ヨガと禅と太極拳の違い

なんとなくヨガ、座禅、太極拳は瞑想的というイメージから互換性があるように思われていますが先日youtubeでヨガの達者な人を見ていて、あ、これは全然違うものだな、と思いました。どう違うかちょっと考察してみたいと思います。

ヨガの世界観

ヨガの人は難しいポーズ(アーサナ)でバランシングします。これは筋力で支えるのではなくその位置でぴたっと定まる重心点を作ることでやっています。重心点は重さの座標とも言い換えられます。重力の働く垂直軸と、地面に並行にある水平の横軸。その中でどんなポーズになっても中心となる不動の点の感覚を作り安定しようとします。
安定を得ようとしているということはこの世界に垂直や水平というものが存在していることを受け入れるということです。

禅の世界観

一方、座禅では身心脱落(しんじんとつらく)と言い、全く動かないことでむしろ自分の座標感覚を無くしていきます。
これは言い換えれば上も下もないし右も左もないわけで、ある意味、五感で感知している世界は真実ではない、ということです。

かの有名な禅僧、一休さんは将軍に屏風から虎を出せと言ったり、このはし渡るべからずという橋を真ん中は端(はし)ではないからと言って渡ったりしたトンチ話に事欠きませんが、これはマーベルヒーローのデッドプールがコミックや映画の登場人物でありながら読者、観客などの存在を知覚し「第四の壁」を超えて話しかけてきたりするのに似ています。
地面を這う虫からみると並行はあっても垂直はないけれど鳥には別の世界が見えているように、人間が今感知している世界の見方よりさらに高次の知覚がある、という考え方です。
なので片手で拍手をするとか、小さいひょうたんに大きい鯰を入れるとか、不思議の国のアリスのような知覚があり、綺麗も汚いもないし、0と無限の区別もないし、楽しいも悲しいもなく、そう知覚する自分がいるだけ、と感じます。過去と未来と現在の区別もないし、親が子より後に生まれたり親子が同時に生まれたりもすると言います。

なんじゃそりゃ、と思うかもしれませんが、現代の我々は昔の映像を記録しておいて明日観ることも出来るし、私の本業である武術を教えていると、弟子によって師になること、子に育てられ親になることは実際あります。技においても、手を出させる、先に仕掛けてきた相手が後手になるなど結果が原因を追い越して因果が逆になるものもあります。

余談ですが西洋絵画の遠近法を江戸時代の人は驚いたり、テレビがモノクロの時代は色付きの夢を見る人は狂人と言われたりしてたそうですが、3Dテクスチャー、立体映像、ヴァーチャルリアリティを経験して育った場合、世界や座標軸に対する感じ方はだいぶ変わると思います。ガンダムで若者がニュータイプになったのも無重力で立体的な機動戦闘をすることで脳が垂直や水平とは別の世界認知の機能を獲得したともとれます。科学がサーモグラフィやレントゲンを発明したようにもう一段階別の視点がある、というのは事実でしょう。

小林泰三のSF小説「酔歩する男」でも時間は連続体ではなく人間の脳に時間を秩序立てて順番に把握する機能があって、それが壊れた場合、寝て起きるたびに時間が飛んだり戻ったりしてしまうという話がありました。
仏教でいう輪廻も、時間が円環構造であり、それがフラットな一方通行に感じるのは知覚の問題だから、回転するロールの中に打たれた点としての自己の座標をとっぱらい、ロールを外から見る存在に解脱しようという考えがあります。

太極拳の世界観

太極拳は動く禅ともいわれています。確かに禅と同じく不立文字(ふりゅうもんじ)、言語化できない/しない世界ですが、太極拳は天地人といった垂軸もあれば姿勢のポジションなど、平行、重心の存在があり、それを使って凧揚げやサーフィンのような浮遊感を遊ぶ、愉しむという感覚があります。
なので、目に見える世界を実相ではないから解脱しようとする禅とは違い、この世界を味わい尽くし楽しみ尽くそう、というスタンスです。
道教の修業、不老不死の仙人になろうという一環なことからも分かるように、解脱ではなくずっと遊んでいたい、この毎日が続いてくれればいいのに、という世界と生命への全肯定があります。

なので座禅でニヤニヤしてたら警策でひっぱたかれますが、太極拳をしかめっ面でやっていたらむしろ珍妙なことで、これはどこまでいっても苦行ではなく遊行。かなり享楽的なものだと言えます。
ただ、永遠に遊んでいるためにはやはり時間が一方通行で進んでいき、人は死に向かい老いていく、という認識からは自由になる必要があるので、部分的に修行が禅的な要素があります。
自分を老いたと感じず、死ぬまで死を意識しなければ他人から見れば死んでいたとしても本人の知覚では不老不死と変わりません。リポ払いは利子が膨らんで返せなくなるので損に見えますが、盛大に借りて豪遊したあとぽっくり死んでしまえば本人的には億万長者なのに似ています。

また、太極拳がヨガや禅と違うのは、やはり内家拳と言われるように出家の思想ではなく世間知・実用につながった「俗」な部分もあるということです。
健康になりたい、護身に役立てたい、というのもそうだし、太極拳のノウハウはおそらく恋愛や仕事、親子の人間関係やプログラミング、製品開発など、役に立てることが出来てしまいます。普遍的な真理は求めていても世の中を虚妄と捉える悟りは求めていない、とも言えます。

それがなぜ禅と同一視されてしまうかは太極拳のバックボーンであるタオイズムのもつ万物斉同という思想が諸行無常、色即是空といった仏教思想と似ているからですが、これも似ているけど同じではないようです。

仏教だと目の前にバケツがあってこれは何かと尋ねられたら、時間の座標を外してみればかつては鉄鉱石であり、今はバケツの形をしているがやがてゴミになるもので本質は空であるとか、あらゆるものは仏であるとか、そうした抽象の話になっていきます。
太極思想だとバケツからバケツという名称と固定観念を外して捉えるのは似ていても、叩いて楽器にしたり被って兜にしてみたり、バケツを遊びつくす、無限の可能性がある、という見方をするので、バケツの形と機能に対しては捨象しません。

まとめると

非常にざっくりとした考察をすると、

【世界観】
ヨガ→知覚している世界を肯定
禅→知覚している世界は多面体の一部にすぎない
太極拳→世界をもっとエンジョイしたい

【自己観】
ヨガ→座標を安定させたい
禅→座標軸から解脱したい
太極拳→たゆたって遊んでいたい

ということが出来るのではないでしょうか。おわり。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?