武術からみる東洋思想 1 赤子に還る

生徒から疑問があったので書いてみます。
といってもまあことさら学ぼうとしなくても太極拳をやってれば大体タオイズム的なものは勝手に入ってくるし、最良のテキストは自己自身であり万物なのですが。

畢竟、悟りとはなんでしょう? それを求むるに禅では未生以前の我という公案を立てます。生まれてくる前の自分とは何か、という自己の最小単位がわからなければ自分の言っていることが民族、国家、時代によって変化する後天的学習の刷り込みなのか、普遍的事実なのかわかりません。

生まれてくる以前のことを認知するには今の自分の認知では及ばず、なので思料ではなく非思料の座禅によって近づこうというのが禅のアプローチですが、タオは未生以前、マイナスの世界を扱いません。有、1を最小単位として扱います。つまり生まれる前ではなく生まれたての赤子をスタートとしてまたその赤子に還る円環のルートを道、タオとして捉えます。
変化しないものを見つけることで絶対的真理に到るのではなく、変化し続けるサイクルそのものに永遠性を見出すともいえます。四季、自転、公転、草木が花や実をつけて枯れ、新しい種子を残すことや人の営みなど、再現性のあることは大体、円環構造で、再現性がある円環構造ならそりゃもう真理だろ、といっていいでしょう。

理を公式ではなく時間、空間的な広がりのあるモデル、構造として捉える。だからテキストと相性が悪い。ひとつの水槽の中にも微生物がいて、それを食べる魚がいて、その魚の糞で育つ水草があり、水草がまた何かを育て…という循環があるように、世界の構造は立体的で重層的なものです。
では赤子がスタートとしてなぜゴールでもあるのか、というと、たとえば語学を例に引くとわかりやすいです。日本人が英語を学んだ場合、脳内で翻訳変換作業がおきます。しかし赤子は語学の学習にその余計なプロセスをはさまずに、意味と言葉を直結して理解していきます。もし大人になっても別の外国語をネイティブの赤子のように吸収できたなら、と考えると赤子のアドバンテージがわかります。運動でもなんでも、難しいと思うことは、既にスキルスロットに別のスキルが入っているから上書きが難しいわけです。

太極拳がタオイズムの流れにあるということは、一つの流派性に特化した身体になるということではなく、引き算によって何にでもなれる赤子のような状態になろうということをやっています。
そして赤子を観察すると面白いことが分かります。モロー反射、バビンスキー反射など、生後数か月まである原始反射の存在です。これらはデフォルトで備わっているものですが、やがて消えていきます。
はいはいやつかまり立ちなど、新しいスキル獲得のほうに目がいきますが、赤子の段階で、一番重要な学習とはそれまでに必要だった能力を捨ててリセットすることである、という人間の本質、核心が顕れているわけです。

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