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日本人とは何か~天皇のお仕事~


聖武天皇の勅にみる日本人の精神

大仏造営期の聖武天皇の頃は地震が頻発しておりました。
そもそも聖武天皇が大仏を作ろうとしたきっかけは長屋王の変の後、藤原四兄弟の死(長屋王の祟り)見て、神の力を感じたからだと思われます。

そして、地震頻発期に出した勅の内容をざっくり書くと

地震などが起こり、民の生活が良くならないのは(神の怒りを抑えることの出来ない)朕の責任である!
なので、神の怒りを抑えるために仏様を作ろう!

なんか、中国みたいですね 
悪政するから世が乱れ、災害が起こる。
儒教のような考えです。

そして解決策が仏教です。もうなんでもありです。

そもそも仏教は個人救済の宗教であります。
※出発は自身救済

ですが、すがれるものにすがるという迫力があります。
仏教を柱にして、鎮護国家を目指します。
いいものは取り入れるという日本の精神の基がここにある気がします。

しかし、聖武天皇のあとは天智系の天皇の回帰、藤原氏の政治により仏教による鎮護国家計画は破綻します。

※鑑真もわざわざ海を渡ったのに…
鑑真に渡航を依頼した長屋王も、鑑真の来訪を心待ちにした聖武天皇もいなくなった…

話が仏教に走ってしまいました。
ここの本題は、聖武天皇が神の怒りを収められなかった。という点に責任を感じているところです。

天皇のお仕事

失礼な書き方かもしれませんが、
天皇の最も大事な仕事は祭祀です。
いわゆる『まつりごと』

つまり神の力を上手く使う。
そのために神を楽しませる。

そのためには神にご奉仕する女性が必要ということで『斎宮』が天武天皇により作られました。

神の声を聞く女性シャーマン

巫女…
卑弥呼も本来は日巫女だと言われてますね。

日本の古代史で女性に神の信託が降りるシーンが何度かあります

①崇神天皇5年、疫病が蔓延
なんとかしたいと思った時にヤマトトトビモモソ姫に神が乗り移ります。

『オオタタネコに三輪山に大物主を祀らせろ』

崇神天皇はオオタタネコを探し出して大物主を祀ってもらうと疫病は消えた

②仲哀天皇が熊襲征伐に九州へ
軍議中に神功皇后に神が乗り移る
『貧しい熊襲など放っておいて、豊かな新羅を攻めよ』

しかし、仲哀天皇は言うことを聞かず熊襲征伐をしようとしたところ急死。

それ以外にもアマテラスが天の岩戸に籠った際もアメノウズメがシャーマン的に踊ることで神々を笑わせアマテラスを世に出す事に成功

古代より神の声を聞くのは女性の仕事のようです。
※ユダヤ教は男ばかり?

斎宮と言う名の巫女

こうして生まれた『斎宮』は神にご奉仕しながら、天皇に神の声を伝えることが大事な勤めとなりました。

斎王を選ぶのに亀の甲羅を焼く卜占がされていたれています。
それだけ神秘的な力が必要だったのでしょう。

神力を高めるため、野宮というところで下界とは切り離され、禊をします。
そして平安時代は平安京から5泊6日で伊勢に向かっていたようです。
そして、都に戻るのは父である天皇が死を迎えたときになります。
よって、斎宮になると父の顔は基本的に二度と見ることができないという厳しいものです。

天武天皇と持統天皇

天武天皇の治世で
神(男)⇒斎宮(女)⇒天皇(男)
という神祇祭祀の基本体系が完成しました。

しかし、せっかく築いた基本体系を速攻で壊したのが天皇の奥様・持統天皇でした
 
持統天皇の際は
神(女:アマテラス)⇒斎宮(女:天武娘)⇒天皇(女:持統)
という謎の女性による女性の神道になります。

斎宮の終焉

天武天皇が整えた斎宮制度は早々に破綻した。
しかし、聖武天皇など天武天皇の体系を繋いだ。
平城京の頃は伊勢に近かったのでまだ継続できた。

しかし、平安京時代になると
・遠路であること
・費用が膨大(職員が50~60人)
であること
天皇親政や院政となり、斎宮の相対的価値は低下

歴史上、後醍醐天皇の建武の新政が終わったタイミングで斎宮制度は終わったとされている。
しかし実質には1172年以降斎宮は派遣されておらず平安時代までしか機能していない。

祭祀

科学の発展した現代において祭祀などばかげたことかもしれない。
しかし、かといって全く触れることもないのはどうかと思う今日この頃。

非科学と感性、霊性を少し大事にした方がいいと思います。

斎宮跡を訪れて

近鉄・斎宮駅
斎宮の祖・倭姫宮
伊勢神宮内宮・五十鈴川

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