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千人伝(百八十六人目~百九十人目)

百八十六人目 綿菓子

わたがし、は甘く、とろけて、すぐに消えてしまうような、儚い子であった。親を含めて誰もが、綿菓子は長くは生きられないだろうと思い込んでいた。綿菓子が生きるにはこの世界はあまりに厳しく、強さを強制していた。人に舐められれば綿菓子の命は減った。人に撫でられれば綿菓子の命は削られた。人の口に含まれれば綿菓子は溶けた。

予想に反して綿菓子は二十歳を超えても生きていた。減って削られて溶けた綿菓子の身体は、次々にまた新しく内側から作られていった。芯となるものが折れない限り、綿菓子は新たな身体を纏うのだった。弱いと、脆いと、儚いと、周囲から思われていた綿菓子の中心には、固く折れない一本の芯があった。

転倒してその芯が折れた百二十歳の歳まで綿菓子は生きた。

百八十七人目 太陽

太陽は燃えていた。暑い夏が始まると毎年燃え始めるのだった。熱中症を恐れて人は太陽を避けた。日傘で彼を覆った。覆った端から溶けていった。太陽は自分の熱に苦しむこともあった。沸騰する血液は深刻な体調不良を引き起こした。それでも太陽は燃えないわけにはいかなかった。彼の輝きが、彼の熱が、人を生かした。植物を育てた。

太陽は地上にいるには熱くなりすぎた。太陽は追い立てられるように空へ追放された。ありったけの科学技術を注ぎ込んで、人々は太陽を宇宙へと放逐した。広すぎる空間で膨張した太陽は巨大な星となって輝き、燃え盛った。地球から時折日傘が飛んできたが、全て焼き尽くされた。

百八十八人目 鍵男

かぎお、は毎日鍵をかけずに家を出た。家のどこかで鍵をなくしてしまったのだが、探すのを諦めていた。鍵のかかっていない部屋に、誰かが入り込んでくるのではないかと、罠をかけた猟師のような気持ちで、毎日帰宅するのだった。しかしいつも期待は裏切られ、誰の気配もなく、何も盗まれてもいなかった。

鍵男は近所で同類の男を発見した。いかにも一人暮らし風の男が、鍵をかけずに外へ出ていくのを見たのだ。ある日有給を取り、彼の部屋に忍び込んでみた。鍵男の部屋に似た殺風景な部屋を想像していたが、そこにはあらゆる犯罪の痕跡が残されていた。同類と思っていた男は、ただ誰かに捕まりたくてわざと鍵をかけていなかったようだった。

鍵男はその部屋を徹底的に清掃して、犯罪の痕跡を消し去った。住人が戻ってくる前に家に帰った。翌日、その男がドアにしっかりと鍵をかけて家を出るのを目撃した。

鍵男の部屋には、生涯鍵男以外入ってくる者はいなかった。

百八十九人目 鰐男

わにお、は元は犬好きの男だった。散歩中の犬の方から彼に寄ってきて、甘えたり甘咬みしたりじゃれついたりした。飼い主が呆気に取られるくらいに、初対面の犬とも仲良くなれた。

散歩中のワニに出会った際にも、鰐男は犬と同じように接してしまった。犬と違い、ワニの牙は皮膚に食い込んできた。指先ではなく腕ごとかじられた。ワニには遊びのつもりでも、人にとっては致命傷に近かった。

腕は一本失ったが命を取り留めた鰐男は、ワニ化した。ワニに噛まれた際に稀に発症する奇病で、顔以外ワニのようになってしまうし、牙も尖る。凶暴になるわけではなかったが、鰐男は人々から恐れられるようになってしまった。しかし犬たちは以前と変わらぬ態度で鰐男に接し、彼を噛んだワニともすぐに和解した。その後同じ病を発症した連れ合いと過ごした。大型のワニの平均寿命は人とあまり変わらなかった。

※散歩中の犬と次々に触れ合っていた。大きい犬が来たなと思ったらワニだった。犬と同じように手を差し出したら根本まで噛まれた。という夢を見たので書いた。

百九十人目 泥猫

どろねこは暑さに溶けるような寝転び方で、地面に寝ている黒い猫を見つめているうちに、自分もあのように一日中寝ているべきだと決意し、そのようにした愚か者である。彼は猫ではなかったので、食事をくれる人はいなかった。彼は猫ではないのに、猫のように鳴きながら、広い公園で一日中寝転んでいた。彼は猫ではなかったから通報された。彼を追いかけてくる者からは、猫のように逃げ出した。

そのようにして彼は虫やら他の猫に与えられた餌やらを盗んで食べて生き延びた。人の大きな身体ではそのうち捕まってしまうと考え、猫ほどの大きさに縮んだ。地面に同化するように泥を纏った。そのうち身体も手足も猫に似てきたが、顔つきだけは少し圧縮された人の顔のままであった。公園の大規模な改装工事の際に重機に巻き込まれて泥猫は亡くなったのだが、その公園を徘徊する猫は定期的に人の顔になった。


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