかと、画面を覗き込みたい衝動を抑えながら。
 ふと視線を感じて目線を上げると、男と目が合った。私はいつの間にか、男と七センチメートルの距離まで来ていて、少し覆いかぶさるように、もしよろけたら、男の上に重なって雪崩れてしまう体勢だった。
「そんなにその女の子のことが気になんの、いま野中ちゃんと居るの俺なんだけど」
 何か手違えでもあったか、男が唐突に不機嫌になった、ということだけ理解した。
 男から半ば呆れたような、視線と声色を向けられて、そんな中でも私は、昔、阿莉花に同じ態度でお説教を受けたのを想起していた。
「さっきから俺の話、一回もちゃんと聞いてくれてないよね?」
 想定外な、倦怠期のカップルみたいな注意をされて、俄に笑ってしまう。そんなことで不貞腐れていたのかと考えると、危うく愛着が芽生える寸前だった。
「だってその人の付き合った人から、なんとなく人間性って分かるじゃないですか、私は阿莉花を通じて貴方を知りたいだけですよ」
 思ってもない言葉が、まるで事前に用意したみたいな、馴染み具合で出てきた。
「そういうこと?ならいいけど」
 茫洋としながら、この男の特性が掴めてきた。相手を支配する気持ちが強く、それにそぐわないと不機嫌になる。それなら、言葉選びが決まってくる。
「例えば、別れた理由とか、性格出ませんか?」
「あー確かに」
「阿莉花の何がだめだったんですか?」
 お前はどんなくだらない理由で彼女を傷付けたんだ。何の権限があって、彼女の心に居座ったんだ。
 返答によって、武力行使も考えた。
「あの子は、つまらないって言うと語弊があるかな、なんだろう、控えめで自己主張がないって言うか、俺の言うことを何でもうんうんって受け入れちゃう感じ」
「それが?」
「一緒にいて疲れるんだよね、話てても面白くない」
 私は腹の底から怒りが湧いてきて、勢いに任せ、男に殴りかかる、筈だった。なのに現実は妙に腑に落ちて、納得して、受け入れて、その通りだと思った。
 アドニスに恋したアフロディーテみたいに、あの頃の阿莉花は人間臭くて敵わなかった。
「少しだけ、わかります」
「そうなんだよ、デートもどこでもいいって言うし、だし、居ても居なくても一緒みたいな」
「私の前では違いましたけどね」
 はっとして、少しだけ高圧的な言い方になってしまったことを悔やんだ。これは苛立ちというより、勝ち誇ったような気持ちだった。
 やや空白があって、怒らせたかと思い、いつでも立てるよう鞄を強く握ったとき、男が口を開いた。
「俺やっぱり自己主張できる女の子がタイプだわ、野中ちゃんみたいな、ね、いいじゃん付き合おうよ」
「、、、は?」
 人を好きになるメカニズムがからっきし分からず、素っ頓狂な声を出してしまった。

 因みに、私の苗字は真辺だ。

 さっきから出来るだけ距離を取っているものの、男は逃げる獲物を追いかけたくなる習性があるらしく、効果はどうだろうか。
 捕まっても地獄、逃げても地獄の板挟みであることに気づいてげんなりした。
「じゃあこれ、許してくれますよね」
 そう言って私は彼の右肩に手を置いて、そっとキスをした。
 驚きで硬直した男の顔が、二秒後、次第にだらしない笑みに解されていくので、私は続けて残っていた、氷混じりのリンゴジュースを引っ掛けた。
 「冷たっ」と跳ねる彼を見て、数時間前にも同じ様な光景を目にしたなと感じながら、私は鞄を抱えて駆け出した。階段の位置は事前に把握していた。
 男の切れ長の目がまん丸になって、呆けている姿は滑稽で、心底愉快だった。
 三年前の阿莉花、彼女も同じ唇に触れた筈だった。けれど人の皮膚のターンオーバーは二週間で行われるから、もうそこに彼女の名残は無い。ただ、同じ感触を知っているという事実だけでも、近付けたような気がした。
 帰り道は達成感と、文化祭の後みたいな喪失感があって、私はその空白を、肺と共に煙で満たした。

 ジントニックを傾けながら氷を眺めると、ビビットカラーの照明が乱反射した。冷気を纏った、無機質さが私を小さいながら鮮明に写した。
「今日も色々あったのねえ」
 カウンターの向こからバーのマスター、きゅーちゃんが、労わるように言った。英語でtheyにあたるところのきゅーちゃんは、目がぱっちりとして、深夜の仕事だというのに、柔らかくシミ一つない、マシュマロみたいな肌をしている。それはそれは美しい造形で、一度酔ったお客さんにアップされたTikTokがバズって、きゅーちゃんを一目見ようと行列が出来たこともある。
 折角荒稼ぎのチャンスだったのに、きゅーちゃんはお店を一週間閉めて、近場を飲み歩いていた。私もその中の一日だけ、一緒に豚串のお店に行って、「写真コワイ」「これウマイ」以外の語彙を喪失したきゅーちゃんをなんとか宥めて、朝までこの世の不条理について語り合った。
 きゅーちゃんは人をよく観察していて、気配りが上手く、痒いところと、相手すら知らないツボに手が届く。だから、他人と関わりたがらない私と話すのは、決まって他にお客さんがいないときだ。
「私、阿莉花に成りたかったのかも知れない」
「いつも話してる子?」
「そっ」
 明瞭な、人生の正解としての彼女。それにさえ成れば、私は百点満点が取れる手筈だった。
 今ではあの日々が、透明な膜が張ったみたいに、白く、靄がかっている。
 正確に思い出そうと必死になる度に、願望や下心が混ざって、それは少しずつ事実から離れていく。けれど思いださなければ、霞んで薄れていって、やがて無くなるのも分かっていた。
 それは段々と美化されて、宝石の原石を研磨するように、本来の姿は削ぎ落とされていった。

