人生で1番幸せだったことは?
ビジネス気学コンサルタントの永井堂元(ながいたかゆき)です。
今日は、これからの便で、札幌から羽田へ。都内で1件打ち合わせ。
そして夜には、福岡・糸島に戻ります。
今朝届いたお題です。
>1番を決めるってすごく難しいと思いますが
>永井さんが思う1番を
>堂々と選んでみてください(^^)
(中略)
>こうやって永井さんも
>幸せだったことを並べてみたら
>幸せな気持ちになりませんか?(^^)
>ぜひ幸せな気持ちになりながら
>今日のブログを書いてみてください(*^^*)
>幸せな出来事から1つ選ぶってことが
>出来ない方は
>ランキング式にしてもいいかもしれませんね(‾▽‾)
ランキング式は、移動の機内で思いだして
ニタニタするとして、ボクの一番幸せな出来ごと。
自慢話になりますが、堂々と書きます。
それは、1998年の10月から1999年に5月までの約半年間。
アカデミー賞7部門にノミネートされながらも無冠に終わった、
テレンス・マリック監督の映画『シン・レッド・ライン』
(20世紀FOX製作)という彼にとって20年ぶりの作品に、
日本の実質的な宣伝責任者として、
プロモーション全体に関われたことです。
この前年に、20世紀FOXは、『タイタニック』が興行的にも、
アカデミー賞レースでも大勝ちし、「今年のアカデミー賞ねらい」
で企画された作品でもありました。
ボクにとっては映画業界での「自己実現の第一歩」
そして感情的にも、「目標達成」や「夢実現」についての
ポジティブとネガティブ。
すべての感情を味わうことができました。
達成、チームワーク、フロー、夢心地、特別感、高揚感、恍惚、
いらだち、怒り、葛藤、混沌、失望、脚光、嫉妬、賞賛、伝説、
憧れ、特別、挫折、燃え尽きetc
ほとんどの方が、テレンス・マリック監督のことをご存じないと思います。『天国の日々』というリチャード・ギア主演の映画を撮った後、
20年間ずっと沈黙を続けておりました。
スティーヴン・スピルバーグ監督は、当時
「テレンス・マリックの復活。私はこの日を待ち焦がれていた。。。」
とコメントしていますし、
『スター・ウォーズ』のジョージ・ルーカス監督も彼を
尊敬している、という大監督のメンター的な存在なのです。
但し、作風はかなり哲学的で、難解。プロや評論家受けは、
するのですが、いわゆる興行的には厳しい作品ばかりを撮ります。
しかもマスコミの取材は一切受けない、
マスコミの前に顔を出さない、ということで、謎のベールに
包まれた映画会社、泣かせの伝説の監督でもあります。
この作品の日本での権利を当時、ボクが勤めていた
会社が買ったことを知り、
本社勤務になって、まだ全く実績がない時から、
「とにかくこの作品を担当したい」
「この監督を好きなことにかけては、誰にも負けない」
とか
「日本でヒットさせたければ、ボクに担当させろ」
とか大口をたたいていました。(汗)
途中数年は省略しますが、
当時のマネジャーに石橋さんという男気のある方がいて、
「コイツがそこまで言うなら、やらせてみよう!」と
社内の関連4部門を仕切ってくれて、
ボクがこの作品担当になりました。
いま、書いていてこのエピソードだけで泣きそう。。。。
ボクが会社を早期退職するまで、一貫して応援してくれた方です。
数々の思い出はありますが・・・・
①作品完成前から、日本の一番大きな劇場チェーンにブッキングされた
こと。(丸の内ルーブルほか全国の松竹東急系ロードショー)
この劇場チェーンでは、2月公開のトム・ハンクスxメグ・ライアンの
『ユーガットメール』の次の上映作品でした。
②公開初日の4月10日 当時日本で一番席数の多かった
新宿ミラノ座(1280席)が午後の回に立ち見であふれかえったこと。
支配人も驚愕。まだ、「定員入れ替え制」になる前です。
③まだ編集中の作品をハリウッドのプロデューサー
マイク・メタヴォイにお願いして、
(※彼もまた、かつて、コロンビア・ピクチャーの代表を務め
「ロッキー」「カッコーの巣の上で」で2年連続アカデミー作品賞を
獲っていたレジェンドでした)ハリウッドのワーナー・スタジオの中
で未完成のまま(ラッシュフィルム)試写を組んでくれたこと。
※20世紀FOX作品なのに、監督が
「ワーナースタジオの方が作業がしやすい」という理由でした。
2つのスタジオもこんな例外を認めているということから、
この監督の業界内の影響力が想像できると思います。
③試写後、監督を囲んだランチ・ミーティングをマイクが設定してくれ、
ボクはテレンス・マリック監督の隣に座ってお話をすることができました。憧れの監督の隣で、心臓バクバク夢見体験。
④そして予定通り12月頭に映画が完成し、「NY批評家協会賞」や
「LA批評家協会賞」など、アカデミー賞の前哨戦となる賞レースに、
ことごとくノミネートされました。
※この年、『プライベート・ライアン』でノミネートされた
スピルバーグ監督がNYへ向かうプライベートジェットに
テレンス・マリック監督を乗せた、という話もマイクから聞きました。
⑤そして賛否両論を受けながら、1999年2月3日
渋谷パンテオンという1000席近い
会場での完成披露試写会と舞台挨拶がなんと立ち見に
⑥2月半ばのベルリン国際映画祭でグランプリ受賞
⑦日本国内での、それまでの「常識を破ったプロモーション」
そしてアカデミー賞7部門にノミネートされるも無冠となって、
関係者失意の中での4月10日の劇場公開。
ちなみに、この年のアカデミー作品賞は、
ロベルト・ベニーニ監督の『ライフ・イズ・ビューティフル』
アカデミーが無冠に終わったあとのアメリカを含めて、
世界的に興行成績はかなり厳しかったです。
日本だけ、まだ当時「シネコン」がほとんどない時代に
全国161館での上映。興行収入17億円と大健闘といっていい数字でした。
⑧そして劇場公開から2年後、別の映画の宣伝で再来日した
主演俳優のジム・カヴィーゼル
(彼とは来日して一緒にKOBE BEEFを食べたりよい思い出です)
を通じて、監督の「Masaへ、感謝をこめて」と直筆サインの入った
ポスターがボクのもとに届けられました。
ストーリー的にも、「ガダルカナル島で日本軍が玉砕する」
という商業ベースで難しいテーマ。
そもそも、日本人に受け入れられるかという製作者の懸念。
にも関わらず、世界で一番の健闘。
「サインもしない監督」というウワサでしたが。。。
ちなみに「伝説の監督からの感謝のあかし」を受け取ったのは、
日本では2人だけでした。
プロモーションの責任者だったボク
と
この映画の字幕、来日時の通訳を務めてくださった
戸田奈津子さん
(「先生」と呼ぶと、いつも怒られたので、戸田さん)
ボク自身は、このプロジェクトの「成功」をきっかけに、
社内と業界内で評価を上げ、翌年、高校時代からの
あこがれだったカンヌ国際映画祭の
レッドカーペットが実現します。
こんな感情のジェットコースターのような体験。
残りの人生でもう一度、経験してみたいです!
あなたがこれまでの人生で1番幸せだったことは何ですか?
そして、もしその時を上回るような出来事がこれからの
あなたの人生で、もう一度起きるとすれば、
それは何でしょうか?
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