【43】動作学的 幸福論(4)
「今を生きる」。これは古今東西、さまざまな形で説かれてきた幸せの秘訣の一つです。
そのことを昨今、一般に広く浸透させた立役者はマインドフルネスかもしれません。
マインドフルネスは、禅の考え方をもとにしてアメリカを中心に発展したもの。ものすごく簡単に言えば、「今ここ」で起きていることに意識を向ければ不安やストレスが軽減するということを科学的に研究して体系立てたものです。
「今ここ」に意識を向けるというのは、言い換えると、その瞬間に体験していることを感じる、ということ。「今を生きる」も、ここでは似たような意味と解釈して使っていますが、いずれも口で言うほど簡単でないことは、多くの人が感じていることでしょう。
だからこそ、「今ここ」にいられるための方法としてマインドフルネスが注目を集めているのでしょうが、この動作学的 幸福論シリーズでお伝えしてきた「全ては最善だという前提を持つ」ことも、実を言うと「今ここ」に集中するための一つの方法なんです。
どういうことか、ちょっと説明させてください。
過去を反省しても未来はよくならない
「全ては最善である」という前提を持つことで最も変わることの一つは、一見すると「問題」と思われる出来事があった時に、原因探しに時間を費やすことがなくなることです。
原因探しは、たいていの場合、意識を過去に向かわせます。
もちろん、多くの方は、くよくよ悩むためではなく、同じ失敗をしないため、より良く改善するため、という前向きな姿勢で過去を振り返ると思います。が、動作学のレンズを通して見ると、現在起きていることの原因が過去の何か一点だけにあることはありません。だから、誤解を恐れずに言えば、原因探しは徒労です。
たとえば、寝坊して遅刻してしまったとします。
寝坊したのは昨晩の飲みすぎが原因だと分析したあなたは、これからは飲みすぎないと決意して、実行を試みます。
でも、そもそもなぜ飲み過ぎたかというとストレスが溜まっていたからかもしれません。なぜストレスが溜まっていたかというと、仕事のプレッシャーが大きかったのかもしれません。とはいえ、仕事のプレッシャーが大きくても、夫婦仲がうまくいっていればオフセットできていたかもしれません。ということは、夫婦仲の問題もまた寝坊したことと無関係ではない…というふうに、全てが相互に作用しあって出来事は起こるんですね。
つまり何が言いたいかというと、寝坊したという現在の出来事は、過去の飲みすぎという行動だけが原因で起こったとは言えないということ。もっと言えば、飲みすぎという行動だけを変えようとしても、それは本質的な部分を変えるわけではないので、似たような出来事はきっとまた起こる、ということでもあります。
では本質から変えるにはどうすればいいかというと、動作学ではお馴染み、インプットを変えればいいんですね。インプットを変えるというのは、シンプルに今現在のあなたのインプットの量と質を変えていくことであって、どこをどう変えればいいか、過去の反省から見つけ出す必要はないんです。
…と小難しいことを書きましたが、そもそもは、起こっていることを「問題」と捉えるから、「原因」を見つけたくなって、過去に意識がいくのですね。
「全ては最善だ」という前提を持つことは、その「そもそも」の部分を変えることなんです。
何が起こって「そもそも最善なことが起こっている」と見られるようになると、どんな出来事も「問題」とは見なくなるので、必然、「原因」を探すために過去を振り返ることが減ります。
嫌なことが起こっても、ごくニュートラルに受け取ることができるようになるので、その時の自分の感情だったり、今できることは何かという思考だったり、「今ここ」の自分に意識を向けやすくなるのです。
未来の幸せのために今を犠牲にしない
私たちの意識が「今ここ」を離れる時、過去以外によくいくところと言えば、未来です。
ものすごくよくあるのは、未来予想図をベースに今の行動を選ぶこと。
たとえば、「将来が不安だから今は節約して貯金する」などです。
未来に対する不安がベースなのか、未来に思い描く理想像がベースなのか、それぞれありますが、いずれにしても未来のイメージが今現在の行動に影響することはままあります。
もちろん、未来をイメージして動くことは、人間の才能の一つでもあって、それ自体は何ら問題ではありません。
ただ、「今ここ」を大切にするという観点で言えば、未来の不安や、未来の理想のために、今を犠牲にしていないかどうかは、見ておきたいところ。
おそらく、不安に備えることも、理想に向かって努力することも、突き詰めると、目指しているのは幸せなのだと思うのです。
でも、未来の幸せのために今の幸せをないがしろにしているとしたら、本末転倒です。
「いやいや、備えることで今、安心できるんだよ」「夢があるから頑張れるんだ」
言葉にするとその通りに聞こえますが、実際にはこの二つはいずれもその人から出てくるアウトプットでしかありません。
つまり、「備える=安心できる」「夢がある=頑張れる」という図式は、そういう思考回路を持っている人にとって現実であっても、客観的な事実ではないんですね。
逆にいうと、そういう思考回路を持っているから、安心するために備えなきゃいけないし、頑張るためには理由がなくちゃいけないという状態を自ら生み出しているいうことでもあるんです。
「全ては最善である」という前提を持つことは、その思考回路を変える訓練になります。
何が起きても、起きなくても、全てが最善だと半ば強制的に見るようにする…すると、「安心のために備えなきゃ」「夢のために頑張らなきゃ」というふうに力んでいた心身が少し緩んで、「今ここ」を感じられる余裕が生まれます。
以前にも書きましたが、「全ては最善である」というのは、あくまでそういう前提で物事を見てみるということですから、そう信じられなくても、そう思えなくても、かまいません。
それでも、とにかく意識してやり続けると、やがて脳内の思考回路が変わって、特別に意識しなくても「全ては最善である」と見られようになるんですね。
そして、「全ては最善である」と自然に見られるようになった頃には、「今ここ」を感じることがなぜ「幸せ」なのか、説明など要することなく、ご自身の体感として深く理解されていることだろうと思います。