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【ショートショート】入浴剤温泉

「はい、今日は草津温泉に来ていま〜す」
 テレビからレポーターの元気な声が聞こえてくる。続いて芸人さんが横から出てきて小ボケをかまして、相方がツッコミを入れていた。温泉地の名所を巡り、グルメを楽しみ、温泉に入って、豪華な宿に泊まる。人の幸福をギュッと短縮したかのようなロケ番組を流し見しながら、私は大きくため息をついた。
「いいなぁ」
 漏れ出た独り言は、実に弱々しい。テレビに嫉妬していてはもはや終わりだ。
 このところ、ずっと疲れている。仕事は忙しく、帰ってくる頃には気力体力ともに尽き果てている。休日は朝遅く目が覚め、平日に溜まっていた家事をまとめて行う。
 温泉にでも浸かって、時間を忘れるくらいにのんびりしたい。同世代の友人たちは、インスタに海外旅行の写真とかを載せているが、私からすれば海外なんて行かなくていい。ただただ喧騒を忘れ、日々のストレスを忘れ、頭を悩ます人間関係をも忘れて、温泉でのんびりしたい。
「……はぁ」
 また漏れるため息。昔、ある人に「ため息をすると幸せが逃げていくよ」と言われたことがあるが、因果関係が逆だ。幸せが逃げているから、ため息をつくのだ。
 スマホを手に取った。1人で考え事をしていると、どうにも思考が袋小路に入り込む。出口のない迷路を永遠と彷徨い歩くのは大変だ。こういう時、私は妹に電話をかけて話を聞いてもらうことにしている。


「そんなに行きたいなら温泉、行けばいいじゃん」
 電話口で妹は、実に的確なアドバイスをしてきた。私があまりに「疲れた…」「温泉行きた〜い」と愚痴るものだから、彼女もやや持て余し気味だ。
「簡単に言わないでよ。温泉宿ってめちゃくちゃ高いんだよ。しかも休日は予約全然取れないし」
「別に本物の温泉じゃなくてもいいでしょ。スパリゾートとか。数千円はするけど、本場の温泉宿よりは安いし。泊まれるとこもあるみたいだし」
「近場にいいとこないのよ。スパリゾートのために遠出するのも……って感じだし。人も多いし」
「はぁ……。お姉ちゃんは、昔から自分で選択肢狭めるタイプだよね」
 呆れたような声。ええ、自分でも分かってますよ。面倒くさいタイプだって。だけど、金銭は生活費ギリギリで、毎日疲れている体では遠出すら億劫なのだ。休みだって自由に取れるわけではない。かと言って、休日は人が多い。旅行とは、金銭的・体力的・精神的な余裕がないと成り立たないものだと思う。疲労回復を目的にした温泉が、逆に疲労蓄積になる可能性だって十分にある。
「じゃあもう、入浴剤でも入れたら」
「バカにしないでよ。そんなの気休めにしかならない」
 少しムッとした。温泉に行けないなら、入浴剤でも風呂に入れてろ、ということか。合理的ではあるが、納得がいかない。私は温泉に入りたいのだ。
「バカにしてるのはお姉ちゃんだよ。最近の入浴剤は凄いんだから」
「えー」
「まず入浴剤は安いでしょ。これは温泉やスパリゾートに比べて破格」
「そりゃそうだよ。でも、満足感は出ないじゃん」
「そこは工夫次第だよ。例えば、スマホで音楽を流すとか。大自然の映像を流してみるとか。少し浴室内を暗くして、雰囲気を味わってみるとか」
「そんなの1人でやったら虚しくなりそう」
 と、私は言いつつも実は結構いいアイデアではないかと思うようにもなってきた。お風呂にお盆を浮かべて、その上で飲み物やお菓子を置くのはどうだろうか。本当の温泉でそんなことをしたら迷惑極まりないが、自分の家ならば文句を言う人はいない。衛生的にちょっと問題があるかもしれないが、倫理的にはOKだ。
「それに交通費も浮く。浮くというか、ゼロでしょ。移動の時間もない。お風呂上がってそのままベッドにダイブしてもいい」
「いや、でもさすがに髪は乾かさないと」
 もはや、私の言葉は反論になっていなかった。妹の話に、グイグイと引き込まれていく自分を感じる。よくない、実に良くないぞ。これでは、妹の口車に乗せられているだけじゃないか。だが、私は彼女の語る入浴剤の魅力に抗うことはできなくなっていた。
「入浴剤も色々あるからね。柚子とかレモンとかの香りとかなら、リラックスも期待できるし。本格的なのを感じたいのなら、檜の香りとかかなぁ。そこも気分によって変えられるし」
「確かに」
「炭酸が凄いやつもあるし、わざと濁るようになってるやつもある。ミルク風呂みたいになるやつもあるし」
「ミルク風呂いいよね。昔の奴だけど、ドラえもんの映画にあったよ」
「それは知らないけど……」
 妹には通じなかったが、ドラえもんの映画に確かそんなシーンがあった。スモールライトで小さくなって、ミルクのお風呂に入るのだ。あれは憧れた。
「まあ、ドラえもん云々は置いておいて、他にも発汗作用が凄いやつとか、本当に温泉の成分を分析して再現しようとしたガチのやつとかもあるし」
「ほー」
 妹の博識に感服した。元々、姉の私とは違って頭がいい。しかしまさか入浴剤の知識まで豊富とは。感心しきりである。
「まあ、今度やってみたら?」
「そうする。ありがとうね」
 通話が終わり、部屋には一人暮らしの静けさが戻ってきた。私は立ち上がった。もちろん、入浴剤を買いに行くのである。


