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読書ノート

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勉強する奴隷博士
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光晴・賢治・信夫・周一

午後はなにをしていたのかわからないうちに真っ暗になる。雪の心配で外を見ながら珈琲だの紅茶だのを飲んだりうたた寝したり(今朝は四時半の早起きだった)していたらしい。金子光晴が1953年頃の『群像』に書いた詩論(エッセイ)途中まで。一見とりとめのない「論文」的な意識の対極で書かれた文章なのだが、やはり表現の発想に底知れぬものが感じられてある意味おそろしい。こういう読書にもどったのは久しぶり。ここしばらくはシュタイナーばかり読んでいて、それが独逸語の解釈の勉強のようで捗らない。今読

個人主義についてのメモ

「個人主義」と「利己主義」が判別されないと全体主義に堕ちてしまう(自民党憲法改悪→全体主義はこのポピュラーな誤解を利用する)。個人主義の意味は吉野源三郎『君たちはどう生きるか』でも取り上げられてたような気がする。キリスト教は(仏教も?)究極的個人主義に基づく利他主義だと思ってる。 臨済を読み始めて(禅)仏教にもキリスト教に通じる今ここにいるおまえ自身が「仏」(基督教なら「神の宮」)であるという認識(開悟!)があることを知った。少なくとも、キリスト教圏で云う個人主義(indi

一色真理・詩集『幻力』 ・・・私的メモ

詩に関わる何かを語るのは限りなく気が重い。少なくとも「詩」が社会的に成立するための形而下的条件として詩集が自費出版できるだけの甲斐性と詩人仲間との交流が持続できるだけの社交性が必要だがぼくにはその双方ともに欠けているのだから。しかも今日は微熱気味で顔が火照っているときている。 文學は政治と違って嘘が効かないものであり、おためごかしの贅言はだれにでも見破られてしまう。おそろしいものだ。 一色真理『幻力(げんりき、と読むらしい)』と為平澪『生きた亡者』について。今日、前者一応

真理の島 仮象の国

判断表 二.判断の性質 無限判断 〔AはBではないものである〕 これが四月の命題である カントの判断表に従えば A=私はB=あなたではないものである 私=あらゆる存在の無限の否定の集積・・・・   命題〔A=私はB=あなたではないものである〕は肉體とエーテル体とアストラル体と自我としての存在=地上の人間の認識であるが、アストラル体と自我としての靈的人間=肉體を脱ぎ捨てた死後の人間において、その有効性を失う(R.Steiner)。 命題〔私はあなたではないものである〕に支

「人間は贖罪によつて救われるのであるが、贖罪は神人以外なすことができない」 聖アンセルムス

だから、 既に明らかになつたやうに、 かの天上の國がどうしても人間によつて完成せられなければならないとするならば、 しかも今われわれが語つた贖罪が、 卽ちそれを爲すことができるのは神だけであるが、 それを爲さなければならないのは人間だけである贖罪が、 行はれなければ、 天國が完成せられることは不可能であるとするならば、 必然的に、 神にして人間であるものがそれを爲さなければならないといふことになるだらう。  聖アンセルムス「クール・デウス・ホモ」第二巻第六章 (長沢信寿訳、

今の経済制度の下に於ては、 財貨、 人類を支配せり、 社會主義の社會に在ては、 實に人類をして財貨を支配せしめんと要す

然り、封建の時に於ては人類、 人類を支配したりき、 今の経済制度の下に於ては、 財貨、 人類を支配せり、 社會主義の社會に在ては、 實に人類をして財貨を支配せしめんと要す、 人類全體をして萬物の主たらしめんと要す。 豈に奴隷の制ならんや、 豈に個人を没却する者ならんや、 否な人生は如此にして初めて其眞價を發揚す可きに非ずや。 幸徳秋水「社會主義神髄」第五章 社會主義の効果 より    ☆ 二〇世紀初頭日本、秋水は、二十一世紀の日本でこそ猖獗を極めている経済至上主義(今の

夫れ然り革命は天なり、 人力に非ざる也。

夫れ然り革命は天なり、 人力に非ざる也。 利導す可き也、 製造す可きに非ざる也。 其來たるや人之を如何ともするなく、 其去るや人之を如何ともするなし。 而して吾人人類が其進歩發逹を休止せざるを希ふの間は、 之を恐怖し嫌忌すと雖も決して之を避く可からず、 唯之を利導し助成し、 以て其成功の容易に且つ平和ならんことを期すべきのみ。 社會黨の事業や唯如此きを要す、 曷んぞ漫に殺人叛亂を以て、 平地に波を揚げて快とする者ならんや。 幸徳秋水「社會主義神髄」第六章 社會黨の運