 当時の私はなんでも、阿莉花と同じにした。緩くカールがかった髪型も、一見分からない透明感のあるメイクも近付けた。持ち物は友情の印を口実にして、何でもかんでもお揃いにした。
 誰かに「似てるね」と言われると、跳び上がるほど嬉しかった。けれど絶対に、阿莉花に及ばないことは分かってた。
 類似品は、それ単体で存在することが叶わないという、致命的な欠陥があるのだった。

「早く風和も恋を知ったほうがいいよ」
 私の方がよく知ってるのに。そう思って向けた鋭い視線を、阿莉花は嫉妬として解釈した。
「あーあ、風和に彼氏ができたらダブルデートとかしたいのにな、ん、そうじゃん、彼氏にいい人いないか聞いてあげよっか」
「いやいいよ私、知らない人とか無理だし」
 言いながら、スマホの長ったらしいパスワードを打ち込む阿莉花を、菓子パンを掴んだままの左手で制する。
「えー」と態とらしく言いながら、阿莉花は眉をハの字にして笑った。
 私に恋人が出来たら、阿莉花に彼氏が出来たときのように、二人の時間はまた減るのだろうか、それなら私は、家族さえ捨ててしまってよかった。
 阿莉花の瞳に世界を映して、阿莉花の吐く息を飲んで、呼吸して、阿莉花の唇が織り成す響きのすべてを、私は余すことなく聖書にした。
 けれど阿莉花は、段々と神様じゃなくなっていった。つまらないオンナになった。人並みに恋患って、スマホが震える度に溜息を漏らす阿莉花を、私は冷たい、失意の眼差しで眺めることが多くなった。
 
 だけど身体だけは、阿莉花は阿莉花のままだった。

「ね、変なこと聞くけどさ」
「ん?なに?」
「シャンプー変えた?」
 そう聞いたら、阿莉花は嬉しそうに自分の髪を撫でた。
「やっぱり分かった?実は昨日かずくんとお泊まりしてきて」
 ずきりと痛んだ、心臓と喉が。失恋ならとうに済ませたのに、それはやはり喪失や嫉妬、深い悲しみが大元にあって、諦めたものと、無理矢理自分を騙していたことが浮き彫りになった。
 その後の話は、よく覚えていない。

 あれから女の子と付き合った。だけど私は阿莉花が好きなだけで、性愛だとかマイノリティとか、そういうのは埒外らしかった。
 手を繋いで、キスをして、何をしても無感動で、段々申し訳なさと滑稽さで、笑いながら、泣きながら嗚咽を漏らしながら、謝る私を、ただ責めるでも呆れるでもなく、抱きしめてくれた彼女は、いま社会人の女性と付き合っている。

 あれから男の子と付き合った。彼は常に一定の距離を保って、私の深いところに触れないでいてくれた。だから居心地が良くて、駅前と商店街と海と、たくさん遊びに行ったり、LINEで話をした。二人の距離感は、付き合っている二ヶ月の間、微塵も変わらなかった。
 常識的で、理知的で、優しくて、私のことを何より大切に考えてくれて、だから、私から縁遠い子だった。

 あれから教師と付き合った。私の知らないことを、たくさん知ってると言っていた。
 取り返しがつかないくらい、何かが音を立てて崩れていった。
 
 みんな私を「可哀想な女の子だ」と言った。ネットは「淫乱な女の子だ」と言った。クラスの人間関係に敵を作りやすかった私の顔は、弓矢より早く掲示板とSNSで広まった。誰も彼も私を癒やそうと、傷つけようと、血眼で、躍起になった。
 傷も出血もない腕に、包帯を巻かれているようだった。血の通わない壊死欠落した腕に、鋏を突き立てられるようだった。
 人間が無理解の象徴として、濁流みたいに押し寄せる中、阿莉花はただ、笑いも悲しみもせず、私の目をすっと見通していた。
 私の全てはその神聖に、拐かされている。

