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自分らしさって

心の声を聞く。これは、自分らしく生きるにあたってのおそらく必須項目でしょう。

ただ、心の声という表現は思いのほか曖昧です。

湧き出てくる感情も心でしょうし、思考もまた見えないという点では心と捉えられなくありませんし、このマガジンでよくお伝えする感性も心の声の一種と言えます。

心の声を、頭の声と区別する向きもありますが、その違いはちょっと感覚的。わかりづらい人もいると思うんです。

で、動作学です。

内輪褒めで恐縮ですが、動作学チームの川尻隆は、いわゆる「心の声を聞く」ことを、「己の感性・価値観に従う」と表現しているのが秀逸だと改めて思っているんです。

感性と価値観の違い

感性というのは、「なんとなくそう感じる」とか「ふと閃いた」というような、おそらく多くの人が直感というのに近い感覚です。

感性は「あらゆる情報をインプット」→「脳がそれらをプロセスする」→「その瞬間の最善のアウトプットが出てくる」というふうに生命のシステムの循環を経て出てくるもの。

生命のシステムの循環は大部分(一般には9割と言われています)が意識できない領域なので、感性の囁きは、時に合理的でないようこと、なんら脈略がないようなこと、どう考えても非効率的なことだったりします。

一方、価値観は、簡単にいえば好み。

生まれながらに備えているものもあるかもしれませんが、基本的には生きていく中で体験を通して身につけていくものです。

たとえば、アイスクリームを食べたことがなければ、それが好きか嫌いかそもそもわかりませんが、食べるという経験をして、自分はこれが好きだ、という価値観を持つわけです。

だから、価値観は、経験に応じて変わります。

ただ、大人になるにつれ、真新しいことをする機会は減りがちで、必然、価値観が大きく変わることも少なくなります。

それが悪いわけではないけれど、進化成長を促すという点でいえば、すでに持っている価値観によってインプットの視点が限定されていないか、疑ってみることも重要だったりします。

そんなわけで、変化を促したかった筆者は今年の初めから、好き嫌いで判断せずに新しいことにチャレンジするという試みを意識的に続けてきました。

何を選んでも正解なのに

ところが、最近、ふと我に返ったんです。

「新しいことをしないと!」と思いすぎている、と。

期待した結果を得たいがために「最良の選択をしたい」と考えて、その結果「間違った選択はしたくない」というような思考になりかけていたことに気づいたんです。

最良の選択をしたい。

間違った選択はしたくない。

これ、私だけじゃないと思うんです。

でも、この考えって、自分の感性や価値観に優劣、もしくは正解・不正解があるという前提に立ってるんですよね。

突き詰めていくと、自分から出てくるものには良いものと、そうでないものがあると思っているということもなって、自己を全部受容するというところからは遠のくから、しんどくなってくるんです。

思うに、「これをやりたい!」という気持ちと、「やりたくないなぁ」というような気持ち、相反する声が自分の中に共存することがあるから、選択するにあたっての判断基準がほしくなっちゃうんです。だから、つい「良い方」を選びたいと考えちゃうんです。

でも、動作学のレンズで世界を見ると、AをやったからA’になった、というような直線的な因果関係で出来事が起こることはまずなくて、Aをやったらその周りのBとC、Dと相互作用が起こってEが起こったというふうに物事は展開していくんです。

何が言いたいかというと、期待した結果を得るためには何が最良の選択かなどまずわかりようがないってことです。それどころか、どの選択をしたとしても、その選択が周囲のいろんな要素と互いに影響を受けあって自分自身と周りの環境の中でのベストがアウトプットとして出てくるというだけ。そういう意味では何を選んだとしてもベストしか起こらないんです。

だから、大事なのは、何を選択するかではなく、自分で選択するということなんじゃないでしょうか。

それが感性でも価値観でも、誤解を恐れずにいえばたとえ固定観念であったとしても、自分で決めたと胸を張れるならそれが自分らしさ。

それでいうと、新しいことを頑張っていたのは自らの選択だったから私は私らしくやっていただけ。疲れて立ち止まったのも私の選択だから私らしさ。良い悪いはなくて全部ベストなのです。