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千人伝(百七十一人目~百七十五人目)

百七十一人目 囚児

しゅうじ、は囚人から生まれた子であった。脱獄に成功した二人の囚人が出会い、生まれた。両親が再び獄に繋がれた際に、孤児となることを憐れんだ獄卒が彼を引き取り、監獄の中で育てられた。囚児は手を鎖で繋がれた囚人たちに頭を撫でられた。彼を囲む大人たちは日々変わっていった。脱獄したり、労役中の事故で亡くなったり、逃げようとして斬られたり、凍死・病死・縊死したり。

 もはや囚児の本当の親は誰か分からなくなるくらいに、獄の中は混沌としていた。
 囚児は獄の中で一生を過ごした。そこで暮らす者の中で唯一、何の罪も犯していない住人であった。

百七十二人目 震江

ふるえ、と読む。生まれた時から寒さに震えていた。極寒の地で産み落とされると、間もなく両親は凍死した。通りがかったクマに両親は食い散らかされた。次の食料としてクマの背に乗せて運ばれたが、彼女に手をつける必要のないほどに、その極寒地では人が倒れていた。

震江は育ての親のクマが猟師に撃ち殺されるまでは山の中で育った。震江は人里に降りてからもうまく人間社会に馴染めず、いつも怯えて震えていた。彼女の声は自然と常にビブラートがかかり、発する言葉は全て歌声のようであった。彼女の声に惚れ込んだ人々は、流行歌を歌わせようとした。人の顔の区別をうまくつけられない震江にとって、自分に向かってくる顔、顔、顔は全て凍死した誰彼に思えた。

震江は人里から逃れ、山に逃げた。猟師が何度か、鳥に紛れて震江の声を聞いたと噂した。その声も五年で途絶えた。

百七十三人目 家路

いえじ、と読む。
家路はいつも家に帰ろうとしていた。彼の家はとうに売り払われていたし、売り払われた後焼き払われていたし、焼き払われた後は洗われたり祓われたりもしていた。もはや存在しない家に帰ろうとしているのだから、帰れるはずもなかった。それでも家路は自分を待つ家族のために、読みかけの本のために、仲直り出来ていない妻のために、帰ろうとした。

家路が家に帰れなくなってから百年以上が経っても、家路は家に辿り着けないでいた。彼の妻子の子孫が家路とすれ違った時にだけ、「今の人どこかで見たような」という感慨を起こさせた。そのような機会は二度だけあった。子孫が振り返って家路の姿を確かめようとした頃、家路は道を曲がって消えてしまっていた。

百七十四人目 度音

ドーン、と読む。度音の足音は大きかった。度音のいびきは誰も横に寝ることの出来ない大きさだった。度音が怒鳴ると自身の鼓膜まで破れた。度音の周囲には聴覚を持たない者だけが残った。

度音の噂を聞きつけた時の権力者は度音を捕らえて口を塞ごうとした。だがどのような手垂れの者を送り込んでも、軍勢を向かわせても、度音の元に辿り着くまでに聴覚を失うので、命令系統が乱れ、職務を全う出来ないのであった。耳を塞いで帰ってくる者と、度音の周辺に住み着く者との半々であった。

度音の集落に湧き上がった火山の噴火に誰も気付かず、度音たちは滅んだ。

百七十四人目 黙々

もくもく、と読む。黙々は静かに過ごしていた。黙々は湧き上がる激情も叫びたい言葉もわけもなく流れる涙も押し潰して過ごした。人々は黙々をただの大人しい性格の者だと信じて、時に好意を寄せる者もいた。しかし人は沈黙と静寂にはあまり長くは耐えられないため、黙々から人々は遠ざかっていった。

黙々はその頭の中で溢れる言葉を書き記すこともなかった。誰かを罵ったり呪ったりしたことも知られることはなかった。黙々はある日、午睡の最中に、眠りの途中から死の側へと移った。黙々が二度と動かない身であることに人々が気が付くまで三日かかった。

百七十五人目 バナナ

バナナは元々は緑色の身体をしていたが、成長するにつれ黄色くなった。バナナは一皮むけると物腰が柔らかくなり、顔色も白くなった。バナナは兄弟たちと繋がっているうちは腐ることもなかったが、絆を断ち切られると、身体のところどころに黒い斑点が出来るようになり、やがては全身に広がっていった。そんな体質を変えようと一人のバナナは山に登り、海に潜り、雲の中で眠り、時には恋に溺れたり賭博で借金を抱えたりした。

そのような経験はバナナを強くもしたが、命を縮ませることにもなった。結局彼は一族全体の体質改善に失敗してしまった。かつて人として生きたバナナが今では果物でしかないのも、彼の挫折が原因である。



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