「うわぁ」
 たっぷりと湯を張った風呂に、固形の入浴剤を落とす。ポチャンという音と共に、一気に無数の泡が吹き出す。水に色がつき、シュワシュワという炭酸の音が聞こえてきた。そしてほんのりハーブの匂い。私は物珍しいものを見るかのように、入浴剤が溶けていく様子をマジマジと眺めていた。今まで全く入浴剤を使った事がないわけではない。しかし、このように入浴剤がお湯に溶けていく姿を真剣に見るのは初めてだ。何やら科学の実験を見ているかのようで面白かった。
「あーはは、どんどん小さくなってる」
 溶けているのだから当たり前だが、私は形を変えてゆく入浴剤の様子が面白くて思わず笑ってしまった。客観的には全く面白いことではないはずなので、テンションが上がってるのかもしれない。
 ゆっくりと、しかし確実に入浴剤は溶けていく。お湯の色はどんどんと濃くなり、グリーンの鮮やかな水面が現れた。バスタブには、小さい泡がたくさんついて、炭酸水のようにシュワシュワ消える。少し色が鮮やかすぎて温泉の雰囲気とはやや趣が異なってしまったことが難点か。だが、いつもの風呂が別世界のようになったのは心が弾む。
 私は更にスマホをジッパーに入れて、バスタブの上におき、音楽を流した。ジャズを流した。家の狭い風呂には、スマホの小さなスピーカーでも反響し、あたり一面が音楽に溢れる。いきなり風呂が文化的な場所になった感じがして楽しかった。
「後は……」
 風呂の電気を消す。薄暗くなる浴槽に、スマホの光が眩く輝いた。100円ショップで買ってきたアヒルのおもちゃを湯船に浮かべ、水筒にたっぷりと水を入れて浴室の床に置いた。
 するとどうであろうか。わずか数百円と数分の時間で、自宅のお風呂が個室温泉へと早変わりである。確かに浴槽は体操座りをしないと全身が入らないくらいに小さいし、掃除しているとはいえ前の住人たちから代々受け継がれてきたカビは深く根を張ってはいるが、しかしそこにあるのは私だけの特別な入浴剤温泉であった。
(別世界だ……)
 本心からそう思った。入浴剤一つで、世界は変わった。いつもの入浴とはまた違う体験に、心が踊っている。
 足先をお湯に浸ける。
 ポチャン。
 水の音が、思ったより大きく響いた。つま先からお湯の温かさが伝わってくる。ズブズブと足がお湯に浸かっていく。浴槽を跨いで、今度は反対の足を入れた。そこから体をゆっくりと沈め、私はお風呂と一体になった。
「あー」
 オヤジのようなため息が漏れる。だが、一人きりの温泉なのだ。何を気にすることがあるだろうか。
 スマホからの音楽に耳を澄ます。鼻で入浴剤の華やかな香りを楽しむ。皮膚でお湯の温かさを感じる。
 そうか。五感で味わうと、お風呂はこんなに楽しくなるのか。
「はぁあ」
 ため息が出る。自分の境遇を嘆くため息ではなく、気持ちが蕩けて緊張がほぐれるため息。実に、実に幸せな気持ちになった。
(うわ、結構汗が…)
 湯船に浸かって5分ぐらいした辺りだろうか。玉のような汗が、肩や首周りにじとりと浮かぶ。少しぬるめに温度設定をしていたが、じわりじわりと汗が出てくる。私は浴槽のフチに置いていた水筒を手に取り、ゆっくりと水を飲んだ。体に水分が戻ってくる。汗をかいては水を飲み、また汗をかいて水を飲む。
 後は、仕事のことも恋愛のことも、拗れに拗れた人間関係のことも忘れて、ただぼんやりしていた。
 ポチャ。
 水道の蛇口から、水滴が落ちて、風呂の水面が小さく揺れた。それが合図だった訳ではないが、私は湯船から立ち上がった。
 シャワーを浴びて髪と体を洗う。本当の温泉ならば、まずは体を洗って湯船に入るのがマナーだ。しかしここは私の個人温泉。苦情も出ようがない。
 体をゆっくりとお湯で流す。一通り終わった後、私は再び湯船に入った。
 ボチャン。
 水の音が鳴って、私はまたも肩までお湯に浸かった。息を吸い、吐く。このままいつまでもお風呂に入り続けていたかった。しかしそうもいっていられない。体がふやけはじめていた。
 ザバン。
と、立ち上がった。そのまま軽くシャワーをし、体を拭く。脱衣所の空気が程よく冷たくて、心地が良かった。
 リビングに戻ると、冷蔵庫に手を伸ばす。中から取り出したのは、コーヒー牛乳。昨日、スーパーで買ってきたものだ。ガラス瓶のやつが無かったのが残念だが、代わりに紙パックに入っているものにした。コップに注いで、それを一気に飲み干した。
「ふっはぁ!」
 盛大に声をあげてみた。湯上りにコーヒー牛乳。奇跡のコラボレーションは、一体誰が考えたものなのだろうか。私は深い満足感を味わっていた。
 入浴剤温泉。私の家にだけにある秘湯。
「最高だなぁ」
 温泉の心地よい余韻に浸りながら、私はもう一杯コーヒー牛乳を飲んだ。


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