性善説? 性悪説?
いきなりですが、性善説と性悪説、皆さんはどちらの立場ですか?
ウィキペディアによると、性善説は「人はみな生まれつき善の性質を持つ」という説で、性悪説は「人はみな生まれつき悪の性質を持つ」という説。
「どちらが正しいか?」という論争もあるようですが、動作学の見地から一つ言えることは、性善説も性悪説もどちらも「前提」の話だということです。
前提は、インプット・プロセス・アウトプット(知覚行為循環)という生命のシステムのプロセスの部分に関わってくる“フィルター”です。
どういう前提を置いているかによって、インプットした情報の処理のされ方が変わって、結果として出てくるアウトプットが変わるんですね。
まずは自分の前提に気づくこと
では、自分はどういう前提を持っているのか?
気づくためには自分の思考を客観的に観察してみることが有効かと思います。
自分の思考を客観視するためには、思考というのは何であれ世界に存在する数多の視点の一つでしかない、ということを知っておくこと。そして、思考は流動的に変化するのが自然で、一つの思考が自分や物事の全体を表しているわけではない、ということを理解しておくことも重要でしょう。
複雑になりそうなので具体例でいきます。
筆者は広告の文案を作るコピーライターだったこともあって、「人は他人の文章に興味はない」という前提を徹底的に叩き込まれました。だから、興味がない人を振り向かせて心をつかむという気概を持って書かないといけない、と。
これはもちろん、ある面から見たら事実でしょう。
でも、「どうしたら伝わるんだろう?」と躍起になっている自分を、ある時ふと冷静に見て笑っちゃったんです。
「どうして『人には伝わらない』前提で発想してるんだろう?」と。
まあ、実際、伝わらないという経験をしてきたのも事実ではあります。
ただ、伝わらないという前提でいたために見えていなかったこともきっとあったと今は思うんです。
たとえば、雨の日に頭痛になりやすい、という仮説(前提)を立てるとします。
実際、雨の日に頭が痛くなることが多いという経験からその仮説が立てられたわけですが、そうすると、雨の日に頭が痛くなると「やっぱり」と納得する一方で、稀に晴れた日に頭が痛くても「例外もある」と片付けたり、晴れてはいるけれど湿度は高いからきっそそれが関係している、というふうに仮説と結びつける方にどうしても考えがいくものなんですね。
けれど、実は天気ではなくて食べていたものに共通点があったかもしれないし、もっと言えば外の環境は一見同じでも体の中の状態は常に同じではありません。
にもかかわらず、一つの仮説に縛られていると仮説の外にある事実には目が行きにくくなって、ともすればなかったことにしがちになるのです。
前提は自分に都合よく変えていい
もちろん、わたしたちは何かを実証するために生きているわけでないので、どんな前提(仮説)を持っていたって構いません。
ただ、前提というのは知らずに身につけていることは多いとはいえ選んで変えることもできるものですから、どうせなら自分が幸せを感じられるような前提に変えていったほうが人生は楽しいということは言えるんじゃないでしょうか。
ここで冒頭の話に戻ります。
性善説と性悪説。
筆者は長らく性善説を推してきたのですが、それは「生まれながらにして悪い人はいない」という前提でいたほうが自分も含め人や社会を好きになれると感じていたからです。
でも、先日、性悪説を信じるという人と話をする機会がありました。
いわく「人はそもそもどうしようもない悪い生き物なのだという前提でいると、些細なことがとんでもなく素晴らしく感じられる」。
なるほどなぁ、と考えさせられました。
確かに、性善説でいたわたしは、凄惨な事件などがあると、「人は本来素晴らしい存在のはずなのにこんなことになって痛ましい」という反応をしていました。
でも、性悪説に立ってみると、「わたしも含め、みんながろくでもない存在からよりよくなろうと頑張っているんだよな。起こった事件は痛ましいけれど、もがき苦しんで生きようとする人間という存在は愛おしいな」という気持ちが出てくるのです。
言いたいのは、性善説より性悪説が良い、ということではありません。
自分の中に心地よさ、安心感、広がりを感じられるような前提を選びさえすればどんな前提でもいいのだと改めて思ったということです。
どんな前提を置けばそんな状態になるかは人によって違って当たり前ですし、同じ人でも時と場合によって変わるかもしれません。
現時点では性悪説を採用することにしたわたしは「どうしようもない人間なのに頑張っててえらい」と自分への愛おしさが爆上がり中。
それが良い悪いかわかりませんが、幸せではあります。
そして幸せを感じられている状態にあることこそが個人ができる超パワフルな社会貢献だと心から信じています。