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差し伸べられた手を待っている君へ


小学一年生の春休み前に、私は転校することになった。理由は、父親の会社が経営していた社宅から両親待望の一軒家に引っ越したからだ。

前の学校を去るときにクラスのみんなと担任の先生がグラウンドまで出てきてくれて、「ばいばーい!」と手を振ってくれたことを今でも覚えている。

あの頃は仲良しなお友達もたくさんいて、私はこの学校が大好きだった。

でも、母親に手を引かれて校門を出る私の後ろから聞こえるだんだんと小さくなっていく「ばいばーい!」の声に、もうみんなと会うことはないんだなとなんとなくだけど悟った。寂しくないわけがなかった。

一緒になわとびをしたり、マラソン大会が近付くとグラウンドを走り回った。

家の近くの大きな公園で集合して、たくさん遊んだ。

私が転校することを知ったみんながお別れ会をやってくれたことも覚えている。

私が小中高と送ってきた学校生活のなかで「楽しかった」と思えるのは、この頃の記憶だけだ。


転校して、新しい学校生活に慣れないまますぐに一学年上の生徒たちから目を付けられるようになった。きっと、田舎の学校だったから転校生という存在が珍しかったのだろう。

睨みつけられたり、明らかにこっちを見ながらコソコソと話しているのを見かけたりした。名前も知らない人たちに暴言を吐かれたり笑われたりしたこともある。転校した先の学校は人数が少なくて、どの学年も2クラスしか無かった。私は、このほとんどの生徒たちからいじめに当たる行為を受けていた。

こんなことが何年間も続いた。もちろん、中学に上がってもまた彼ら彼女らとは顔を合わせることになる。これを"絶望"と言っても大袈裟ではないと思う。子供にとって学校は世界のすべてだし、両親や教師に助けを求められなかった私はただただ耐えるしか無かった。きっと、この文章を読んでいる人たちのなかにも同じような気持ちの人がいるのではないだろうか。


小学6年生のとき、仮病というか「これぐらいじゃ休ませてもらえないだろうな」というような理由を訴えてなんとか母親に了承してもらい学校を休むことが増えた。「お腹が痛い」とか「頭が痛い」、「耳鳴りがひどくて気持ち悪い」など仮病と間違えられてもおかしくないであろう症状が続くことがあった。母親に休むことを認められて学校を休ませてもらえたときは心底、ホッとした。

母親の精神疾患が悪くなったとき、他に母親の面倒を見る人や兄弟のお世話、家のことをやる人がいなかったので率先して学校を休んで母親の代わりをしたときがあった。母親には悪いけど、学校を気兼ねなく休める理由が出来てものすごく安心した。それぐらい、私にとって学校という場所はなによりも避けたいものになっていた。でももちろん、罪悪感が無いわけではなかった。毎日のように泣き叫んで、目を離したら死んでしまいそうな母親のことを小学生だった自分が看病するのも限界があったし、でも、学校には絶対に行きたくなくて、なんだかものすごくがんじ絡めの状態だったように思う。それでも、長女として大人の前ではしっかり者でいるように努めていた。


中学校に上がり、他の小学校の生徒とも生活を共にするようになった。もちろん、私をいじめていた一学年上の生徒たちも先輩としてまた同じ学校である。そして、新しい中学校の先生たち。

また新しい環境でのスタートだった。

実は、少しだけ期待していた。新しい環境になれば、きっと楽しく学校生活を送れるんじゃないかと。先輩となった彼ら彼女らも、こんな私のような何でもないやつに嫌がらせをしたって意味ないって気付くんじゃないかって思っていた。

しかしその期待は、意外な形で裏切られることになる。


私は、中学生になったらバスケットボール部に入ろうと思っていた。私が通っていた中学校は生徒数が少なかったため、特別な理由がある生徒以外は必ず運動部に入らなくてはいけない決まりだった。

そして私はバスケットボールが好きだったため、バスケ部に入ったのである。その部活にも嫌いな女の先輩はいたけれど、私にすごく嫌がらせをしてくる1番の先輩はバレーボール部に入っていたため、「あの人がいないならいいかな......」と入部を決めた。結構迷ったけれど、自分が好きなものを我慢することも嫌だなと思ったので決心したのだ。

不安はたくさんあったけど、「もしかしたら新しく学校生活をやり直せるかもしれない......」という淡い期待を抱く。


4月に入部して、ゴールデンウィーク前から部活動が始まった。

一年生は、始めはなかなかボールを触らせてもらえなかった。主に筋力トレーニングがメインの活動をして、先輩たちの練習に励む姿を横から並んで見ている。バスケ部は1番キツい部だと聞いていたので、特別、運動神経が良くない私はみんなに遅れないようにしようと練習に励んでいた。