社會黨は既に社會が一種の有機體なることを解せり

一千八四七年、 マルクスが其友エンゲルスと共に、 有名なる「共産黨宣言書(マニフェスト、オブ、ゼ、コンミュニストパーチー)を發表して、 所謂階級戦争の由来歸趣を詳論して以て萬国勞動者の同盟を呼號してより以来、 社會主義は嚴乎として一個科學的敎義(ドクトライン)となれり、 又舊時の空想狂熱に非ざる也。 社會黨は既に社會が一種の有機體なることを解せり又自己腦裡の模型に従って之が改造を企つる者ある無きなり。 彼等は歷史の進化を信ぜり、 決して一日にして其革命の成功すべきを夢みる者に

ユディト記10.19、13.6-9、16.17 「ホロフェルネスの首」

彼等は、ユディトの美しさに驚き、また彼女ゆえにイスラエル人に驚いて、口々に隣の者に言った。「これほどの女たちのいる民を、だれが侮れよう。彼らを一人でも生かしておくのはまずい。ほうっておけば世界中を籠絡するに違いない。」 ・・・・ 彼女は、ホロフェルネスの枕もとの、寝台の支柱に歩み寄り、そこにあった彼の短剣を抜き取った。そして、寝台に近づくと彼の髪をつかみ、「イスラエルの神なる主よ、今こそ、わたしに力をお与え下さい」と祈って、力いっぱい、二度、首に切りつけた。すると、頭は体

ヘーゲル"哲学史講義” A.プラトンの哲学

プラトンもソクラテス派のひとりです。 かれはソクラテスのことばを傾聴した友人たちのなかでももっとも名高く、 世界の中心が意識にあり、 意識こそが世界の本質だというソクラテスの原理を正しくとらえた思想家です。 すなわち、 絶対的なものは思想のうちにあり、実在の一切が思想である、 というのがその原理で、 思想とは悪しき観念論の考えるような、 実在の反対側にあって頭のなかでそれと意識されるような一面的なものではなく、 世界をつらぬく一なるものとしての実在でもあれば思考でもあり、

ヘーゲル"哲学史講義” A.プラトンの哲学  ”秘教的プラトン、秘教的アリストテレスに対してヘーゲルは異議を唱える”

(プラトン哲学を把握する際の)べつの困難をいう人がいて、 かれらによると顕教的な哲学と密教的な哲学があるという。 テンネマンはいいます。 「プラトンはどんな思想家にもゆるされる権利を行使して、 自分の発見のうち、 つたえるにふさわしいと思えるものだけを、 信頼できる人だけにつたえた。 アリストテレスにもまた密教的哲学と顕教的哲学の区別があるが、 アリストテレスでは区別は形式的なものにとどまるのにたいして、 プラトンでは同時に内容にまでおよんでいる。」 なんと単純な考えでしょ

ヘーゲル"哲学史講義” A.プラトンの哲学  ”哲学はひとつである”

 ・・・哲学の本質はかわることがなく、 後続の哲学者は先行の哲学を自分のうちにうけいれるのが当然のことで、  ー かれの独自性はそれをどう発展させるかにかかっているということです。 哲学は芸術作品のような個別的なものではありません。    ☆   哲学の土台をなすのは一つの思想であり、 一つの本質であって、 真なる認識にかわってなにかべつのものがもちだされることはない、 ー 真なる認識は時代がかわってもかわらず登場してこなければならないのです。 (長谷川宏訳 ヘーゲル”哲学

ヘーゲル"哲学史講義” A.プラトンの哲学  ”存在と非存在の(動的)統一としての普遍的理念の真の姿

『ソフィスト』のなかでプラトンは、 運動と静止、 自己同一と相違、 存在と非存在にかんする純粋な概念ないし理念(種類)を探求しています。 かれはここでパルメニデスに反対して、 非存在もあるということ、 単純な自己同一物が他なる存在に関与すること、 一が多に関与することを証明します。 また、 ソフィストは非存在にとどまるものだといい、 非存在や感覚や多を自分たちの立脚点とするソフィストを反駁してもいます。 プラトンは、 普遍的な理念の真のすがたを、 一と多、 存在と非存在

ヘーゲル"哲学史講義” A.プラトンの哲学  ”ヘーゲルにとっての国家、世界精神”

・・・・ 国家体制をつくりだすには理論だけでは不十分だし、 国家体制をつくるのは個人では無い。 国家体制とは、 歷史によってつくりだされる神々しいもの、 精神的なものなのです。 国家体制をつくりだす世界精神の力にくらべれば、 一個人の思想など無にひとしく、 かりにそれが力を得て実現されたとすれば、 それを生み出した力は共同の精神の力にほかならないのです。 プラトンを立法者にしようという思いつきは時代にあわないものだったので、 ソロンやリュクルゴスは立法者になれたが、 プ