千人伝(六人目~十人目)
六人目 乙松
乙松は竜宮の住人の血を引いている。下働きの一人が抜け出して地上に出、人と結ばれた後の三代目で、見た目も内臓も普通の人と変わりはない。ただし海からは遠ざけられている。それというのも竜宮からやってきた初代が、地上に三年しか留まらず、海に戻ったためだ。
二代目はまだ地上で過ごしているが、幼い頃はしきりに海に入りたがって親を困らせたという。だからそもそも乙松は海というものを知らない。海を見せられず、教えられず育った。
だから大雨の後に出来た、足首が埋まるほどの水たまりで溺れ死んだ。
七人目 グザリ
グザリは男でも女でもなく、人というよりは獣に近かった。
グザリを発見したのは在野の物理学者であり、彼はグザリに言葉より先に物理学の法則を教え込んだ。教えられたところでグザリがそれを理解しているかは誰にも分からなかった。ただ熱心に話す物理学者の顔を見て頷くのだった。
グザリは物理学者の家の裏にある山から、食べられる草木や小動物を狩って食料とした。グザリが食べても問題ないものでも物理学者にとっては危険なものもあり、物理学者は人として体調を崩し、日に日に獣の側に近くなっていった。
既に難しいことを考えられなくなっていた物理学者は、変化していく自分の様子を絵にして残そうとしたが、どれもグザリにしか見えなかったという。
物理学者の同輩が数年振りに彼の家を訪ねた折には、二頭のグザリがいるばかりであった。二頭は近くの動物園に引き取られ、そこで初めてグザリと名付けられた。物理学者はグザリに名前を付けることを失念していた。共に二十年後に息絶えた。
物理学者の残した日記を元にしてこれを記した。合間合間にグザリが書いたらしき文字が現れ、数式めいているところもあった。
八人目 芋根
芋根は芋男と芋女の子どもで八人いるが全て芋根と名付けられた。男女四人ずつの芋根は成人前にそれぞれ一人ずつ亡くなり、男女三人ずつの芋根となった。戦争で男は全員亡くなり、女も流行り病と横恋慕による殺人により一人になった。ここで書く芋根は最後に残された一人の女のことである。
芋根は百七十三歳まで生きた。七つの戦争を乗り越え、自分の年齢と同じ数の合計百七十三人の子孫の顔を見た。早くに亡くなった子がいれば骨の一部を貰い受け、自身の一部とした。書き物を得意とした芋根だが、筆跡は芋根一人のものとはいえず、自身の中に数十人の別の人がいるようだった。
最後の言葉は「ちょっとおやすみ」という言葉で、幼子のような声色だったという。
九人目 佐藤
足がよく絡まる方の佐藤。
人より足が長すぎる佐藤は、歩いてる最中も寝ている間でもよく足が絡まった。
他に特筆すべきところはない。
十人目 藍堂
藍堂の父親は昔あるバンドのギタリストをしていた。とあるインフルエンサーが好きなバンドだと紹介したことでリスナーが増え、藍堂は初めて父の昔の職業を知ったのだった。メンバーの入れ替わりの激しいバンドであったが、藍堂の父はバンドの最晩年を除き、ほとんどのアルバムでギターを弾いていた。
父は耳が遠くなってから藍堂の言葉もほとんど通じなくなっていた。
「父さんって昔ギター弾いてたんだね」と藍堂が聞いても、そもそも藍堂を息子だと認識してくれていないため、「父さんって」の時点で、自分には関係がない話だというように、父は空を飛ぶ戦闘機を眺めているばかりだった。
藍堂は父の書いた曲や父の弾いたフレーズを聴きはしたが、好みのジャンルではなかったので、好きになれる曲はなかった。天候に関する言葉が父の書く詞にはよく出てくるので、だから今でも空ばかり見上げているのかと思った。
現代の人間にもリスナーが増えたので、藍堂の父にもいくらか金が入ってきた。藍堂はその金でキーボードを買って父の傍に置いてみた。父は電源の消えたキーボードを一本の指で叩き続けていた。ギターを弾けるだけの指の数はもはや残っていなかったので。
入院費用にあてさせていただきます。