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Hiphopという文化について、と蛇足

Hiphopを聞くことにおいて、無視できないのは、無視してはならないのは、文化の狭量さが生み出す反差別に迎合する差別構造と、無知と反知性が生み出す無自覚な差別構造である。

Hiphopとは、先述したように、低所得階級の、異性愛者の黒人男性によって作り出される文化である。この本質は絶対に変わらない。Hiphopとは、ひいては文化や伝統とは、常に狭量で、本質的な変化を拒み続ける。むしろ、そこにのみ定義される。

低所得階級であるとは、自身のフッドが狂っていること、いかにThugな生き方をしてきたかを表す。これをKanye Westが表面上克服した。中産階級のKanye Westは狂ったフッドを持たない。しかし、フッドをアメリカ全土に据えることで、狂ったフッドを持ちえた。これをきっかけに今日では必ずしもborn brokeである必要はなくなった。これは、誰かの功績というよりは、Hiphopという文化が大衆に求められるようになった、商業的になったことが最も大きな要因である。

異性愛者のものであるという縛りは、Odd Futureがこれも"表面上"打ち破った。同性愛者のTyler The Creator(?)とFrank Oceanを含む16人組のそれぞれユニークなクルーは、Hiphop界に蔓延するホモフォビアを、ゲームで無視出来ない存在にまで成り上がることで振り切った。これも、Odd Futureの功績というよりは、商業的に日の目を浴びたHiphopが、現代的なポリコレに迎合する形で受け入れられてきた、といえる。

また、黒人の文化だとされていたHiphopを変えたのはEminemだと言われている。しかし、私はその功績の一端を認めるが、それが主要な要因ではないと考える。Eminemは、決して白人であることを主張することはしなかった。黒人らしい白人であり続けた。Hiphopという文化に跪いた。低所得階級に生まれ、Nワードを決して使わず、異性をモノ化し、同性愛者をヘイトした。それによってEminemは白人でありながら、黒人からも認められた。無論Eminemのラップの才能が飛び抜けていたことも要因である。しかしそれは、"肌の白い黒人として"であった。私は、結局これも大衆化が要因だと考える。黒人からしてみれば、白人やアジア人のラップはまさしく文化の盗用である。しかし、その主張は時間の経過とともに、圧倒的な量によって覆された。いまやどの国のどんな音楽にもラップや押韻が使われる。

さらに、女性がラップすることについては、Nicki Minajの功績が大きいだろう。もちろんLauryn Hillも重要だが、ゲームに本格的に関わり始めたのはNickiからだと考える。Hiphopのミソジニー的な部分は、スラングからも多く現れている。物質主義である本来的なHiphopの土壌は、金と名誉の証として女性を見る。Nickiはそこで戦い、名声を勝ち得た。今日ではたくさんの女性ラッパーがチャートに名を連ねる。しかし、Nickiは、「女性は男性の2倍努力しても、男性同業者の半分の尊敬しか得られない。 」と述べ、KendrickがNickiを嫌っているのは黒人男性が多いと指摘したように、未だ反発が多くある。

これら全ては、Hiphopという文化が大衆に降りてきたため、変化し、矯正されざるをえなかったことが最大の要因である。こうして一見すると、万事が解決に向かっていると思える。しかし、実際はそうではない。Hiphopは、異性愛者の黒人男性の文化は、多くの疑問と矛盾とダブルスタンダードを孕んでいる。

まず、低所得階級の、という前提については、ほとんどその必要性から脱したように思われる。Travis Scottを始め、裕福な家庭で育ったラッパーも大きな反発はなく認められる。ただ、Drakeのような道筋を辿るラッパーを煙たがるリスナーも少なくない。

次に、同性愛者差別について、記憶に新しいのはDababyである。DababyはRolling Loudにて、HIV感染者と同性愛者への差別発言をした。これを受けて多くのライブがキャンセルされ、多くの同業者からも批判され、昔から同性愛差別に反対していたKanye Westに至っては、Dababyとのコラボ曲を配信サービスのディスコグラフィーから削除した。Dababyは、今までのキャリアを目に見える形で一気に地に落とした。
もう少し前になると、思い出すのはEminemのTylerディスである。
Eminemはポリコレ的には最悪のラッパーだ。ホモフォビア、ナチュラルなアジアンヘイト、ミソジニーなど黒人差別以外のポリコレにだいたい抵触する。
昔はある程度仕方がないとしても、最近、Tyler The Creatorに対して「Tyler create nothin'」と同性愛者である(?)Tylerを揶揄したリリックがあった。Eminemは同性婚が認められる前から同性婚に寛容で、相手のセクシャリティを全く気にしないと公言しながら、これを言った。EminemはHiphopに呪われている。
これらを受けて多くのZ世代は、Eminemをキャンセルカルチャーの中心に据え、Eminemがこれに対するアンサーソングを発表するほど大きなムーブメントとなっている。
また、ASAP Rockyは自身が以前ホモフォビアであったことを認め、後悔と自責の念を口にしたように、Hiphopの土壌、教育が行き届いていない錯乱した環境においては仕方がないのかもしれない。しかし、侮蔑的なスラングが当たり前だったY世代より上のリスナー、この種の話題に無関心なリスナーは、これらを全く気にしない。

