俺の町には崖がある。
といっても目も眩むような断崖絶壁とかではなく建物の二階くらいの高さだ。下も草の茂った平地で仮に落ちたとしても、まあそうそう死ぬようなことはないだろう。
もともとは崖上と崖下に二棟づつ建売住宅を作る予定だったらしいが思った以上に地質が脆かったとかで、そのままずっと放置されている。

この崖には、わらわらと近隣のオババたちが集まってきて、あれやこれやと立ち話をしている。低いとはいえ柵も何もないむき出しの崖にオババが集まっているのを見ると何やら不穏でシュールな光景ではある。
しかし、いつでも互いが互いを突き落せるという緊張感の中にこそ真のコミュニケーションは生まれるのかもしれない。アメリカの銃社会のような。

なぜオババたちが崖に集まるのかというと、別にレミングスのように集団自殺願望がある訳ではない。もともとオババたちは寺に集まっていた。
寺には休憩所があり、季節の草花が手入れされた美しい庭があった。しかしそんな楽園は長くは続かなかった。
この寺のバカ息子、シンヤが檀家から集めた本堂の屋根の修繕費で真っ赤なスポーツカーを買ってしまったのだ。
当然、シンヤは住職である父親から滅茶苦茶怒られたのだが、逆ギレして家を飛び出して一方通行の道を180kmで逆走。しまいには暴走族の集団に突っ込み、族に「交通ルールを守れ」と怒られるという無茶苦茶ぶりだった。

その事件のショックで奇麗な庭を手入れしてた奴の母親は脳の血管が切れて倒れ、一週間後に死んでしまった。
結果、庭は荒れ、草木も枯れ、屋根も直らず、寺はベクシンスキーの絵のような荒涼とした光景になり、オババたちは寺に寄り付かなくなった。
住職も完全に気が抜けて、すべてがどうでも良くなってしまい、法事の途中で読経が中断したままぼーっと木魚のソロパートをやってしまうというアンビエントな音楽性を打ち出すようになった。

なんでそんなに詳しく知っているかというとシンヤは俺の小中の同級生であり、奴にとって俺はほぼ唯一の友人だからだ。こいつには昔デカいクワガタを拝み倒して譲ってもらった恩義がある。
それと信じられないくらいのバカは、自分に迷惑をかけてこない範囲で観測するぶんにはエンターテイメントとして面白いので、いまだにつるんでいる。
母親の葬式の日、奴は「俺のせいでお母さんが死んでしまった」と俺の家で一晩中泣いた。さすがに気の毒だったので泊めてやったが、本当に可哀そうなのは奴のご両親の方だろう。

寺を見捨てたオババたちがなぜ崖に目をつけたのかは諸説ある。
近所にゲートボールで使っている公園もあり、そっちで集まればよいのでは、とも思うのだが不思議と彼女らは公園にはいかない。公園に行くときはゲートボールときっぱり決めているようだ。
プレイ中の彼女らは信じられないくらい寡黙で集中している。鷹の目をしたスナイパーのようだ。アスリートとしての自分とオフを切り離すために崖に行くのかもしれない。
また、崖は住宅街とドラッグストアを併設する大型食料品店をつなぐ道の中間にあるという地理的要件も大きいだろう。
若者の興味はセックス・ドラッグ・ロックンロールと言われるが、オババたちの興味は特売・ドラッグ・氷川きよしであり、そのうちの二つを抑えた大型食料品店の存在は大きい。そこに向かうものとそこから帰る者が情報交換する場所として崖がちょうどよかったのかもしれない。
やがて、会話のみを目的としたオババが最初から崖を目的地とし、そこで待機しては通りがかる仲間をつかまえて話し込むようになり独自のコミューンが発達したのではないかというのが俺の推論である。

