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「言葉の日常」#シロクマ文芸部

 子どもの日常を記しながら、自分は子どもの頃どんなことを考えていたのかを思い出す。
「今自分が考えているように、他の人たちも様々なことを考えながら生きている」ということを想像してしまうと、正気ではいられなくなっていた気がする。誰もが頭の中で、人には届けられないような想いや言葉を充満させて吐き出せずにいる。狂ってしまわぬように、文章にしたり、絵に描いたり、歌にしたりする。そういうものだと思っていた。

 日々を抜き出して書く「耳鳴り潰し」という文章を毎日書くようになってから20日が経った。書き残すに足る印象的な出来事などそれほど多くはないから、子どもについて書くことが多い。書くべきことがいくつもあった日にはどうしても、書き漏れてしまう出来事がある。その日の中では些細な出来事としてくくられてしまうことでも、抜き出してみれば十分良い思い出である、というものもある。先日は公園で見つけたヘビとその後に出会った同級生のことを書いたが、久しぶりにトンネルの中でやった、木の枝をドラムスティック代わりにしてのセッションタイムのことは書き忘れていた。

 とめどなくつれづれと続ける。

 先週のシロクマ文芸部「春の夢」で書いた「桜の花びらを呑み込む蛇の話」でヘビを出した。すると現実でも、小説の舞台として想定した場所とそう遠くないところでヘビに遭遇した。こちらは桜を主食とする桜色の肌のヘビではなく、林の方から間違って公園の遊具のあるところに来てしまった、という困惑感丸出しの小さなヘビであった。

 書いてしまったことを現実が後追いしてくることはよくあるので、下手なことは書けないでいる。だから怪談風味のものやら家族が亡くなるものなどは書けない。といったことをどこかで書いた。

「架空書評」というのはどうだろう、と思いつく。私は日々本を読んでいるものの、感想とか書評といった形で文章にするのは稀になっている。読んでますよ、この本のこういうところがこうだと思いました、と日々発信し続けていれば、著者にも読書好きにもアピールできるのかもしれないが、うまく書けず、その影響は創作に活かす形にしている。それならばいっそ、ありもしない本の感想を書き続けていれば、いずれそのような本が自然と誰かの手によって書かれるかもしれない。読みたい本の題名を考え、その内容を紹介する。ならば書評である必要はない。「架空書籍紹介」で構わない。著者名はどうしよう。全て同じ人の本としてもいいのか。

 人は一冊の本である。岸部露伴のスタンドを使うまでもなく、人はどこを切り取ってめくってみてもその人の人生が現れてしまう。言葉の端々にも、何を書くかについても、何を書かないかについても、自然とその人のそれまでの人生で選んできたこと、選ばなかったことが現れてしまう。パラパラとめくった本の一ページに目を通して、自分に合うか合わないかが大体判別できるように、あなたの言動一つ、あなたの文章一行、あなたの歌声一節、それらに全てが現れてしまっている。あなたが好きだ、という時、それは目の前にある一行の文章だけではなく、あなたの人生全体を受け入れてしまっている、ということでもある。

 私の発見した小さなヘビはヒバカリという名前らしく、毒があると信じられていた頃に「咬まれたら命はその日ばかりとなる」というところから名付けられたのだという。実際には毒ヘビではなく、ヒバカリに咬まれて亡くなった人の記録はない。

 日々を記す。別口で虚構も書く。どちらが現実を書き写したものであるか、今のところは分かるものの、時間が経てば、このようなことは本当にあったのか、と事実の記録を見て思うかもしれない。また虚構でしかないものに対して、いや、こんなことが実際にあったのか、と思い違いをしてしまうかもしれない。区別するのが難しくなれば、区別しなければよい。一日を終え、その一日を書き起こす。空想し、その空想を書き記す。どこを抜き出し選んで書き起こすか。大きな違いはありはしない。一日の記録と一編の掌編小説と、どのみちその命はその日ばかりしかもたないかもしれず。一行の文章の寿命を決めるのは作者ではない。

(了)

今週のシロクマ文芸部「子どもの日」に参加しました。


入院費用にあてさせていただきます。