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【41】動作学的 幸福論(2)

幸せを感じて生きたいなら、まずは何よりも自分に矢印を向けるしかない、ということを前回の動作学的 幸福論(1)でお話しました。

自分に矢印を向けるというのは、簡単に言えば、どんな出来事に対しても、幸せを選択するか否かの主導権は自分にあると知っていること、そしてその主導権を取り戻すこと、です。

もちろん、主導権を取り戻したからといって、嫌な出来事や不快な状況が消えてなくなることはそうそうありません。ただ、確実に変化は起こせます。

この場合の変化には大きく二つあります。

一つは、周りの環境や関わる相手といった、自分の力だけではどうにもできないことに労力を使わなくなるという変化。結果、ストレスが減りますし、その分の労力を他のことに使える余裕が生まれます。

もう一つの変化は、自分の力で変えられることの方に注力することで、実際に起きる変化です。

具体的に見てみましょう。

主導権を取り戻すことと幸せの関係

たとえば、いつも待ち合わせに遅刻してくる友人に、腹を立てているとします。

あなたは「どうすれば遅刻はよくないことだと理解してもらえるだろう?」「どう伝えれば遅刻されることが本当に嫌だってことをわかってくれるだろう?」と、遅刻の是非について力説したり、自分の気持ちを正直に伝えたり、できることは全て実行しました。

この場合、あなたは自分が幸せになるためにできる行動をしているように感じます。でも、よく見ていくと、前述したような行動のベースには「友人が遅刻しなければ自分が腹を立てることはない」という考えがあります。つまり、自分の腹が立つのは友人が遅刻するからであって、友人が遅刻しなければ自分の腹は立たないという考えです。これって、言い換えると、あなたの腹が立つか否かは友人の行動次第ということで、主導権は友人の方にある状態です。

もちろん、友人が変わってくれたらいいな、と思うことは悪いことではありません。でも、その友人がそもそも「遅刻は悪いものではない」という価値観を持っているとしたら、あなたがそれを変えるのは簡単でないでしょうし、簡単でないことにエネルギーを費やすのは消耗です。しかも、どれだけ消耗しても、友人の遅刻癖が変わらない限りあなたの腹が立つことも変わりません。

一方、自分に主導権を取り戻すと、「友人がいつも遅刻する」という出来事に対して、「あの人が遅刻してきても自分がハッピーでいられるために自分ができることをしよう」と考えて行動することができるようになります。

その行動とは、もしかしたら、友人には30分早めの待ち合わせ時間を伝えておくという古典的な対策かもしれません。はたまた、待たされる時間でやれる楽しみを新たに見出すことかもしれません。人によっては、自分の中にある遅刻に関する思い込み、過去の感情などをケアする必要が出てくるかもしれません。極論ですが、その友人とは距離を置くこともできなくはありません。

いずれにしても、あなたが腹を立てなくて済むようにあなたができることをあなたがするわけですから、全て自分主導で実行ができます。実行することで、友人が遅刻するという状況は変わらないかもしれませんが、あなたが腹を立てることは減るというふうに変化が起こります。

主導権を取り戻して幸せを選ぶというのはそういうことなんです。本当に小さな選択なんですね。

幸せを選んでもつらく苦しいとしたら

現実的なことを言えば、遅刻癖のある友人に腹が立つくらいは不快でこそあれ困難なことではないので、主導権を取り戻すのはさほど難しくありません。

難しくなるのは、もっと嫌なこと、想像するのもつらいようなことが起こった時です。

たとえば、失職、事故、病気、大切な人の死…つらく苦しい出来事が起こった時、それでも自分で主導権を握って幸せを選択しろというのは、無理難題だと感じることはままあります。

そうした時にも幸せを自分で選べというのは、誤解を生みがちな表現でもあるので、ここで言う幸せを選ぶとはどういうことか、少し補足させてください。

まずお伝えしたいのは、幸せを選ぶことは、悲しみ、つらさ、混乱など、あなたから出てくる、一見幸せそうでないアウトプットを否定することでも、抑え込むことでもない、ということです。(関連記事【02】

もう一つ明確にしておきたいのは、幸せを感じる選択をすることは、あなたが今すぐこの瞬間に笑顔になることを選ぶこととは限らないということです。

生命(いのち)の仕組みという本質に立ち返ると、基本的にはあなたの生命(いのち)が本来持っている生きるパワーを引き出す方を選ぶことが幸せを選ぶということです。ですから、幸せを選んでいるのに、つらい、しんどいと感じたり、幸せを選ぶなんてとてもできないと感じたりしているとしたら、パワーを引き出す方を選べていない、つまり選んでいることが本当の意味での幸せにはつながっていないということなんです。

同じことは、よく言われる「前向きに考える」「ポジティブ思考でいく」ということにも当てはまります。

時には、号泣することや、悲しみにくれることがパワーを引き出すこと、つまり前向きでポジティブな選択になる可能性もあるのに、前向き、ポジティブであろうとするがあまりに、生命(いのち)のシステム全体としての前向き、ポジティブな選択とはズレてしまうことがあるんです。

そんな時にはどうすればいいかというと、一つ言えるのは常に自分の感覚を大事にしていただきたいということ。それこそが自分に矢印を向ける、主導権を握る、ということなんですね。そのうえで、もう一つ、実践的な知恵としてお伝えできるのは、「全ては最善である」という前提を持ってみることです。

これは言葉通り、何が起こっても自分にとって最も善いことが起こっているという前提で出来事を見てみる、ということ。

もちろん、つらい出来事が起こるのはつらいですし、それがつらいことであればあるほど、最善などと思うことは難しいです。

でも、思えなくていいんです。信じられなくて構いません。ただ、「もしもこの出来事が自分の人生において最善なのだとしたら」という仮定で見てみることができれば花マルです。

そう。起こっている出来事が最善だと思えなくても、最善だとはとても信じられなくても、最善だとしたらという視点で見てみるということはできるはずなんですね。

これはあくまでも幸せを感じて生きるための知恵の一つですから、起こっている出来事が本当に最善かどうかは、重要ではありません。大事なのは頑張って視点を変えて見てみるという行為の方なんです。

その行為がどうあなたの幸せにつながるのか、続きは次回にさせていただきたいと思いますが、もしよければ、ぜひ今日から「これが最善である」という前提を持って出来事を見てみることを試しにやってみていただけないでしょうか。ご自身で実験していただいてから次回をお読みいただくと、きっと面白さをより実感していただけると思います。