次に、人種問題に関していえば、Hiphopはその本来的なカウンターカルチャーによる根深い逆差別と矛盾、ダブルスタンダードが蔓延っている。
まず、Nワードの使用について。Nワードは白人が黒人奴隷を指して使う差別用語であったが、黒人同士で使われる際には軽い挨拶となる。この言葉に関していえば、黒人やそのルーツを持つ人のみに特権的に語の使用が認められている。
以前、Kendrick Lamarがライブで、パフォーマンスの一環として、白人女性のファンをステージにあげ、「m.A.A.d city」を歌わせた。この曲はNワードが十数回登場する曲だ。そこでKendrickはNワードを口にしてしまった女性を大勢の観客の前で諌めた。これに対して他の観客は、彼女に対して一斉にブーイング、Fワードをしきりに投げかけた。
この出来事から分かるように、Nワードは絶対に白人やアジアンが口にしてはならない言葉なのだ。まず、これを認めるものとしよう。
しかし、Kendrickは以前白人差別用語を使用したことがあり、かつスラングとして本来の意味は薄れてはいるが、性差別用語も多用する。「Fuck Your Ethnicity」という楽曲をリリースしながらだ。これは明らかに矛盾しているし、ダブルスタンダードだ。
他の黒人ラッパーも、Nワードを規制しながら、(もちろん今は多くの批判を浴びるため使用されることは少ないが)白人差別用語やアジアン差別用語、性差別用語、前述のように同性愛差別用語を盛んに使用していた。
また、黒人は奴隷制の余波を未だに受けているが、今生きている白人は、黒人を統治していた当時の白人とは全く関係がない。人種差別的な思想を持たない白人を、先祖を奴隷にした奴の先祖だ、俺に対して酷い扱いをした奴と同じ肌の色だと認知し、Nワードの使用を禁じるのは、どうにもならないもので人を測る行為であり、それこそ本当の差別だ。
Nワードという差別用語を黒人やそのつながりを持つ人だけが使用して良いのだという主張は、人種の分断を煽ることになり、反差別を訴えるのならば、どう転んでもダブルスタンダードになる。
Nワードの使用に関して取られる立場は主に3つある。1、黒人コミュニティ以外で使用してはならない。2、特別な意味があれば許される。3、誰も使用してはならない。私は、1の立場をとりながら、最終的には3が理想だと考える。これは主張に整合性を持たせるためであり、Ethnicityを本当にFuckだと思うがゆえである。しかし、黒人が被差別側として独自もコミュニティを築き、排他的なほど同人種の結びつきを強める気持ちは痛いほど分かる。そのため、一口に矛盾だ、ダブスタだといっても、この問題を外から易々と批判することはできない。
また、この種のカウンターカルチャーから生まれる白人と黒人間の差別やダブルスタンダードとは別に、アジアンへのヘイトや侮蔑は無自覚に行われる。
例えば、weedを吸った際に目が細くなることに由来する、アジアンの目の造形への揶揄が慣用的に用いられる。その他直接的なワードも使われてきた。
また、グラミー賞候補となったFreddie gibbsのアルバム「Alfredo」のイントロダクション「1985」では「Bomb on n***as like Nagasaki」というリリックがある。
同じくグラミー賞候補のJay electronicaのアルバム「A Written Testimony」中の楽曲「Universal Soldier」ではイントロに本筋と関係のない広島への原爆投下当時のニュースがそのままサンプリングされている。Eminemを始め、多くのラッパーは原爆や神風特攻隊を単にイケてるワードとして消費する。
そしてこれらは、グラミー候補に名があがるほど権威を与えられていることからも分かるように、全く問題にされていない。アジアンは、白人にも黒人にも差別されうる立場にあり、かつ世界から無配慮である。

最後に、性差別について、Hiphopは、おそらく現存する中で最もマッチョで、最も酷いホモソーシャル的な文化、コミュニティだ。性差別がそれほど問題にされていなかった時代からスラングとして女性差別用語が今も残り続けているし、今でもモノ化は止まらない。それは無自覚に行われる。
しかし、これもHiphopが生まれる環境を知れば、強い言葉で非難することは難しい。ミソジニーはもちろん罪であるが、私が例えばコンプトンに生まれて、それでもなおミソジニストにならないかと問われると、全く自信がない。呪われた環境を肯定するためには、物質主義とマッチョイズムに呪われたこの文化に身を置かなければならないのだ。

