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【飢える権利】 舞台 「ピサロ」
彼らは飢える権利を奪われているのです
無抵抗なインカの民を弑虐したことを、ピサロと同行したスペイン人神父はこんな言葉で正当化する。
インカの民のように、完全に満たされてしまった民からは、自らを変える機会が奪われてしまうのだと。
欲望は人間が生来持つ権利なのだと。
その言葉通り、スペインからの侵略者らは欲望のままに手に入れる。黄金を。女性を。土人の奴隷たちを。
だが、彼らはやがて恐怖するようになる。
太陽神、アタウワルパを。彼を慕う人々が自分たちに刃を向ける可能性を。
どんなに良い時間でも、間延びさせると蛆虫が湧く。
ピサロはアタウワルパと過ごす思いがけない満ち足りた時間を長らえさせたいとは思わなかったのだろうか。
これまで生きていた時間という檻、人生という枷に、晩年になって、故郷からこんなに遠い国で気付くピサロの姿が重たかった。
業に悩み、のたうち回るピサロとは対照的に、アタウワルパの太陽神は、どこまでも揺るがなかった。
フランス王家でいうメタファーとしての「太陽神」ではない、真の意味での太陽である王がそこにいた。
西洋側の、(ひいては現代の)欲望が深まれば深まるほど、アタウワルパは輝きを増していた。
太陽も眠る
処刑後も、明日の日の出と共にまた起きてきそうなほどに。
神の名にかけて戦争を許す、殺すことを許す。殺人が祝福される。
そんな言い訳が許されるのは人間界だけ。欲望を権利化するのも「原罪」を背負う人間だけ。それでも人は人と繋がることをやめられない。愛は自らを変える権利の行使の一つであるかのように。
でもそんな関係性での信頼とはなんだろう。エクスキューズに使われない愛って、一体なんだろう。
最後の夜、アタウワルパに懺悔を聞いてもらうピサロ。司祭にさえ懺悔している様子の無かったピサロは一体異国の孤高の王になにを聞いて貰ったのだろう。
色んな思いがグルグルする。
昨年、1回目の緊急事態宣言とドン被りした為、40回強あったはずの公演が10回になってしまった。
それを経ての公演は、ステージングもずいぶん変わっていた。生々しさや「先進国」の業の闇が深くなった分、太陽神が眩かった。
今回は、どうかどうか、最後まで公演できますように。
昨年、奇跡的に見ていた際に書いたのが以下。冒頭アタウワルパの神々しさは、昨年の演出の方が印象的だったのだけど、これは初見を経ての期待値の差かなあ。
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