そんななかで、私は入部早々に怪我をしてしまった。


小学生のときにやっていたミニバスのときとは違い、中学生になると本格的になって体育館シューズではなくバッシュを履いて練習することになっていた。そのバッシュに慣れていなかったからか、練習の片付けをしているときに足首をぐにゃりと捻ってしまったのだ。

「しまった......!」と思った。足首を捻って転んでしまい、上手く立ち上がれない。捻ったところがジクジクと痛くなってきて、思うように動かない足首を見つめながら私は泣くのを堪えていた。

そんなとき、顧問の先生が私の元に駆け寄ってきて放った一言が、私の心を奈落の底に突き落とすのである。

「なにやってんの、使えないわね!」

その言葉を聞いたあとのことはほとんど覚えていない。気が付いたら教頭先生と保健の先生に病院に連れて行かれて、その病院で母親も待っていた。診察をしてもらい、帰宅した。足首はただの捻挫だったけど、足首よりも心のほうが痛かった。


捻挫は全治2週間程度のものだったと思う。ただ、怪我よりも顧問から吐き出されたあの言葉のほうが私を痛め付けた。足首のほうは痛みが治まってだんだんと良くなるのに、それに反比例するかのように私は夜、眠ることが出来なくなっていた。

寝ようとすると、あのときの顧問から言われた言葉を思い出してなかなか寝付けない日々を過ごしていた。「あなたは使えない人間だ」と言われたことが、ずっとずっと頭からこびり付いて離れない。そうか、私は使えない人間なんだと思うと、途端に涙が出てくる。母親が夜、眠れなくて眠剤を貰っていたけれど、眠れないってこんなにもつらいことなんだとこのときに初めて知った。

顧問は私の教室に来て、保険の書類のようなものを持ってきたときに嫌味を吐いてきたこともあった。確かに私がドジなばかりに怪我をしたのだけれど、何でここまで言われなくちゃいけないんだろうと思うとめまいがした。別に、私じゃなくて顧問が怪我したわけでもないのに。私だって好きで怪我したわけじゃない。

ある日、母親に「学校に行きたくない」と初めて言った。こんなことがあって、眠れなくなって、顧問が怖いからもう学校に行きたくない。初めて、親に「助けて」と訴えることが出来た。すると、母親は私の話を聞いているうちに激しく怒り出し、すぐに学校に連絡していた。

その日のうちに顧問と私の担任が家に来て、顧問は泣きながら私に謝っていた。小さくなっている二人を前にして激怒する母親の隣で、私は二人よりも小さくなりながら顧問と担任からの「ごめんね」にこくんと頷く。でも、なぜだか気持ちは晴れることはなかった。代わりに、気まずさとこれからの学校生活に対する不安感だけが胸に残った。

それから学校には変わらず行っていたけれど、なんとなく部活の子たちと一緒にいると居心地が悪いように感じた。怪我をしている私は、もちろん練習は見学することになる。その間にも練習は進み、ついには一年生も先輩たちの練習に参加出来るようになった。

 

無事に怪我が治り、練習に復帰出来るようになった頃には同級生の子たちは先輩たちとの練習にも軽々と付いていけるようにもなっていた。特別強いチームでも無かったけれど、顧問が厳しめの人だったので練習は相当キツいものだった。そのなかに、今まで怪我をして見学していた私がぽつりと入る。

やっと練習が出来る、という嬉しい気持ちはすぐに消えた。練習の仕方が分からずモタモタしている私を見る顧問や先輩、そして同級生の目さえも怖く感じて、気が付けば部活の時間になると体調不良に陥ることが多くなった。

夏休みに入り、ほぼ毎日のように練習が始まった。
あんなに大好きだったバスケットボールなのに、部活だと思うとズシンと心が重くなる。毎日のようにキツい練習をし、みんなより下手くそな私は足でまといだと思われ、体調が悪くて「見学させて欲しい」と言うと「またか......」というような目で見られる。

体育館に入ると、胸がぎゅっと苦しくなった。「ここにいたくない」と体が悲鳴を上げている。でも、逃げてはいけないと思い込んでいた私はただただこの苦痛の時間を耐えるしかなかったのだ。

家に帰って、夏休みの宿題をやって、ゴロゴロして夜になると「あぁ、また明日も部活か......」と思って死にたくなる。そんな日々をずっと送っていた。


こんな毎日を送っていると、いつからか体調が悪くなるのが部活の時間だけでなくなってきた。学校のことを考えただけでお腹が痛くなり、頭が痛くなる。日曜日の夜にひどい蕁麻疹が出ることもあった。