これら全ての差別は、今まで正される必要性がなかった。なぜなら、西洋哲学の毒に犯された世界によって、完全に見放されたコミュニティにおいてのみなされていたことだからだ。荒廃したまま閉ざされたコミュニティは、白人社会への憎しみを大きくし、黒人間の結び付きを強め、マッチョイズムを崇拝し、差別を増長させた。
その最中で白人たちがHiphopの上澄みをかっさらい、大衆化され、白人たちに所有され、半ば強制的に変革させられる。白人たちが作った倫理観において奴隷とされていたのに、また新たな白人たちの倫理観によって裁かれ、はみ出したら矯められる。この世界の縮図ともいえる状況を前にして、Nワードの制限や文化の盗用だとかを主張することはごく自然なことで、正当であるとさえ思われる。

ここまで考えが及ばず、ただ事実とデータのコンテクストを顧慮せず、それのみで判断するのは知性として劣等だ。(以下劣等知性)
紀元後から科学革命とカント以前まで、知性とは、良くも悪くも、キリスト教教義において規定された。つまり、隣人愛を重要な教義に据えるキリスト教の範囲においてなされる知性は、必ず人間愛を伴った。パスカルのパンセに代表されるように、知ることで他者を愛し、赦すことが知性だとされていた。
しかし、今日の知性は、科学と事実に基づく客観的な倫理的価値観、というよりむしろ、非現実的な絶対的倫理的価値観において規定されている。このことは、十分に理性的でない人、つまり常に自己懐疑的でない人の劣等知性を増大させる。("自己懐疑的であることは、理性的であることの最低条件")
知性は、事実の背景を知ることが前提の上で成り立つ。

また、知性の対極にあり、この知性を圧倒的に凌駕する数の力を持ち、主観的な非倫理的かつ非科学的かつ事実に基づかない思想を共有し合うのがSNSである。ファクトチェックされていない事柄を元に、もはや事実や事態すら必要としない事実に似せた嘘や感想を元に、同じ思想を持った名前も姿かたちも責任の所在すら持たない全く未知の人間同士が、閉鎖的な論理空間を作り出し、誤りが一切正されないまま、正される必要性すら持たないまま、エコーチェンバーを引き起こす。まさしくHiphopの悪しき道筋を、コンテクストの正当性を欠いたまま、世界中が辿っているのである。SNSは、反知性主義の代表格であり、有史以降最大にして最悪の思想共有ツールだ。そういった批判さえ閉鎖的な論理空間の中で消費されるだけである。

これら劣等知性、反知性を克服した知性が今日の知性だとされるわけだが、この知性は人類に無知であり、人類を憎む。それ故にこの知性の価値観は、現実と乖離する。自分以外の人類の愚かさを嘆きながら、人類がおしなべて十分に理性的であり、ありとあらゆる立場、ドグマから逃れえた、いわゆるFree thinkerであると撞着した勘違いしている。
反知性主義者に、理論で諭すことは、イスラム教徒に豚を食わせるようなものである。そもそも、対話は、お互いが立場上でも精神上でも明確な上下関係にあるか、自らの全てが変化することをお互いに了解しながらでしかありえない。前者は単なる洗脳であり、後者は立場も環境もドグマも違うのだから、ほとんど成しえない。つまり、対話はありえない。再三いうが、理論家は、理屈で説明できない事柄があることを知らない。今日の知性は、およそ極端である。
私は、キリスト的知性と、今日の論理的な知性の中庸こそが真の知性ではないかと考える。極端な思想を引き戻す役割が知性であると考える。
そしてこの知性は、畢竟ブッタの知性だ。

一ついえることは、多くの人たちは、ここまで考えずに、例えばHiphopを聞いている。それは間違いではないが、不愉快だ。問題意識が持たないことが不愉快なのではない。問題意識から逃れられるように生まれることができたことが不愉快なのだ。
皆、意識から逃れえている。例えに労働をとってみても、皆休暇を期待しながら労働し、労働を予感しながら休むのだ。この残酷な繰り返しを、大多数の人間が既に解しえている。拘束されることを厭わない。これは驚くべきことであると同時に、本当に不愉快な事実だ。皆頑張っている、頑張りえているという事実は、尊い事実であると同時に、とてつもなく不愉快な事実だ。
そして、悩んだ末の、正解に近い解答は、往々にして不愉快な解答である。最も不愉快な解答は、ロカンタンがそうであったように、全て自分のせいであるという解答だ。そしてこれはあらゆる場合において最も正解に近い。例えば黒人差別は、私が認知しなければ存在しない。全ては、私の表象である。つまり黒人差別の原因は、私にあるともいえる。これを転嫁しうるものがアンチナタリズムだ。全てが親や先祖のせいになる。存在するのならば、神のせいになる。
この無為な思想から逃れたいのであれば、全て自分のせいであるから、その解決は、忘我しかありえない。私たちは、究極の忘我を知っている。

理性は元より、知性は、それがキリスト的知性であれ、理性的知性であれ、仏教的知性であれ、同一の結論を導き出す。
「生まれない方がよかった。」
それは、召天であり、アンチナタリズムであり、解脱である。
究極の自由、つまり可能性が可能性のまま埋葬され、起ることは起こらず、起こらないことすら起こらない。
しかし、生まれた。死ねないのであれば、生きなければならない。

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