さて、なぜ俺がこんなに崖について関心を持っているかについて語らねばなるまい。

告白すると俺は酒を飲んだ帰り、この道を通り崖で放尿する習慣がある。
闇夜を切り裂く小便が、いつもとは比較にならない飛距離の放物線を描き崖下に放たれていく様は痛快だ。なんなら俺は酒を飲みたいのではなく崖から小便をしたいがゆえに酒を飲んでいる節がある。
そんな俺が昼にも崖から小便をしたい、そして自分の尿のしぶきに虹が掛かるのが見たいと思うようになるのは必然だろう。ゆえにオババのいなくなるタイミングを計るため、俺は日夜崖について考察を巡らせているのである。

「いいじゃん。やろうよ」

そうシンヤが言った。
こいつは今日、失恋したとかで、またうちに泣きに来ていたのだ。
相手は、一日に朝昼晩違う男とホテルに行っては先々のアメニティを根こそぎ持ち帰りメルカリで売るという三面六臂の活躍で「阿修羅」と恐れられるとてつもないズベ公だったが、シンヤは阿修羅に本気でほれ込み結婚を前提に交際していたのだという。

しかし浮気を恐れたシンヤは阿修羅の内ももの付け根に自分の名前を彫らせることにした。
「シンヤ命」そう彫られるはずだったが、シンヤが金をけちってよくわからない中国人のやってるタトゥースタジオに行かせた結果、「ツソヤ命」と彫られてしまい、激怒していなくなってしまったのだという。
俺はツソヤ君大変だったね、などと言って奴をからかって首を絞められたりしているうちに酔っ払い、拍子でぽろっと崖の話、そして小便に虹を架けたいという誰にも話したことのない夢を語ってしまったのだった。

シンヤはそれに妙に乗り気だった。昔は夏のお盆は檀家を一軒づつ回り家ごとにお経を唱えてたが、例の事件以来、住職の気力が尽きているので、檀家に集まってもらい本堂で合同の供養をすることになったらしい。荒廃した寺とはいえ、その時は人が集まるという。
その隙に俺たちは崖に行き小便に虹を架ける。一種の陽動作戦という訳だ。なるほど悪くない。俺は無言で頷き、シンヤと握手した。

そしてその日が来た。
信じられないくらい暑い、そして熱い日だった。
俺たちは無言でスポーツカーを飛ばした。カーステレオからは気怠いヴィジュアル系バラードが流れ、歌の中では何かが降り注いでいた。そう、確かこのバンドの名前も確か、フランス語で虹を表すはずだった。洒落ているじゃないか。今日という日にもってこいだ。俺たちも降り注がせよう。小便を。

やがて崖についた俺たちは雑にドアを叩きつけて車を降り、外したサングラスを胸ポケットにしまった。
OK。膀胱はビールでパンパンだ。いつでもいける。

俺たちは悠然と崖っぷしに立った。荒野の決闘のガンマンなら向かい合わせのところだが横ならびだ。そしておもむろにガンを取り出し、放った。尿という弾丸を。

……ブシャー!

真夏の青空に尿がアーチを描き吸い込まれていく。美しい。これはもうアーチじゃない。アートだ。
そんな解放感に包まれながらも、残念ながら虹は出なかった。でもまあいい。現実ってそんなものだ。

「おい見ろ! 出た! 出た!」

横を見ると、なんとシンヤの小便に虹が出ていた。見事な虹が。
なんで? 一瞬、激しい羨望と嫉妬が俺を太陽より烈しく灼いた。神よ、仏よ、なぜ俺ではなく奴なのですか?
だが、その気持ちは一瞬でかき消えていった。

シンヤの本当に心の底からの笑顔。
母親が死んでからみたことのなかったそれは本当に無垢で無邪気だった。
ツンとする草の匂い、ギラギラの太陽。シンヤのちっちゃいチンチン。その先に架かった虹の橋。すべてが嘘のように美しく、完全だった。今ここが世界なんだと掛け値なしのリアルが俺の脳天を貫いた。すごい。俺は感動のあまり泣いていた。

しかし二秒後、足元が崩れて最高の笑顔のまま滑落していくシンヤを見てそれは爆笑へ変わっていった。

(完)




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