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405/1000 【覚悟の果て】 大河ドラマ 「麒麟がくる」 第44話

覚悟に果てはありませぬ

どこまでもどこまでもまっすぐな光秀でありました。

6月2日払暁、攻め入る相手が桔梗の紋と聞いた信長様が発した「是非もない」の、なんと清しいこと。何をやっても何故か褒められない、それでも滾る血を自分では抑えられない。眠りたいのに眠れない。そんな日々がやっと終わる。

しかもその幕を下ろしてくれるのは他でもない、最後の最後まできっと側にいて欲しかった光秀その人。それを知った信長の安堵以外の何ものでもない表情に胸が締め付けられました。

そこには裏切りに対する愕然や呆然の感情は微塵もありませんでした。他の人間は恐るばかりで何もしてこなかったけれど、光秀だけは、命にかけても諌めようとしてくれた。感謝の念すら見えたように思います

わしを変えたのは戦か?違う。乱れた世を変え、大きな世を作れとわしの背中を押したのは誰じゃ。そなたがわしを変えたのじゃ。

攻め入る明智軍を相手に槍を奮う信長の姿は、最後の舞台で舞いを舞っているようでした。ああ、だからただの「敦盛」は不要だったのだ。境内で精一杯槍を振り回し、折れたら力尽きるまで長刀を振るっている間、信長様は命を賭けた「夢幻の如くなり」を歌舞いていたのです。

切腹の瞬間も一切見せませんでした。事切れた後、小さく蹲ったままの信長さまの骸は、小さな子供が遊び疲れてことんと眠ってしまったようでした。電池が切れた子供って、あんな風に2つ折りの携帯みたいに眠っていることありませんか?あんな感じ。

真剣に100%で対峙して欲しい、愛して欲しいと周りの人間にずっとせがんでいた子供の渇望に、きちんと臆することなく応えられ、その子供を寝かせつけられたのは、光秀だけだったのです。

花を見、川を渡り己の行くべき所へ行く者をただ見守るだけぞ

本能寺の後、光秀の味方に馳せ参じる者は誰もいなかったことは史実だけれど、その理由は何も解き明かされません。何のジャッジもされません。

其々思うところはあったはずです。でもその思いはご本人にしか分かりません。ましてや光秀には。だから何も描かれませんでした。

光秀もきっと、馳せ参じて来なかった彼らに対して、何も含むことはなかったのではないでしょうか。例え山崎の合戦を生き延びていたとしても。

我が敵は、本能寺にある。その名は、織田信長と申す。信長さまを打ち、心あるものと手を携え、世を平らかにしていく。それが我役目と思うに至った。

どこまでも冷静に大局を見据え、決断していった光秀。

それを察知し秀吉に伝える細川藤孝。爬虫類のような瞳でその後を瞬時に見図る秀吉。

麒麟が来るのは、彼らが見ている未来よりももう少し先にある。それは後世の歴史家だけが知っていること。

だけど、もしかしたら光秀は生きて家康の御世の到来を山に吹く風の噂にでも聞いたかも知れません。

終盤、帝と東庵先生がサイコロに興じ始めた時は、「直虎」のエンディングの再来か?!と一瞬モヤモヤしましたが、その後の馬かける十兵衛さんの希望の背中にその懸念は露と消えました。

そうきたか。

こんなにも明智光秀のイメージが変わった大河はありませんでした。今後はこの光秀像がスタンダードになるのでしょうか。はたまた映画「関ヶ原」が公開された後であっても(そもそも小説があったとしても)一般の石田三成像がさほど変わらなかったように、光秀もさほど変わらなかったりするのでしょうか。

直近だと、2023年の「どうする家康」の明智光秀が楽しみです。

それまでには今の麒麟ロスも癒えている... に違いない。(号泣)

明日も良い日に。









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