「阿莉花ってすっごいいい子でね、あんな分かりやすいクソ男に捕まっちゃうくらい、純粋だったの」
「アンタその話五回目よ?いい?人間過去の話ばっかりしてると直ぐジジババになっちゃうんだから、気を付けなさいね?」
 きゅーちゃんはぐいっと、器用に右眉毛だけ持ち上げながら言った。
「きゅーちゃんは将来ジジとババどっちになるの?」
「あたしはねぇ、ジジババの両方、ジーバーかしらね」
「じゃあジバニャン?」
「誰が妖怪よ」
「ネコだしね」
「なんでアンタがそんなこと知ってんのよ」
「この前郁人くんがお店来たとき言ってましたー」
 きゅーちゃんは「まあいいけどさぁ」と言いながら煙を吐いて、「クソガキが」とも言った。
 きゅーちゃんは愛情とか、慈しみが溢れるほど、口が悪くなる癖がある。それは恐らく照れ隠しで、口の端がほんのり上がっているのを、本人はバレていないつもりなのだろう。
「で、その阿莉花ちゃんが忘れられなくて、恋人達とは別れちゃったの?」
「や、それは違くて、二人とも、すごくいい子だったの、純粋で、それがなんだか、守らなきゃ、って思ったの」
 そのまま優しさに寄り掛かって、甘えていたら、きっと相応に幸せだった。
 けれど彼らが次第に、私に似てきていることが耐え難く思った。純粋な彼らを、私という不浄が触れる度、不可逆的に濁してしまう、その事態は避けなければならなかった。
 それに私は、幸せというものが、酷く恐ろしいものと感じるようになってしまった。口では救済を求めながら、いつも、達成される前で自ら壊した。
 私は陽だまりの暖かさで身が焼けるようで、幸福の最中に居ると、なんだかそわそわして、落ち着かない。満たされるほどに、それが失われる瞬間が脳髄に鮮明に描き出され、観念的不幸に陥るという、笑っちゃうほど無意味な仕組みがあった。
「アンタさあ」
「なに?」
「碌な死に方しないわよ」
 きゅーちゃんは身体を斜めにして、眼だけを向けるようにして言った。
「知ってる」
 私はもはや、彼らの貧弱な、か細い指先に喉笛を潰される以外、死に方なんてどれも惰性としか思えなかった。
 映画はハッピーで幕を閉じるのだから、私も幸せの頂点で物語を終わらせるべきだった。それなのに、節足動物くらいの、クチクラの硬さと生命力で、無様に、生き永らえてしまった。
「ねえきゅーちゃん」
「なに?」
「しようよ」
「なにをよ」
「セックス」
 十秒くらい返答がなくて、時が静止したのかと思った。きゅーちゃんは深く紙煙草を吸い込んで、気怠そうに煙を吐いた。
「アンタみたいなガキとヤったら芋が移っちゃうわよ」
「この前彼氏に性病貰ったくせに」
「五月蝿いわね、ヤク塗っときゃ治るのよ」

 途端に入り口の扉が開いて、突っ掛けにぶら下がっているベルがカラカラ音を立てた。女性のお客さんが二人、入って来た。
 きゅーちゃんは直ぐに空気を切り替えて「いらっしゃい」と声を掛けた。
「すごい本物!めっちゃ美人じゃない?」
「やば、かなこと顔の大きさ違いすぎでしょ」
 げらげらと笑う二人は既に酔っていて、例のバズったTikTokからこのお店を知ったようだった。
 私は久しぶりに、苦手なタイプの人が来たなと思いながら、お手洗いに向かった。
「写真いーですか?」
「ちょっと先に注文しなよぉ」
 鍵を閉めても、半狂乱の声がトイレの扉越しに聞こえた。
 鏡に映った自分はいつも、真っ先に目を見る、そのあと髪の毛を整えて、今まで息を止めていたかのようなため息を吐いた。
 きっと今頃、きゅーちゃんはあの二人に詰め寄られていて、私が戻っても、不愉快なノイズに塗れるだけだ。
 五分くらい、髪の毛を弄りながら呼吸をして、今日はもう帰ろうと決めて、お手洗いから出る。
 店内を見ると、きゅーちゃんと目が合った。
 私が座っていた場所に、どうしてか浅葱色のシュシュが置かれていた。それは私の右手にはまっているのと同じものだった。
「きゅーちゃんこれ、なんで?」
 丁寧に机から掬い上げると、まるで私の一部みたいに手に馴染んだ。
「さっきモデルみたいな子が来て、置いてったの」
「それって」
「で、アンタに伝言があって、『次はナンパから助けてね』だって」
 迷いようも、疑いようもない。他に、こんなことが可能な存在はあり得ない。阿莉花が近くにいる。
 私はお店の扉を乱暴に開けて、駆け出した。ベルが喧しく鳴った。
「はーあ、お子様ランチでも始めようかしら」

 私は何でもかんでも阿莉花とお揃いにした。右手にはまっているシュシュは、熱を帯びているようで、そっと握り締めるとごわごわという感触がした。
 終わった筈の時間だった、死んだ筈の神様だった。
 心臓が煩く鳴って、血流は過剰に巡って、瞑眩しながら、落書きまみれのシャッターに倒れそうになった。
 体勢を立て直して、私は胸で浅く息をしながら、両手に浅葱色を携えて、もう一度街灯の中へ駆け出した。

 その夜、聖書の最終行は、二年ぶりに書き加えられた。

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