テスト中に体が怠くなり頭痛もあって、最後まで出来たから俯きになって寝ていると先生から「ずいぶんと余裕ね?」と嫌味を言われたこともある。確かに、私は成績はまったく良くなかったので、先生からしてみたら「寝ている余裕なんて無いだろう」と感じたのだろう。先生の言葉が私の心を刺す。ズキン、と痛くなったそこはもう傷だらけだった。

それでも、私は母親に「学校へ行きたくない」とは言えなかった。心配を掛けたくなかったし、なんとなく自分の状況を説明することが怖かったのもある。だから、私は誰にも弱音を吐けないまま、「学校に行きたくない」という自分の気持ちを無視したままだった。すると、学校に行くと熱が出るようになってしまった。

学校に行き、熱が出て保健室へ行く。そうして保健室のベッドで寝かせてもらったり、早退をすることも多かった。今考えれば、心にも体にも相当の負担が掛かっていた。

このときの私は、半分不登校で半分保健室登校みたいな中途半端な立ち位置の生徒だった。それがまた、同級生たちとの関係をより悪化させる。

それでも、私の周りの大人たちは私を助けてくれるどころか逆に追い詰めてきた。

「体調が悪いので保健室に行かせてください」と担任や他の先生に言えば「またか......」という顔をされ、早退をすると母親に「いつまでこんなこと続けてるの!?」と叱責された。

一切の逃げ場所が無い。そして、こんな自分が嫌い。心が裂かれるように痛かった。

私だって、普通に学校に行きたい。
でも、心も体もそれを拒んでいる。

学校の先生も信用出来ず、同級生には常に嫌悪の目で見られるのだ。そんなところに誰が行きたいと思うのだろう。

そしてなにより、私が一体、何をしたんだろう。

なんで、こんなにも毎日がつらくて死にたくなるんだろう。

でも、死ぬのは怖かった。
だから、生きている。だから、生きてこれた。

この世界から逃れられないのなら、死んでもいけないのなら。いっそ誰か私のことを消してくれ。むしろ、この世界ごと吹っ飛んでしまえばいい。

毎日毎日、ずっとそんなことを考えながら生きてきた小中学生時代だった。


今、思い出しても、胸が詰まって苦しくなる。
中学を卒業してから、私は誰一人として同級生に会ったことがない。もちろん、成人式にも行かなかった。今は地元を離れて、きっと誰も来ないであろう遠い場所に住んでいる。

私はまだ、あの頃の記憶を乗り越えれないでいるのだ。

だから、私はこの文章を書いているのかもしれない。私が私のことを書いて、それが誰かの役に立ったり救われたするのなら、きっとあの頃の私が救われるはずだから。


子供にとって、学校は自分が生きている世界のすべてだ。本当はそうじゃないんだけど、簡単にそこから逃げ出すことは出来ない。なぜなら子供たちは、その狭い世界しか知らないからだ。でも、ずっとずっと付きまとう厄介な世界だ。そこで息をしているだけで精一杯の人もいるだろう。

だから、かつての私のように苦しんでいる子供たちを救えるのは私たち大人しかいないのではないだろうか。

大人たちが、「君が生きる世界はそんなに狭くないよ」「学校だけがすべてじゃないよ」と手を差し伸べてあげること。

子供たちは、その差し伸べられた手を待っている。 

出来ることなら、私がその一人でありたい。

だから私は、この文章を書いているんだ。


今も苦しんでいる、誰かの心に届くことを願って。

毎日、「死にたい」と思いながら生きているあなたが勇気を持てますように。

勇気を持てたあなたに寄り添ってくれるであろう大人たちにあなたの声が届くことを祈って。


学校だけがすべてじゃない。

だから、自分が安心出来る居場所を作ろう。

まずは、自分の心と体を守ろう。

逃げ出したっていいじゃない。

逃げることは悪いことじゃない、自分を守ることだ。


あなたは、きっと大丈夫。

自分自身を大切に出来るあなたは、これからも生きていける。今は我慢のときかもしれないけれど、きっといつかあなたの流してきた涙が無駄にならない未来がやって来るよ。だから一緒に、その未来がやってくるのを待とう。


無理をせず、未来を見てゆっくり一歩ずつ。


そしていつか、自分が自分らしく生きられる場所を見つければいい。


そこが、あなたの世界だ。


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参加させていただきました。

この企画が無ければ、きっと私はあの頃のことをこんなにも深く書けなかったと思います。

このような機会をいただき、本当にありがとうございました。

誰かの心に届いていることを願います。




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