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大きくなりすぎた金魚はどこへ行くのか

 大滝瓶太「ヒア・ゼア・エブリウェア」の終盤、金魚が動かなくなる。飼い主のイルという女性が友人に相談するやりとり。

「水槽が狭すぎるんだよ!」
 と返事があった。わたしが、
「もっと大きい水槽にしないとだめ?」
 といえばそれはちがうらしい。
「もうイルの家にはいられないんだと思う」
 とサキはいった。

 そしてイルは金魚を海へ放しにいく。そもそも死者たちが死後の生を生きる星の話だから、その海は普通の海ではない。大きく育ち過ぎた金魚はイルの家での水槽での生活を卒業する時期がきた。私はその部分を読んで「死は終わりではなく、違うステージに移行するだけではないか」などと思ったりした。この世で大きく育ち過ぎてしまった状態を死と呼び、この世からいなくなることは、大きな水槽や海へと居場所を変える、というだけに過ぎない、とか。

 小学校の教室に水槽が置いてあり、そこには大きくなりすぎた金魚たちがひしめきあっていた。小学五、六年生の担任だった女性教師が家から持ち込んだものだった。祭りの金魚すくいですくった金魚たちが成長したものだという。その教師は「小さな金魚でも大切に育てばこんなに大きくなる」「身近に生物を置いて、命の大切さを知る」みたいな教育目的で置いていたのかもしれない。他の生徒たちにはどうだったか知らないが、私にはひどくグロテスクで窮屈に見えた。実際何尾か死んだ。金魚の死体をすくい上げて校庭の隅に埋める、なんてことを先生とクラスのみんなでした覚えもある。

 水槽は教室で金魚は私たちだった、なんて暗喩をするつもりはないけれど、金魚たちにとって体をぶつけ合いながら水槽の中で泳ぐのと、校庭の隅で眠り続けるのとどちらが幸せだったのだろうか。
「狭い水槽の中だろうが、好きにやれてたよ。仲間と話したり、外には聞こえない歌を歌ったり。哲学について考え始めると退屈はしなかった」なんて、金魚は言うかもしれないが。

「ヒア・ゼア・エブリウェア」は金魚を海に放す手前で終わるから、金魚のその後の消息は知れない。最初に戻って夏祭りの屋台の中に舞い戻っているかもしれない。

 水族館で、大きな魚への餌として放たれた金魚が生き延び、大きくなる事例もある、という話を昔どこかで読んだ。水の入れ替えの際に水槽を掃除した時の、ヌルヌルした感触を、今でも覚えている。教室の金魚たちには、名前はついていなかった。


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